第2話 死因:熊
夜の山は、静かすぎるほど静かだった。
テントの中、シュラフにくるまった俺は、うっすらと目を開けた。
……何か、変だ。
さっきまで聞こえていた沢の音が、やけに遠い。
風もない。
虫の声もない。
嫌な静けさだった。
腕時計を見る。午前一時十七分。
「……トイレか」
眠気混じりに苦笑する。
山ではよくあることだ。
だが、次の瞬間。
――ざり。
テントのすぐ外で、砂利を踏む音がした。
全身の眠気が、一瞬で吹き飛ぶ。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
……近い。
近すぎる。
息を止めて耳を澄ます。
ざり。
ざり。
ゆっくりと、何かがテントの周りを歩いている。
重量感のある足音。
軽い獣じゃない。
頭の中に、昼間見た土の抉れが浮かぶ。
あれは――爪痕だったのか。
背中を、冷たい汗が伝う。
だが、パニックになっている暇はない。
俺は静かに起き上がり、枕元の熊スプレーを握った。
もう片手でナイフを掴む。
呼吸を整える。
相手が何であれ、こっちは丸腰じゃない。
熊避けスプレーは、近距離なら効く。
目を狙えば、怯む。
その隙に逃げる。
何度も頭の中でシミュレーションしたことだ。
……だが。
次の瞬間。
ドゴォッ!!
テントの横が、外から何かに突き飛ばされた。
「っ!?」
ポールが軋み、布がたわむ。
視界が揺れた。
デカい。
想像以上に。
俺は歯を食いしばり、ジッパーに手をかけた。
閉じこもってたら終わる。
テントは檻だ。
意を決して、外へ飛び出す。
冷たい夜気。
焚き火は、ほとんど熾火になっていた。
その赤い光の向こうに――いた。
「……うそだろ」
思わず声が漏れる。
そこにいたのは、巨大なヒグマだった。
四つ足のままでも、俺の腰ほどある。
毛並みは夜に溶けるほど黒く、鼻先から白い息が漏れている。
小さな目が、真っ直ぐに俺を見ていた。
獲物を見る目だ。
ぞわり、と本能が悲鳴を上げる。
逃げろ、と。
だが、足が動かない。
でかすぎる。
怖すぎる。
熊は、ぬっと一歩踏み出した。
地面が、沈む。
「来るな!!」
俺は叫び、スプレーの安全ピンを抜いた。
熊が走る。
速い。
巨体なのに、信じられない速さ。
「うおおおっ!!」
噴射。
白い霧が、熊の顔面にぶち当たる。
熊が咆哮した。
「グオオオオォッ!!」
効いた――!
目を閉じ、頭を振る。
今だ!
俺は踵を返し、沢の方へ駆けた。
足場の悪い夜道を全力で走る。
枝が顔を打つ。
石に足を取られる。
でも止まれない。
背後で、木が折れる音。
来てる。
まだ来てる!
「くそっ……!」
スプレーで止まらないのかよ!
息が切れる。
肺が焼ける。
沢まで行けば、岩場で時間を稼げる。
水に入れば――
その瞬間。
足元の根に引っかかった。
「しまっ――」
派手に転ぶ。
受け身も取れず、肩から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
立て。
立て!
だが、振り返った先には、もういた。
黒い壁。
熊。
月明かりの中、その巨大な影が、俺の上に覆いかぶさる。
牙。
爪。
生臭い息。
目が合った。
そこに感情なんてない。
ただ、自然。
ただ、捕食。
「やめ――」
言い終わる前に、衝撃が来た。
ドンッ!!
巨大な前脚が、俺の胸を打った。
「がっ……!」
空気が全部、肺から抜ける。
肋骨が折れる音が、自分の中から聞こえた。
次の瞬間、身体が宙を舞っていた。
木に叩きつけられる。
背骨に、焼けるような痛み。
息が、できない。
視界が揺れる。
吐き気。
血の味。
だが、熊は止まらない。
のそり、と近づいてくる。
逃げなきゃ。
立たなきゃ。
腕に力を入れる。
……動かない。
右腕の感覚がない。
熊が鼻先を寄せてきた。
熱い息。
鉄みたいな匂い。
俺は、震える左手でナイフを握りしめた。
「……ふざけんなよ」
喉の奥から、笑いが漏れた。
「ソロキャン、ナメてたわけじゃ……ねえんだよ……」
熊が、唸る。
その巨顔が迫る。
俺は最後の力で、ナイフを振り上げた。
「うおおおおおおッ!!」
刃が、熊の頬を浅く裂いた。
血が飛ぶ。
熊の目が、細くなる。
次の瞬間。
牙が、俺の肩に食い込んだ。
「あああああああああああッ!!」
肉が裂ける。
骨が軋む。
熱い。
痛い。
痛い痛い痛い。
熊はそのまま、俺の身体を咥えたまま振り回した。
空と地面が、何度も入れ替わる。
木。
岩。
星空。
ぐしゃ。
何かが折れた。
もう、どこが痛いのかも分からない。
視界の端で、焚き火の残り火が、遠くに見えた。
赤い、小さな光。
ああ。
あったかかったな。
今日の飯、うまかったな。
もっと、キャンプしたかった。
もっと、生きたかった。
でも。
最後に思ったのは、たったひとつだった。
「……熊だけは……嫌だった……」
その瞬間。
熊が俺の身体を、地面に叩きつけた。
世界が、砕けた。
闇が、来る。
音も、痛みも、全部、消えていった。
ただ、最後に。
誰かの声が、聞こえた気がした。
『――まだ、終わりじゃない』
そして、俺は死んだ。




