第一章 生き残るために
第一話 焚き火の向こう側
春先とはいえ、山の夜はまだ冷える。
日が傾き始めた頃、俺、相沢崇は、手慣れた動きでバックパックを地面に下ろした。
「よし。今日の寝床はここだな」
川のせせらぎが近く、風は弱い。頭上には高い杉。地面はほどよく乾き、水はけも悪くない。
初心者なら景色で選ぶ場所だが、俺は違う。
まず見るのは風。
次に水。
最後に、逃げ道。
山は好きだが、舐めたことは一度もない。
背負ってきたザックから、小型の折りたたみノコギリを取り出す。周囲に落ちていた枯れ枝を拾い、太さごとに手際よく分けた。
細い枝。
中枝。
太薪。
焚き火は勢いじゃない。順番だ。
「まずは火口だな」
杉の皮を薄く剥ぎ、ナイフで細く削る。ふわりと広がる木の繊維。
そこにフェザースティックを何本も作る。木肌に刃を滑らせるたび、薄い羽根のような削り屑が花びらのように開いていく。
第二話 死因:熊
夜の山は、静かすぎるほど静かだった。
テントの中、シュラフにくるまった俺は、うっすらと目を開けた。
……何か、変だ。
さっきまで聞こえていた沢の音が、やけに遠い。
風もない。
虫の声もない。
嫌な静けさだった。
腕時計を見る。午前一時十七分。
「……トイレか」
眠気混じりに苦笑する。
山ではよくあることだ。
だが、次の瞬間。
――ざり。
テントのすぐ外で、砂利を踏む音がした。
全身の眠気が、一瞬で吹き飛ぶ。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
……近い。
近すぎる。
息を止めて耳を澄ます。
ざり。
ざり。
ゆっくりと、何かがテントの周りを歩いている。
重量感のある足音。
軽い獣じゃない。
頭の中に、昼間見た土の抉れが浮かぶ。
あれは――爪痕だったのか。
背中を、冷たい汗が伝う。
だが、パニックになっている暇はない。
俺は静かに起き上がり、枕元の熊スプレーを握った。
もう片手でナイフを掴む。
呼吸を整える。
相手が何であれ、こっちは丸腰じゃない。
熊避けスプレーは、近距離なら効く。
目を狙えば、怯む。
その隙に逃げる。
何度も頭の中でシミュレーションしたことだ。
……だが。
次の瞬間。
ドゴォッ!!
テントの横が、外から何かに突き飛ばされた。
「っ!?」
ポールが軋み、布がたわむ。
視界が揺れた。
デカい。
想像以上に。
俺は歯を食いしばり、ジッパーに手をかけた。
閉じこもってたら終わる。
テントは檻だ。
意を決して、外へ飛び出す。
冷たい夜気。
焚き火は、ほとんど熾火になっていた。
その赤い光の向こうに――いた。
「……うそだろ」
思わず声が漏れる。
そこにいたのは、巨大なヒグマだった。
四つ足のままでも、俺の腰ほどある。
毛並みは夜に溶けるほど黒く、鼻先から白い息が漏れている。
小さな目が、真っ直ぐに俺を見ていた。
獲物を見る目だ。
ぞわり、と本能が悲鳴を上げる。
逃げろ、と。
だが、足が動かない。
でかすぎる。
怖すぎる。
熊は、ぬっと一歩踏み出した。
地面が、沈む。
「来るな!!」
俺は叫び、スプレーの安全ピンを抜いた。
熊が走る。
速い。
巨体なのに、信じられない速さ。
「うおおおっ!!」
噴射。
白い霧が、熊の顔面にぶち当たる。
熊が咆哮した。
「グオオオオォッ!!」
効いた――!
目を閉じ、頭を振る。
今だ!
俺は踵を返し、沢の方へ駆けた。
足場の悪い夜道を全力で走る。
枝が顔を打つ。
石に足を取られる。
でも止まれない。
背後で、木が折れる音。
来てる。
まだ来てる!
「くそっ……!」
スプレーで止まらないのかよ!
息が切れる。
肺が焼ける。
沢まで行けば、岩場で時間を稼げる。
水に入れば――
その瞬間。
足元の根に引っかかった。
「しまっ――」
派手に転ぶ。
受け身も取れず、肩から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
立て。
立て!
だが、振り返った先には、もういた。
黒い壁。
熊。
月明かりの中、その巨大な影が、俺の上に覆いかぶさる。
牙。
爪。
生臭い息。
目が合った。
そこに感情なんてない。
ただ、自然。
ただ、捕食。
「やめ――」
言い終わる前に、衝撃が来た。
ドンッ!!
巨大な前脚が、俺の胸を打った。
「がっ……!」
空気が全部、肺から抜ける。
肋骨が折れる音が、自分の中から聞こえた。
次の瞬間、身体が宙を舞っていた。
木に叩きつけられる。
背骨に、焼けるような痛み。
息が、できない。
視界が揺れる。
吐き気。
血の味。
だが、熊は止まらない。
のそり、と近づいてくる。
逃げなきゃ。
立たなきゃ。
腕に力を入れる。
……動かない。
右腕の感覚がない。
熊が鼻先を寄せてきた。
熱い息。
鉄みたいな匂い。
俺は、震える左手でナイフを握りしめた。
「……ふざけんなよ」
喉の奥から、笑いが漏れた。
「ソロキャン、ナメてたわけじゃ……ねえんだよ……」
熊が、唸る。
その巨顔が迫る。
俺は最後の力で、ナイフを振り上げた。
「うおおおおおおッ!!」
刃が、熊の頬を浅く裂いた。
血が飛ぶ。
熊の目が、細くなる。
次の瞬間。
牙が、俺の肩に食い込んだ。
「あああああああああああッ!!」
肉が裂ける。
骨が軋む。
熱い。
痛い。
痛い痛い痛い。
熊はそのまま、俺の身体を咥えたまま振り回した。
空と地面が、何度も入れ替わる。
木。
岩。
星空。
ぐしゃ。
何かが折れた。
もう、どこが痛いのかも分からない。
視界の端で、焚き火の残り火が、遠くに見えた。
赤い、小さな光。
ああ。
あったかかったな。
今日の飯、うまかったな。
もっと、キャンプしたかった。
もっと、生きたかった。
でも。
最後に思ったのは、たったひとつだった。
「……熊だけは……嫌だった……」
その瞬間。
熊が俺の身体を、地面に叩きつけた。
世界が、砕けた。
闇が、来る。
音も、痛みも、全部、消えていった。
ただ、最後に。
誰かの声が、聞こえた気がした。
『――まだ、終わりじゃない』
そして、俺は死んだ。
第三話 裸の雪原
寒い、なんてもんじゃなかった。
意識が浮かび上がった瞬間、俺は肺の奥まで凍りつくような空気を吸い込んで、激しく咳き込んだ。
「っ……! げほっ、げほっ……!」
喉が焼ける。
いや、焼けるんじゃない。裂ける。
鼻の奥が痛い。肺が痛い。耳が痛い。全部痛い。
目を開けた。
白だった。
どこまでも、白。
空も、地面も、吹きつける雪も、全部が白い。
「……は?」
俺は呆然と呟いた。
冷たいものが、背中に刺さる。
いや、背中どころじゃない。尻も、足も、腕も、全部だ。
俺は――裸だった。
「うそだろおおおおお!?」
叫んだ瞬間、口の中に冷気が流れ込んできて、思わず身を縮める。
見渡しても、テントも、荷物も、焚き火もない。
あるのは、雪。
吹雪。
そして、俺の素っ裸の身体だけ。
「はっ、はっ、はっ……!」
パニックで呼吸が浅くなる。
ダメだ。
落ち着け。
こういう時こそ、まず状況確認。
俺は無理やり深呼吸をした。
冷たい空気が肺に刺さる。
生きてる。
身体は動く。
骨は……たぶん折れてない。
熊にやられた痛みは、ない。
でも、あれは夢じゃない。
肩を噛まれた感覚。骨が折れた音。最後の衝撃。
全部、鮮明に覚えてる。
「……俺、死んだよな?」
返事はない。
当然だ。
だが、その時。
『うるさい』
「っ!?」
俺は飛び上がりそうになった。
声。
確かに声がした。
だが、辺りに人影はない。
『そこで騒ぐな。耳に響く』
低く、ぶっきらぼうな声。
足元を見る。
雪の中から、白い毛玉みたいなものが顔を出していた。
「……え?」
それは、小さな白い狐だった。
雪と見分けがつかないほど真っ白な毛並み。
黒い目だけが、じっと俺を見ている。
狐が、喋った。
いや、違う。
口は動いてない。
でも、頭の中に声が響いている。
「え、ちょ、待て。お前……喋れるのか?」
『聞こえるだけだ』
「……は?」
『寒い。お前、邪魔』
狐は心底迷惑そうに尻尾を揺らした。
俺は一瞬、現実感を失った。
熊に殺されて。
雪山で裸で。
喋る狐。
どう考えても、おかしい。
でも。
頬に当たる雪は冷たい。
足の感覚は、もうかなり危ない。
これは夢じゃない。
つまり――
「……転生ってやつか?」
ぽつりと呟く。
狐が首を傾げた。
『てんせい? 知らん』
「だよな……」
ふらり、と立ち上がる。
足が震える。
やばい。長くは持たない。
こういう時、最優先は何だ?
食料? 違う。
水? 雪がある。
違う。
火だ。
「火……火を起こす」
『火?』
「そうだ。火があれば死なない」
俺は辺りを見回した。
雪原の先に、まばらな針葉樹林が見える。
あそこなら、風も多少防げる。
枯れ枝もある。
「行くぞ」
『どこに』
「森だ」
『嫌だ。寒い』
「お前、雪狐だろうが!」
『風は嫌い』
妙に人間くさい返答に、一瞬だけ笑いそうになる。
だが、笑ってる余裕はない。
俺は歯を食いしばって、雪の中を歩き出した。
一歩。
二歩。
雪が膝まで沈む。
「っ……!」
深い。
体力がごっそり削られる。
しかも裸。
皮膚感覚がどんどん鈍くなる。
このままじゃ森に着く前に死ぬ。
俺は立ち止まり、周囲を見た。
雪。
風。
地形。
すると少し先に、風で雪が浅くなっている筋が見えた。
「……風下か」
雪の流れを見る。
地形の凹凸を読む。
あっちならマシだ。
俺は進路を変えた。
狐が、いつの間にか後ろをついてきている。
『お前、死にそう』
「分かってる」
『なんで歩く』
「止まったら死ぬからだ」
『変なやつ』
そう言いながらも、狐は先を歩き始めた。
『こっち』
「え?」
『岩、ある』
俺は顔を上げた。
白い吹雪の向こうに、うっすらと黒い影が見える。
岩場だ。
「助かる……!」
俺は最後の力を振り絞って走った。
指先の感覚はない。
唇も、足も、もう自分のものじゃない。
それでも、進む。
岩陰に飛び込んだ瞬間、風が弱まった。
「はぁっ……はぁっ……!」
少しだけ、楽だ。
でも、まだ終わりじゃない。
次は火だ。
俺は岩陰の地面を探る。
雪の下に、乾いた苔。
樹皮。
細枝。
ある。使える。
手はかじかんで感覚がない。
でも、身体が覚えてる。
「フェザースティック……いや、まず火口……」
爪が割れ、指先から血が滲む。
でも削る。
細く。
軽く。
空気を含ませる。
狐が、不思議そうに見ていた。
『何してる』
「生きる準備だ」
俺は石を拾った。
黒くて、硬い。
火打石に似てる。
「頼むぞ……!」
打つ。
カンッ。
火花。
散る。
もう一度。
カンッ。
小さな火花が、火口に落ちた。
煙。
「よし……!」
息を吹き込む。
優しく。
でも確実に。
ふわり、と赤が生まれる。
次の瞬間。
ぼっ、と炎が立ち上がった。
橙色の、小さな命。
俺は、思わず笑った。
「……勝った」
狐が目を丸くする。
『太陽、作った』
「違う。火だ」
『すごい』
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
張り詰めていたものが、一気に緩む。
火の熱が、頬を撫でる。
あったかい。
生きてる。
本当に、生きてる。
涙が、勝手に滲んだ。
「……っ、くそ」
情けない声が漏れる。
死んだはずなのに。
全部失ったのに。
それでも。
火があるだけで、人は生きたいと思える。
その時だった。
ドォォォォン……
腹の底に響くような、重い地鳴りがした。
俺と狐は、同時に顔を上げた。
『来る』
「何が――」
吹雪の向こう。
白い地平線の彼方に、黒い影がいくつも現れた。
巨大だった。
木より高い。
山みたいな背中。
長い牙。
揺れる毛皮。
それが、雪原をゆっくりと進んでくる。
息を呑む。
「……マンモス」
信じられない光景だった。
図鑑でしか見たことのない、絶滅したはずの巨獣。
それが、今、目の前にいる。
狐が、当たり前のように言った。
『大きいの、いつもいる』
「……マジかよ」
俺は火の前で、震える手を握りしめた。
寒さじゃない。
恐怖でもない。
理解したんだ。
本当に。
俺はもう、元の世界にはいない。
そして、ここは――
熊なんかより、ずっとヤバい時代だ。
※毎週月水金に更新予定。
※アルファポリス→忍絵奉公で検索すれば、私の他の作品も多数あります。
見た目も大事だ。
きれいな火口ほど、よく燃える。
カチ、と火打石を鳴らす。
火花が散る。
二度目。
三度目。
ぼっ、と小さな炎が生まれた。
俺は思わず笑った。
「よし。やっぱこれだよな」
炎は不思議だ。
ただ見てるだけで、心が静かになる。
街で働いていた頃は、毎日スマホと上司に追われていた。
気づけば、誰かの都合に合わせてばかりの人生だった。
でも、山は違う。
火をつけられるか。
雨をしのげるか。
腹を満たせるか。
答えは全部、自分の腕次第だ。
それが、たまらなく好きだった。
テントを張る場所も、もう決めてある。
少しだけ高くなった地面。雨水が流れ込まず、風も避けられる。
ペグを打ち、ロープを張る。
迷いはない。角度も、張りも、完璧だ。
「……三分か。悪くない」
自分でタイムを計るのが、ちょっとした癖だ。
設営が終わると、次は飯だ。
今日の夕飯は、メスティン炊飯と厚切りベーコン、そして山菜スープ。
米は朝から浸水済み。
火加減だけ見ればいい。
クッカーの蓋を少し開け、湯気の匂いを嗅ぐ。
「あと二分」
鼻も、もう立派な道具だ。
その間に、近くの沢で水を汲む。
流れの速さ、透明度、上流の地形。全部確認済み。
念のため煮沸もする。
山で一番怖いのは、派手な事故じゃない。
油断だ。
足を滑らせる。
腹を壊す。
夜を甘く見る。
そういう小さいミスが、人を簡単に殺す。
だから俺は、必ず備える。
ふと、沢の脇に小さな足跡を見つけた。
「鹿か?」
しゃがんで土を指でなぞる。
新しい。
だが、軽い。
シカかカモシカ。問題ない。
その横に、少しだけ土が抉れた跡があった。
……爪?
いや、気のせいか。
俺は首を振って立ち上がる。
「考えすぎだな」
熊鈴は腰にある。
熊スプレーもテント横。
ナイフも、火もある。
備えは万全だ。
それに今日は、ここまで登ってきても人ひとり見なかった。
静かで、最高の場所だ。
空は、いつの間にか群青色に染まり始めていた。
焚き火の炎が、ぱちぱちと薪を弾く。
メスティンの蓋を開けると、白い湯気がふわっと立ち上った。
「……完璧」
つやつやの白飯。
焦げもなし。
ベーコンを焼けば、脂がじゅうっと音を立てる。
香ばしい匂いが、夜の空気に溶けていく。
「これだよなあ……」
自然の中で食う飯は、なんでこんなにうまいんだろう。
誰にも邪魔されない。
急かされない。
時間も、音も、全部、自分のものだ。
焚き火の向こう、暗くなり始めた森を見ながら、俺は静かに笑った。
「最高だな、ソロキャンって」
ぱち、と薪が弾ける。
その瞬間。
森の奥で鳴いていた鳥の声が、ぴたりと止んだ。
風もないのに、杉の枝が、ひとつだけ揺れる。
……ざり。
何かが、踏んだ音。
俺は顔を上げた。
闇の奥。
木々の隙間。
何かが、いた気がした。
だが、次の瞬間には、もう見えない。
俺は少しだけ眉をひそめ、苦笑した。
「……ま、鹿だろ」
そう呟いて、ベーコンをひっくり返す。
炎は赤く揺れ、夜は深くなっていく。
俺はまだ知らない。
この静かな夜が、人生最後の焚き火になることを。




