第26話 刻まれる掟
朝の空気は、やけに澄んでいた。
昨夜の血の匂いも、冷えた風に薄められている。
新たに捕らえた七十人は、まだ動きがぎこちない。
恐怖と疲労が抜けていないのが、遠目にも分かる。
だが――働かせる。
「止まるな。石を運べ」
タカシの声は、静かだが逆らえない重さがあった。
石壁の外側。
昨日まで戦場だった場所に、もう一つの“村”を作らせている。
敵だった連中に、自分たちの手で“生きる場所”を築かせる。
それが条件だ。
ただし。
ルールを叩き込まなければならない。
ここは、甘い世界じゃない。
その時だった。
「……あ?」
見張りの声。
一人の男が、こそこそと石の山の陰へ回り込む。
周囲を見て、誰も見ていないと判断したのか――
走った。
逃げた。
森へ。
「……やっぱり出るか」
タカシは、ため息をついた。
隣にいたアグニが言う。
「追いますか?」
「いや」
タカシは、ゆっくり首を振る。
「追う必要はない」
そう言って――
「ユキ」
『うん』
白い狼が、すっと前に出る。
「止めろ」
『わかった』
その瞬間。
ユキが風のように駆けた。
続いて、ハヤテ、ゴウ、コマ。
四匹が、一瞬で森へ消える。
逃げた男は、必死に走っていた。
だが。
この地形、この雪解けの地面。
そして――
狼。
数秒後。
「ぎゃあああああ!!」
悲鳴が、森に響いた。
しばらくして。
四匹が戻ってくる。
その口には――
逃げた男の腕。
そして、引きずられてくる本体。
まだ生きている。
だが、脚は使い物にならない。
震えながら、地面に倒れ込んだ。
「た、助け……」
タカシは、無表情で見下ろす。
周囲の捕虜たちが、凍りついたように見ている。
村民たちも、息を呑んでいた。
「……聞け」
タカシは、ゆっくり口を開く。
「ここでは、三つのルールだけ守ればいい」
誰も、声を出さない。
「一つ。逃げるな」
静寂。
「二つ。仲間を裏切るな」
空気が張り詰める。
「三つ。働け」
それだけだ。
だが、その“だけ”が守ライナいなら――
タカシは、逃げた男の前にしゃがむ。
「どうなるか、分かるか?」
「ひ……っ」
男は、言葉にならない声を漏らす。
「死ぬ」
短く、はっきりと言った。
そして。
タカシは立ち上がる。
「ユキ」
『うん』
狼が、一歩前へ。
男は絶叫した。
「やめろぉぉぉ!!働く!!働くからぁ!!」
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
タカシは、しばらく見て――
「……いい」
手を上げた。
ユキが止まる。
「今回は、見逃す」
ざわめき。
捕虜たちの顔に、わずかな希望が浮かぶ。
だが。
次の一言で、それは凍りついた。
「次はない」
静かに告げる。
「腕一本で済んだと思え」
逃げた男は、その場で泣き崩れた。
タカシは、全員を見渡す。
「俺は、お前らを殺したいわけじゃない」
本音だ。
「生きろ。ここで」
石壁。
火。
食料。
全部、ある。
「だが、壊すなら――排除する」
その言葉に、誰も反論できなかった。
その日の作業は、明らかに変わった。
動きが早い。
無駄がない。
逃げる者も、怠ける者もいない。
“理解した”のだ。
ここがどういう場所かを。
夕方。
火を囲みながら、アグニがぽつりと言った。
「……怖えな、あんた」
「そうか?」
「でも、嫌いじゃねえ」
タカシは、少しだけ笑った。
「優しくしても、死ぬだけだからな」
「違いねえ」
白狐――シロが、横で言う。
『お前、前より冷たい』
「そうかもな」
『でも、強い』
タカシは、焚き火を見つめる。
揺れる炎。
「守るためには、これくらいでいい」
小さく呟いた。
その夜。
新しい村の灯りが、もう一つ増えた。
まだ小さい。
だが確かに――
この地に、“秩序”が生まれ始めていた。




