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第8話 下町の暮らし

第8話 下町の暮らし

 下町の暮らしは良い。寿司の腕を活かして葬儀社の仕出しの仕事を見つけた。

朝は早いがその分終わるのも早い。接客はいらない。

 銭湯の一番風呂に間に合う日も多い。こののんびりした一日は何物にも代えがたい。

 好きな事しかやらない日々の暮らし。

ジャズと質の良い酒、そして昔からやっていた陶芸に本腰を入れてみようか。

 知り合いの栃木の窯に顔を出す。

焼き物はいい。休みの度に土を触りに栃木に通う。

 普段は仕事終わりに近所のジャズバーに顔を出す。いい年をしたママの色気のない店は案外居心地がいい。モダンジャズ全盛期の、今時流行らない渋いジャズがかかる。こんな暮らしもあったのだ。

 ヒロシが若い頃新宿あたりにたくさんあったジャズバーを思わせる店で、こだわりのスコッチウヰスキーを少しだけ飲む。誰にも急かされない一日。

 ヒロシが一人でいる噂は昔の遊び仲間にあっという間に広がった。みんないい年になっているにも関わらず誘いの連絡が来る。昔遊んでいたような奴らには、独特の美学がある。みっともない事はしない。引き際を心得ている。

 でも、実際に顔を見れば、一瞬であの頃に戻る。何年会っていなくても。

 みんな遊び方がスマートだ。

「やあマイク、この店は俺の隠れ家なんだ。なんて事のないジャズを聞いて終わる。締めくくりの場所なのさ。」

「ヒロシはずいぶん枯れたフリをしてるな。」

 アメリカ人だが日本育ちのマイクに会うのは何年ぶりだろう。久しぶりなのにヒロシの枯れたフリがバレている。

「マイクは何でもお見通し、だな。」

「俺たちも本当に枯れていい年だよ。

嫁さんも捨てて何やってるんだ。」

「マイクも人並みの事を言うようになったな。今の嫁さんは何人目だ?」

「大した事はないさ。6人目かな。」

「律儀に全部に子供を作って、6人の子供たちも大きくなっただろう?」

 マイクは数年前、血を吐いて救急車で運ばれた。胃潰瘍が動脈を破って血液が胃に溜まり大量の吐血をしたが、内視鏡手術であっという間に塞がれた。

 潰瘍は悪性ではなく、思いのほか早く退院出来た。その時の看護師が6番目の妻だ。

「うちの奥さんの健康管理が厳しくてずいぶん夜遊びもしなくなったな。

 ヒロシはあの奥方とは完全に離婚したのかい?よく自由にしてくれたな。」

「いや、まだ離婚はしていない。してくれないんだよ。

 富士で俺の帰りを待つんだと。

必ず帰って来ると信じています、って

出て来る時に言われたよ。

 そう言うところが重くていやなんだが、な。」


 ヒロシが身軽になって一人で暮らしている事は仲間内では噂になっているらしい。昔のようにまた遊ぼう、とひっきりなしに仲間から連絡が来る。男女の関係だけでなく、ただ酒を飲みながら昔語りがしたいと言うのや、もう一度青春を思い出したい、というのやら。ヒロシをダシにみんな羽目を外して遊びたいのだ。

 年取ったら時間がたっぷりあって好きな事を好きなだけ出来る、と思っていたがそれは間違いだった。この頃感じるのは残された時間が思いの外少ない、と言う事だ。

 まず、時間の経つのが余りにも早い。何かを成す時間など残されていないように感じる。

 栃木の窯元に友人を訪ねる時も、何か自分の中で駆り立てるものが、ある。

土と向き合う。静寂をイメージしても、何かが自分をせき立てるのだ。わかっている。もう残された時間が少ないのだ。

 未来には無限に時間があると、若い頃は信じて疑わなかった。

 別に死を早める病に罹っているわけではない。医者に脅かされていると言うような持病もない。至って健康である。

 大体ヒロシの家は長寿の家系なのだ。

父親は90才を過ぎて未だ病気一つしていない。全てを学問に捧げた事で、なぜか健康で長生きなのだ。

 母は数年前に亡くなったが,早死にと言うわけではない。80過ぎまで生きた。

この分ではヒロシも無駄に(?)長生きしそうだ。

 それでも観念的に「時間がない」と追われてしまうのだ。

 しかし何に?誰に?

葬儀社の仕出しの仕事は週に二回は休みがある。拘束時間も長くはない。それ以外にも休みは多い。

 念願の陶芸に打ち込む。土を練って菊型を作っている時、頭を空っぽにして、自分の内面から何が顔を出すのか、待っている時を無上の喜びと感じていたのは、遠い昔の事だっただろうか。

 達観とはほど遠い。まだまだ迷える、73才である。


第9話 もう一つの隠れ家 

 ヒロシにはもう一つ、隠れ家というか自分の行きつけの場所がある。麻布時代から知っていた店だ。「まる庵」を手放す事にした頃から,古巣に戻った。

 六本木。この頃では胡散臭い外国人の集まる街になってしまったが、昔ながらの店もある。時代の流れと関係なく古い店はしっかりと根を張っている。

 H子ママの店もそうだった。世界に名だたる文豪に愛されたH子ママは今でも往年のセクシーさを失ってはいない。

 女性に年を聞くのは失礼だが、ヒロシには大先輩、大姉御だ。何故かヒロシを可愛がる。その店に行くとヒロシは若造扱いだ。

「ヒロシは私の弟みたいなものね。

ハゲてもセクシーだ。可愛げがあるのよ。六本木で店でもやらない?」

「もう商売はめんどくさい。自由人がいいね、ママに甘えて。」

「ジジィのくせに可愛いんだから。ヒロシは憎めない。昔は六本木にも何やってるのかわからない高等遊民がいたねぇ。ヒロシみたいな。」

「高等遊民って?」

「人生にも遊びが必要なんだよ。

ハンドルとかのあの、あそび。

 緩みっていうか、余裕っていうか。

何でもかんでもキッチリしてたら壊れちゃうよ。」

 この国はいつから人々も余裕のない事になってしまったのか? 


第10話 再会

 また、H子ママの店に顔を出した。

「ヒロシ、懐かしい人が来てるよ。」

 H子ママの指さす方に一人の女性が座っていた。

「リサ、リサじゃないか。どこにいたんだよ。あの有名な写真家の旦那とは別れたんだったか?」

 彼女は昔、ヒロシが若かった頃、一世を風靡したモデルだった。日本のモデルの先駆け。

 その頃世界に通用するモデルは数えるほどしかいなかった。日本人離れしたスタイルはパリでも突出していた。

 ヒロシと同じ年だったはずだが、まだ,その美貌は衰えてはいない。

「相変わらず、綺麗だな。今はどうしてるの?」

「ブティックをやったり、色々よ。」

「懐かしいなぁ,昔の女に会えるなんて。」

 ヒロシの言葉に

「良かったらウチで呑みなおさない?

この近くのマンションに住んでいるのよ。」

 そんな訳で気が付けば彼女の家で酔い潰れていた。

 翌朝、

「リサ、どうやら俺は呑み過ぎたみたいだ。悪かったな。」

「ヒロシ、昨夜は凄かったわよ。

ジジィのくせに助平なんだから。」

(ああ、俺やっちまったのか⁈)

「ごめん、覚えてないんだよ。

リサと俺、やっちまったのか。」

「冗談よ。お互いに年なんだから、昔のように押し倒された、とかないわ。

何もしてない。今からやろうか?」

「あー、良かった。下半身の失敗するほど若くないよな。」

「でも、ヒロシは相変わらずセクシーだわ。」

「嬉しいね。リサも年取らないね。」

 リサとの静かな交わり。リサも求めて来ない。ヒロシを気遣って、というよりリサ自身が辛そうだった。

「どこか辛いのか。」

「ごめんなさい。私病気なのよ。

もう残り少ない人生だわ。少しでも覚えていてくれる人に会えてよかった。」

 何だか寂しそうなリサを放っておけない気持ちになった。


 ヒロシは,リサの部屋に毎日のように通い始める。

 あのジャズバーで呑んでいてもリサからメールが来る。

「ママ、お勘定して。」

「あら、この頃は帰りが早いわね。」

「ママはさいたま出身だったよな。

俺の知り合いで、若い頃さいたまで遊んでた女がいるんだよ。」

「それで、その彼女が待ってるわけね。

私と同世代なら知ってるかもしれないわ。さいたまのどこ?」

「大宮だって言ってたな。

俺と同い年だからママよりかなり上だな。」

「じゃあ、わからないかも。

私高校が大宮だったから大宮で遊んでたけど年が違いすぎるわね。

 今はその「大宮のスケバン」と付き合ってるのね。」

「いやあ、久しぶりに会ったんだけど、懐かしくてね。

 なんか、飯作って待ってるって言うから行かないと悪いだろ。」

「ふふ、いってらっしゃい。」

(大宮のスケバン、だって。

面白い事言うなぁ、ママは。

リサの名前を聞いたら驚くだろう。)


「お帰りなさい。誰かの帰りを待つなんて、ずいぶん昔の事みたいだわ。」

「カメラマンの旦那と別れてから、ずっと一人だった訳じゃないだろ。」

「でも、一緒に暮らしたり食事を作ったりっていうのは無かったわ。

 私家庭的な女じゃないから。」

「なんかこの年になって嬉しいよ。

あの一世を風靡したモデルの山口リサが、俺一人のために飯を作って待ってるなんて、な。」

 こうして夕飯を食べる事がしばらく続いた。朝が早いので遅くなっても必ずアパートには帰るヒロシだが。

 あれほど結婚生活に疲弊していたヒロシだったが、何の心境の変化か。

 朝早い葬儀社の寿司の仕事を終えて少し仮眠をとる。銭湯に行って,あのジャズバーに顔を出す。その後で六本木のリサのマンションに帰って一日が終わる。

 いつになく充実したヒロシの日々だった。





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