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まる庵のこと 第1話 隠れ家

 まる庵のこと


第1話 隠れ家

富士山を一望出来る絶景に、隠れ家のようにその店はある。店主は麻布の一流寿司店で働いていたが、思う所あって、妻と二人の娘を連れてこの人里離れた富士宮に移り住んで来た。

 山の中腹の林の中で富士と対峙するようにその建物はあった。実にこだわり抜いてついに侘の極致となった冠木門をくぐると、凛とした佇まいの建物が見えてくる。『まる庵』である。

 数寄屋造りの古民家を移築し、内装に凝った風流な建物だ。

 麻布時代から贔屓にしてくれていた太客が、運転手付きの車で来る。

 店主の妻は非の打ちどころのない女性だ。寿司に合わせて日本酒を吟味するのは妻の役目だ、と研鑽を重ね日本中から集めたその酒は、日本酒通垂涎の的である。その稀有な蔵元の、他所には出さない限定の酒には、東京から駆けつける価値があっただろう。寿司もさることながら、その酒目当ての客も多い。

 すべて、妻の麻布時代に経理をやっていた頃知った蔵元だった。その妻の努力によって蔵元から直接入って来る。

 人里離れた山の中の寿司屋は、風雅を好む粋人の口コミで、予約客のみで営業しても案外繁盛していた。

 妻と一緒になって二十数年、富士宮に来てから数年、今、娘たちは結婚したり、留学したり、自立してそれぞれの道を歩んでいる。夫婦二人だけの生活は新婚以来だ。

 献身的な妻は時として夫の枷となる。店主があれ程望んでいた煩わしい人間関係から離れての自然の中での暮らし。妻が望んだ夫を独占出来る暮らし。それは実際には長く続かなかった。

(何だろう、この虚しさは。何をしても結局ここへ辿り着く。誰のせいでもない。)

 近くにはセレブを気取った別荘がいくつかある。いや、気取っているわけではなく、本当にセレブリティなのだろう。日本にも本物が少しは存在する。

 ほとんどが店主の知人だったので、出張で料理をする依頼が入る。

 吟味した食材、これ以上は無い寿司ネタ。赤酢を使ったシャリ。特別な酒。そんな物を用意して別荘に赴く。時として海外からのV.I.P.が招かれている。

 店主の従兄弟にも外交官がいるのでそんなコネクションもあるのかも知れない。

 その日も出張料理の注文が入り、様々な食材を用意して出かけた。外交官だった従兄弟の関係で、K国の財閥夫妻が来ていたが、その他数人は店主のよく知った顔ぶれだった。特に従兄弟の妻の事はよく知っている。従兄弟と結婚する前、彼女は店主の恋人だったのだ。奔放な女。二人の関係は誰も知らない筈だ。


第2話 ヒロシ

 店主、ヒロシという。奔放な女はなぎ

若い頃、ヒロシは先の見えない暗中模索の真っ只中、青春と呼ぶにはあまりにも屈折した葛藤の中でもがいていた。

 代々続く学究肌の家系で、研究者や大学教員、中には外交官も出るような家系で彼だけが異色の存在だった。

 父親は学者特有の無頓着さで彼を放任してくれていたが、それ以外の親類縁者は色々うるさく干渉して来る。親類の誰それは大学教授になったとか、外務官僚になったとか、おまえはどうするのだ、と責め立てる。それがある時を境にピタリと止まった。

 彼が事件を起こしたからだった。起こした,というより巻き込まれた、というか、普通なら取るに足らない事もこの一族には大事件だったのだ。

 醜聞とは無縁の高邁な学者の家系。ヒロシは突然変異的な存在だったのか?

 若い頃からヒロシに寄ってくる女は数知れず、だった。女たちはヒロシが、特定の女に夢中になる事はないのをよく知っていたから、決して深入りせず楽しく遊ぶ相手だ、と認識していた。

女たちは秘密の恋を楽しんで、深追いせずスマートに遊び,そして別れて行った。

 別れた後も思い出したように「たまには遊んで。」

などと連絡がくる。遊び方を知っている女にとって、ヒロシは都合のいい男だったのだろう。

 しかし時には例外もある。


第3話 櫻子

 幼い頃から家に来ていた娘。今はあまり聞かないが、戦前の財閥の末裔だ。岩成田櫻子。岩成田家は今でも日本の経済界の中心的な役割を示している。櫻子はその創業家の直系の娘である。

 大学入学が決まり、挨拶に来た時、当時実家にいたヒロシにも声をかけて来た。

「ヒロシ兄さま、櫻子です。ご無沙汰しております。

この春高校を卒業して、大学が決まったのよ。

女子大生。」

 櫻子の物欲しそうな目が光った。ヒロシは少しウンザリしたが

「綺麗になったね。あのおチビがいっぱしの女になったわけだ。」

「ヒロシ兄さま、私、女になるには、まだ足りないことがあるの。」

(ああ、これは罠だな。

こういうガキには手を付けてはいけない。)

頭の中にアラームが鳴り響いた。

(欲求不満のお嬢様め。)

「私を抱いてよ。どうせ私と結婚するのでしょ。」

「あはは、俺はおまえと結婚する気は無いよ。

俺は岩成田の親父のお眼鏡には、かなわないよ。

 もっといい人がおまえには用意されているはずさ。」

「私、恥をかかされたのかしら。悔しい。」

「櫻子はガキだなぁ。めんどくせぇ。」

 ヒロシは今まで年上の後腐れのない女を選んで付き合ってきた。恋愛問題などまっぴらごめん、なのだった。

 当てつけのように櫻子は、大学生になってから遊び始めた。世間知らずのお嬢様が親のレールを外れるのはあっという間だった。

 ヒロシの知らない所で彼女は妊娠したらしい。

「誰の子か自分でもわからないの。

ディスコに来る誰とでも寝たし、乱行パーティにも行ったし。」

と、厳格な岩成田家の当主である父親に言った.


月満ちて生まれたのはアフリカ系アメリカ人とのハーフ、ブラックミックスだった。

 櫻子は

「黒人の人とも10人くらいは寝たから誰の子か、わからないけど、見て、超可愛い。メドウズって言う名前にしたの。私,この子と生きて行くわ。」

と言い放った。

「本当はヒロシさんと結婚したかったのに振られちゃったの。全部ヒロシさんのせいよ。」

「あの高名な物理学者の家の、唯一出来損ないのヒロシ君か?それでも外国人よりはマシだった。

 しかも父親もわからない私生児を産むよりは。

ヒロシ君に子会社の一つも,持たせて援助してやれば、体裁は保てたのだが。

 今となっては取り返しがつかない。」

「パパは体裁ばっかりね。私の気持ちは考えないの?

孫が可愛くないの?」

 櫻子は生まれた赤ん坊が可愛くてならない。今まで何も欲しいものはない、と思っていたが今はこの子を守りたい。この子のためならなんでもする、という気持ちだった。

(これが母性本能かしら。)

 櫻子が黒人との混血児を生んだ事はセレブの間で恰好の話題となった。

 いわゆる俗にいう刑事事件などではないが、ヒロシも家督を継ぐ対象からは外された。直接かかわっていなくても岩成田家ではヒロシを逆恨みしている。

「うちの娘が昔からヒロシ君を慕っていたのは周知の事だった。

 もっとしっかりと受け止めてくれていたら

こんな事にはならなかった。

 取り返しのつかない事になった。」

 岩成田会長は恨み言を言った。ヒロシには良家の縁談なども来なくなった。

 逆にヒロシはその開放感に、渡りに船とばかり家を出た。ヒロシ、28才の事だった。 


第4話 結婚 

 自分の興味のある事以外には身が入らない。誰しもそうであろう。しかし普通はそれを我慢してその時々に必要な事をやるものだ。それの出来ない人間は落ちこぼれと言われたり、あるいは自分からドロップアウトして行く。ヒロシは後者だ。

 山の手の中高一貫校に通っていた。典型的なお坊ちゃん学校だったが、中には興味深い奴もいた。

 大正から昭和にかけて活躍した女性解放運動の先駆者だった祖母のいるOと出会ったのもこの学校だった。色が白くてあまり日に当たらない生活をしていそうな、いつも何かの本を読んでいるOにある時、話しかけてみた。

「いつも何の本読んでるの?」

 我ながら陳腐な第一声ではある。

「いつも同じ本を読んでる訳ではないよ。」

 それはそうだ。ヒロシも本になんか興味はなかった。知りたいのはO自身の事だ。

 著名な女性を祖母に持つのはどんな気持ちなのか、なんて事はどうでもいい。ただOの持つ静かな独特の佇まいに魅力を感じたのだ。

 Oの祖母の伝記のようなものを今は有名な女性作家が書いている。興味を感じて読んでみた。

 Oの祖母は若い頃情熱的な恋をしたらしい。しがらみを捨てて年下の男との愛を貫く。それを文壇に発表する。「若いつばめ」と言う言葉が一世を風靡した。

 大正時代にはなかなか考えられない事をやってのけた女性であった。

 イデオロギーには興味ないヒロシもこの情熱は羨ましい気がした。そんな女に出会いたいものだ。

 それから危険な恋に惹かれるようになった。必然的に相手は人妻になってしまう。いつもうまくいかない恋の泥沼に落ちる。それを楽しんでいる自分もいる。

 しかし、数々の家庭を壊し女を絶望させる恋に疲れたりもしていた。

 一方で寿司職人の修行は自分に合っているようだった。天性のものか、シャリを握るのも魚を捌くのもおもしろくてすぐに要領を覚えた。

 もともと釣りが好きだったので魚の事はよく知っている。シャリの握り方は天性の才能がある、と親方は言う。硬すぎず強すぎず口の中でほろっと崩れる、しかし柔らかすぎず持ち上げても崩れない握り方。シャリは言葉で教えるものではない。

 カンの鈍い奴は自分でコツを掴むまで何度でも練習しなければならない。それをヒロシは一度で出来てしまうような所がある。

 それと共に、寿司の一番大切な事はネタの仕込みだ。様々なネタを握るために切り揃えたり、魚を捌く事も,卵を焼く事も、酢で締めたり、湯引きをしたり、その素材の持つ食感を考えて下ごしらえするのが楽しかった。

 幼い頃から食通の父に色々な所に連れて行かれ食べさせてもらった事が身についているのかもしれない。

 修行も終わり一人前の職人と認められた頃、店で経理をやっていた女と結婚した。遊び仲間たちは

「遊び人がとうとう結婚か。たくさんの女が泣いてるぞ。」

「もう人妻はやめたのか?」

「人の家庭は壊して自分だけは保守的だな。

そのうち刺されるぞ。」

 などと散々だったがヒロシは気にしない。落ち着こうと思っていた。

「寿司屋は天職だな。」

 麻布の店でまじめに修行を積み、彼の寿司目当ての客も増えた。妻は経理の他に、酒の注文と管理を任されて、蔵元とのコネクションを固めて行った。

 自分の店を持つために夫婦で働いた。子供も二人、娘を授かった。

 やがて自分の店を持つことになる。麻布の一流店で働いていた時ヒロシの寿司を気に入ってくれた客が大勢いた。客を横取りするようなやり方で店を出すのは気が引けたので、かねてから考えていた隠れ家的な店を遥か離れた富士宮に出すことにした。

 資金は父が出した。親戚からは勘当のような状態だったが父だけは応援してくれた。


第5話 まる庵始動

 屋号を「まる庵」と名付けた山の中の寿司屋は食通の間で静かな評判となり、まずまずの滑り出しだった。予約が入る。忙しく仕込みをする。万全の準備で迎えた客の賞賛に、初めは生きがいを感じていた。

 妻は、麻布で経理をやっていた時から酒の蔵元とは関わってきた。蔵元との付き合いは長い。信頼関係も出来ていた。

 努力を惜しまない妻の働きに支えられて満足していたはずだった。ヒロシを独り占め出来る山の中の暮らしに妻は幸せそうだった。

 東京にいた頃、女性関係の絶えないヒロシだった。

いつも無防備で無頓着な男に、何故か女は放っておけない気持ちになるらしい。良家の人妻が家庭を捨ててまで執心する男。

 落ちてゆく女たちを、そばで冷ややかな目で見ていた経理のの女、を妻にした。周りは呆気ない気持ちになり、一方安心もした。

「彼女なら大丈夫だろう。しっかり者だ。ヒロシの浮気や色恋に動じないだろう。家庭を任せるには安心だ。」

 そんな周りの理解と祝福を受けて晴れて結婚した。

女の独占欲は計り知れない。富士宮に移った頃から妻は変貌した。独占欲で嫉妬の鬼と化した。新婚時代でもあるまいし、今更の感じは否めない。

 人里離れた山の中で悠然と富士を眺めて暮らすはずだったのに。詫びも寂びも解さない女である。

 出張料理の注文が入ると、マダム数人のランチなど一人で出来る仕事にも妻は付いてくる。

 ある時、知人の有閑マダムから一人の食事のための注文が入った。ケータリングではなくて目の前で寿司を握って欲しい、という事だった。もちろんその家には使用人が常駐していたし何もやましい事はなかったが妻は納得出来なかったようだ。酒の注文は無かったので一人でも出来る仕事だったが妻は付いてきた。

 マダムが

「今日も女将とご一緒なのね。仲がよろしいのね。」

 と言うと

「ウチの人はお寿司のこと以外、からっきし気が利かないので何かと不調法が無いように、と付いて参りました。」

 この妻の言動がヒロシをいたく傷つけた。


第6話 家を出る

 ヒロシはいつも感じていた。自分の好きなものを使い、好きなように料理する。その日の気分で好ましい器に盛り付ける。それを味わうところまでが一つの人生のようだ、と。彼にとって人生とは一人で完結する料理のようなものだった。そこに他者の介入はいらない。本当は結婚などは彼には必要なかったかもしれない。(俺は結婚に向かない男。)

 人生には、何も必要ない。生きていく過程において出会う魅力のある物事。

 それを愛でる喜びを知っているから、所有したいと思わないのだ。失う時の辛さを思うからではない。所有する事の虚しさを知っている、ということだ。

 欲望は自分のものにした所で完結するのか。他者の手にある物を眺めているだけでもいい。ヒロシはいつからかそんな気持ちになっていた。

 人は飽きる生き物だ。苦労して手に入れてもそれを自分の手の届く所に置いて毎日眺めていたらいつか見なくなる日が来るかもしれない。いつでも手に取れるから敢えて見る必要を感じない。

 愛もおなじだ、と気付いてしまった。

生物はすべからく子孫を残す事がその存在理由らしい。子孫を残す。子孫を増やす。生きるとは子供を増やし繋いで行く事なのか。この地球上ではその営みが生きる,という事なのか。それが愛という事なのか。

 そんな風に考え始めると生きるのが嫌になる。ヒロシ自身役割は一応果たしたはずだ。結婚をした。子供を二人作った。もう人生から解放されたい。この頃そんな事ばかり考える。

「ヒロシにしてはつまらない生活を選んだわね。富士山を眺めてあなたの美学が完結するとは思えないわ。」

 従兄弟の妻におさまっている凪にそう言われてしまった。

「サドゥって知ってるかしら。まあ、インドに行った人は大抵サドゥを乞食だと思ってるわ。でももっと高尚なのよ。

40才を過ぎたら自分で選ぶ。サドゥは神になったと考えられているから戸籍も抹消されて死者として扱われる。

 神、だから、みんな一目置いてるけど、神、だから生活は苦しい、ので観光客に物乞いをしたり。乞食というのもあながち間違っては、いないわね。

 ヒロシの目指しているのは現代日本のサドゥかしら。おもしろい。」

「ああ、しがらみから解放されたいね。

何も持たない暮らし。」


第7話 古巣に戻る

「ひどいっ。何もかもあなたのやりたいようにやってきたのに。

隠れ家的な名店として定着してきたのに。こんな山奥でも来てくれるお客様がいて,知る人ぞ知る名店として一目置かれるようになったのに。

 あなたは全部捨てると言うの。離婚してくれってどう言う事?」

 妻が泣き叫ぶ。こんなに感情を露わにした妻を見るのは初めてだった。

「この店も土地も財産は全部おまえにあげるから俺の好きにさせてくれ。

もう卒業だよ。」


 ヒロシはそう言うと逃げるように山を降りた。着のみ着のまま何も持たず、東京に戻って来た。


 東京の下町に寿司屋をやっている古い知り合いがいた。その店の2階に空いている部屋があると言うので転がり込む形です住み着いた。ボロだが中々居心地のいい部屋だった。

「ヒロシはもうギャンブルからは足洗ったのかい。俺は今だにやめられねぇ。

でも母ちゃんがおっかねえからあまり突っ込まねぇよ。金には縁がねえなあ。店の雨漏りも直せねえよ。

 こんな部屋でよけりゃいつまでもいてくれ。ヒロシに借りた麻雀の借金もまだ返してねえしな。」

 こうしてこの町に住み始めた。下町はいい。ヒロシの育った山の手気取りの町より余程人間らしさがある。人情を感じられる。

 昔、若い頃、ギャンブルで借金を作っていたこの友人の,借金の肩代わりをしてやった事があった。この男は今でもそれを恩義に感じているらしい。

 その頃ヒロシは生きる事に嫌気がさし、いつ死んでもいい、と荒っぽい麻雀を打っていた。それは物凄い勝ちに繋がり,肩代わりした借金もあっという間に返してしまった。宵越しの銭は持たない江戸っ子を気取り、気風の良さが仲間内から慕われて来た。

(俺の財産は人間だな。)






 

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