第06話「曹操を討て! 赤壁逃亡戦」
「師匠……無事で居てください」
「何を言うか弟子よ。お主の方が危険ではないか。ワシは本来の得意技を生かして安全な場所から指示するだけじゃ。前線なぞ向かわぬ。しかしお主は……。必ずや、我が元へと帰ってきておくれ」
「はい……龐統様……」
背丈百七十はあるボクが、小柄な龐統を抱き締める形になる。まるで戦地に向かう母と子の気分だ。ボクはいつの間にか、この龐統を母のように思っていたのかもしれない。龐統も、ボクを子と思っているのだろう。互いに震える肩をしっかり抱き締める。
「では、行って参ります」
「必ずや……必ずや……」
「ええ」
そしてボクは関羽と共に駆け出した。大きな歴史の転換点。曹操を逃せばボクの処罰の可能性があり、討てば大きく歴史が変わってしまう。ボクらが死なず、そして司馬懿ちゃんの元へたどり着くには、ボクはどのような判断をすればよいのだろう。
*
砦を守るボクら。早馬で趙雲が曹操を逃したと聞いた。張飛でも押さえきれないだろう。だからそのうち、ここが主戦場となる。
「関羽殿、義理のある相手、討つ心の準備は大丈夫でございますか?」
「ははは。この武神と呼ばれる某を心配してくれるとは、かわいいやつよ。うむ、大丈夫だ。そなたこそ、武術の心得はあっても戦場は初めてなのだろう? 参考に、我が剣戟をとくとご覧になられよ」
綺麗なお姉さんが豪快に笑い飛ばす。頼もしい言い草だがボクは知っている。敵の総大将であり劉備軍の命運をかけた曹操を、この人は討ち漏らす事に。
「来た……!」
砂を大きく巻き上げ必死の体で駆ける馬の数々。
斥候を放つ余裕もないのか、ボロボロの曹操軍が大将を先頭に突撃する。そこに、関羽とボクが立ちはだかる。
「あ、あの真っ赤な馬……速いと噂の赤兎馬よ……」
「美髪公の武神、関羽だわ……」
女性兵たちが絶望の声を上げる。しかし、未だ豪華な身なりをした曹操と何やら話した武将が、女一人で馬で近づく。彼女もボロボロでありながら、胸を張った堂々たる態度だ。
「久しいな、関羽」
「張遼。かつての親友とこのような時に会いたくはないものだったな」
「それはまた複雑な面持ちであるな。しかし、私は君に出会えて良かったと思っている」
「何を言っている。今は敵同士であるぞ」
関羽が言うと、張遼は、手の平で曹操軍を指す。
「見たまえ。我が軍の疲れ切った、君に懇願するような目。かつて君が世話になった曹操様の側近の兵たちだ。君は覚えていないだろうが、彼女らは君を覚えている。私の首ならここで斬っても構わぬ。しかし、代わりにこの兵たちに休憩をさせて欲しいのだ。頼む」
「ふむ……」
頭を下げるかつての親友の言葉に考える関羽、それは罠だ……! 張遼は一か八かの大勝負に出ている! しかし、ボクが口を出すより先に、
「少しくらいは、休憩を許そう」
決めてしまった。ボクは内心焦る。間違いなく情に絆される流れだ……!
「関羽殿、休憩を許してしまっては、今度は逃げの算段を許してしまう事になります。それは軍規違反では……!」
「鳳蓮殿よ。貴女はまだ若い。恩を仇で返すは、義なき者のすること。ここで某が義を捨ててしまっては、誰も義を大事にせぬ世に、一石投じてしまう事になりそうではないか」
「それは……そうですが……」
正しく義を貫く者と、今後の歴史を知る者、ボクの方が正しいのに……関羽の言い分の方が筋が通っている……! 彼女を説得する言葉を捻りださないと!
「ここで曹操を討たねば、劉備将軍の義に背く事になります。義見て為さざるは勇なきなり。目の前にその義を果たすべき時があるのに、ここで逃すというのは、安寧の世を目指す劉備将軍の未来の為になりません!」
「黙らんかッ!」
温厚そうな関羽が初めて怒鳴った……! 怖い……。流石に血の気が引く。
「お主は、命からがら逃げ延びた、という経験がないのであろう。某は何度もある。理解できぬのも無理もない」
「そんな……経験の差で軍規違反の理由をでっちあげるだなんて、卑怯だとは思いませんか……!」
「でっち上げてなぞいない! その場その時で、義に応じて、軍規に従うかどうかも変えるのが、義であり人の徳であろうという話だ! 盤面上のような、理屈だけの、話ではない……!」
言いながら、関羽は悔しそうな顔をしていた。キリッとした眉毛が、今にも泣き崩れそうなのに、だが義を守ろうという必死の表情だ。さっきの気迫からは打って変わって。
ああ、どうなっても知らないからなぁ!
「貴女の義はわかりました。しかし、貴女が貫いた義でボクの首までハネられるとならば許せません。ボクが止めた事だけは、諸葛亮先生の前でも証言してくださるよう、お願いします」
「ああ、某の、『義』に従って」
震える声で、なんとか言い切る……。義を貫く軍神に比べボクは、命が惜しいなんて矮小な言い分だ……。
だが、義の為に命を賭ける……か。ボクには分からない感情だった。
法やルール以上に、大切なモノかもしれないし、時にはそれが暴走して大きな謀略や戦になるのかもしれない。心に留めて置こう。
関羽は武器の青龍偃月刀を、大地を立ち破らんが如く深く突き刺し、大きく息を吸う。
「曹操殿っ! 某は貴女に大恩がある身、ここでは貴女たちを見逃そう」
ヘロヘロの馬に乗った凛とした風貌の将軍が、関羽に近付く。やがて馬を降り関羽に手を差し伸べる。少し歳を取った顔と手、しかし間違いなく関羽に負けぬという力強さを秘めている。
これが乱世の奸雄と呼ばれる女、三国志において劉備の宿敵となる魏軍の総大将、曹操。
真っ赤な衣の美人であり、深紅の瞳の奥には、満身創痍である今であっても野望の光が煌々と輝いている。
「久しいな関羽よ、感謝するぞ。敵同士とて色々と語りたいモノだが……ワタシたちには時間がない」
「そうでしょう。早く行かれるがよい」
曹操は薄く笑い、関羽に深く頷いてから、傍らの鳳蓮にも視線を向けた。
「人というものは、やはり将来の敵となると分かっていても、助けるモノだな……。そなたの深い義に、感謝する。副将殿も。貴女の名は?」
くっ、話しかけられるだけで、なんて高潔な佇まいだ……! 気品の奥に威圧を感じるくらいだ。
「ボクは貴女方を見逃す事に反対した身でございます。名乗れる名などございません」
一礼を拝しながら言うと曹操は、その紅い瞳で何かを見定めるようにボクの頭から足の先までを見た。
「ふむ。上官の関羽でさえ、義を貫くだけで見事なものだ。いわんや、その関羽を支える義を全うさせたそなたまでも。なんと天晴れな副将である。花の名は知れねども、立ち姿をば忘れがたんや。次は互いが本気の時に相まみえようぞ! また会おう! 関羽よ! 名の知れぬ少女よ!」
「関羽殿っ! 我れ張遼は、親友たる貴女の慈愛と義の心を、深く深く誇りに思う! おさらばっ!」
曹操、張遼、そして部下や兵たちが砦を抜けていった。
……。
静かになる砦、ボクは膝から崩れ落ちる。
んぁああああ!!! やってしまった!
大きな命令に背いた、軍規違反である……! ボクも処罰されてしかるべき大失態だ……!
終わった、ボクの首が飛ぶ……。
と、身を小さく縮こめて丸まっているボクの余所で、曹操の背中を見届ける、義を貫いた軍神の姿がそこにある。
その視線の先は、秋の夕紅を煮詰めたような堂々たる明るさであった。
震える心の奥深くで、その姿だけは、しっかりと胸に焼き付いて離れなかった。




