第32章:街の上空で
「ディナ、さっきガレンの声が聞こえたけれど、あそこに来ていたのかい?」
ディナの母親であるカーラが、台所の出入り口から姿を現した。慎重に運んできた木製の椀から、麦の香りのする細い湯気が立ち上っている。その中年の女性は椀を食卓の上に置くと、半分閉じた正面の窓の方へと首を傾けて覗き込んだ。
「ええ、さっきガレンがちょっと寄っていったのよ」
机の上の本を片付けながら、ディナが答えた。
「リアムのお見舞いに来たのかい?」
カーラは小さくため息をつき、使い古したエプロンの皺を伸ばした。
「でも手土産を持ってきた様子なんてまるで見えなかったよ。ガレンの奴、あの悪癖ばかりは本当に治らないねえ……」
それから女性の視線が僕へと向けられた。細かな目尻の皺を湛えた瞳が、母親らしい温もりを放っている。
「リアムちゃん、具合はどうだい? 少しは良くなったかい?」
「もうすっかり良くなりました、おばさん」
痛みの欠片もなく元通りになった左胸を反射的にさすりながら、僕は答えた。
「ノア神父様のおかげで、こんなに早く回復できました」
「それならよかったよ。それを聞いて安心したよ。あんたみたいな良い子を助けてくれたんだもの、後で神父様には私から直接お礼を言っておくよ」
カーラは心を落ち着かせるような穏やかな微笑みを浮かべて言った。
だが次の瞬間、彼女の表情ががらりと変わった。笑みが消え、鋭く真剣な色へと取って代わられる。
「でもね、よく覚えておきなさい、リアム。今度からお金を数えるときは、絶対に人目のある場所でやっちゃいけないよ。この街に住んでいるのは善人ばかりじゃない、薄汚い悪党どもだってうじゃうじゃいるんだからね」
僕は視線を伏せ、木製テーブルの表面にぼんやりと映る自分の顔を見つめた。
「わかりました、おばさん。忠告ありがとうございます。人前であんな大金を数えるなんて、本当に浅はかでした。正直なところ……あのお金がここでどれほどの大金なのか、まったく知らなかったんです」
「何だって?」
カーラの片眉がつり上がった。彼女はゆっくりと顔を向け、凄みのある鋭い視線で長女を睨みつけた。
母親からの殺気を感じ取ったディナは、慌てて両手を上げてうろたえた。
「じ、実はね、お母さん……リアムは記憶喪失なの! 自分の名前と能力のことしか覚えてないのよ。それ以外のこの世界に関する記憶は、完全にすっぽり抜けてるの」
「そんな状態だって知ってたんなら、あんな大金を見せびらかすのがどれだけ危険か、最初から教えておかなかったのかい?!」
カーラは腰に手を当て、母親特有の剣幕で問い詰めた。
「もういいです、おばさん。ディナを怒らないであげてください。僕が完全に悪かったんです」
ディナがこれ以上叱られないよう、僕は素早く口を挟んだ。
「お金を数える一件の後に、僕がディナとガレンに記憶喪失のことを打ち明けたんです。だから、彼女を責めないでください。それに……あのときチンピラから助かったのも、ディナの力のおかげなんですから」
「そうなのかい?」
カーラの鼻から小さな息が漏れたが、ディナに向けられた厳しい視線はまだ完全には解けていなかった。
ディナはその視線に、頬を掻きながら愛想笑いを返すことしかできなかった。
少しの間静寂が流れた後、頭のてっぺんに優しい感触が降りてくるのを感じた。カーラの手が、愛情を込めて僕の金髪を優しく撫でていた。
「こんなに小さな子が……記憶を失って、黒い森の奥深くに一人きりで取り残されていたなんて。なんて不憫な身の上なんだい」
彼女は胸を痛めたように声を震わせ、静かに呟いた。
その指の動きが止まった。カーラは身を屈め、僕の目をまっすぐに見つめた。
「リアムちゃん……どうだい、これからはずっとこの家で暮らしていかないかい?」
ドクン。
え? ちょっと待ってくれ。カーラおばさんは今何て言った? ここで暮らす? ずっと?
頭の中が真っ白になった。その言葉の連なりが頭を激しく殴りつけ、思いもよらない提案を処理しようと、僕は数秒間絶句して立ち尽くした。
「そ、それはできません、おばさん」
机の下で服の端をぎゅっと握りしめ、僕は少し震える声で辞退した。
「これ以上、このお家に甘えるわけにはいきません。雨風をしのぐ場所と温かい食事をくれただけでも、本当に身に余る親切なんです。そのご恩を受けるだけでも申し訳ないのに、ここに居座るなんてとてもできません」
「迷惑だなんて、とんでもないよ、リアム」
カーラはきっぱりと首を横に振り、素早く遮った。彼女は椅子を引き寄せて僕の隣に座ると、両手を温かく包み込んだ。
「お聞き、おばさんはね、昔からずっとこの家に男の子がいてくれたらと願っていたんだよ。あんたを見たとき、神様がついにその祈りを聞き届けてくださったんじゃないかと思ったくらいさ。この家は確かに狭くて質素だけどね、あんたを家族として迎え入れる心の隙間なら、いくらだって空いているんだよ」
台所の出入り口の方から、寄りかかっているナターシャの姿が目に入った。ピンク色の髪の幼い少女は何も言わなかったが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。正面では、ディナも期待に満ちた眼差しで、無言の賛同を示すように小さく頷いていた。
これほど温かい家族の光景を目の当たりにして……一瞬、僕の心の一部は本気で『はい』と叫びたくなっていた。すべての重荷を下ろし、この家の温もりに守られ、普通の少年として平穏に暮らすことができたら、どれほど心地よいだろうか。
けれど……僕にはできない。
自分自身に嘘をつくわけにはいかないのだ。僕の目的は、この世界でただの一般人として生き延びることではない。せっかく奇跡が実在するこの異世界にやって来たというのに、この好機を投げ捨ててしまうのはあまりにも惜しすぎる。
この世界がどれほど広いのかを知りたい。見たこともない景色を目にしたい。歴史や文化を気の済むまで学び尽くしたい……前世では決して成し得なかった、あらゆる途方もないことを成し遂げてみたいのだ。
それに何より、僕には自らの国を建国するという野望がある。そしてその道は……極めて険しい茨の道だ。
もしこの申し出を受け入れてしまえば……僕の企てる争いの渦中へ、このささやかで平和な家族を巻き込んでしまうことになる。
深く息を吸い込んで決意を固め、誠意を込めてカーラの瞳を見つめた。
「本当にありがとうございます、おばさん。皆さんの温かいお気持ちには、胸がいっぱいです。でも……ここにずっと留まることは、どうしてもできません」
彼女の握る手を、ごく優しくほどいた。
「皆さんにご迷惑をかけ続けたくないというのもありますし、僕には成し遂げなければならない夢と目標があるんです。本当の自分は何者なのか、本当の家族はどこにいるのかを突き止めたいんです。過去の記憶を取り戻すためにも、一つの街にずっと留まっているわけにはいかないんです」
一度言葉を切り、より真剣な囁き声へとトーンを落とした。
「それに……僕はエルフです。もし外の奴隷商人や悪党どもに、この家にエルフがいると知られでもしたら……僕の存在は、おばさんやディナ、ナターシャにとって大きな厄災を招くことになります。そんなことになったら、僕は一生自分を許せません」
そして何よりも……怖かった。自分が長命種のエルフであるかもしれないことが怖かった。
自分が同じ姿のままでいる間に、彼女たちが少しずつ年老い、衰え、やがて先立っていくのを目の当たりにするのが恐ろしかったのだ。
前の世界で、そういう物語をあまりにも多く見てきた。自分がその当事者になることだけは、どうしても避けたかった。
僕の目に宿る揺るぎない覚悟の色を見て、カーラはついに長いため息をついた。強張っていた肩の力がゆっくりと抜け、僕の決断を受け入れてくれた。
「そうかい。それがあんたの決めたことなら、無理強いはしないよ」
カーラは使い古したエプロンの前で両手を重ねて言った。
「ディナ!」
「何、お母さん?」
「リアムちゃんに魔術をしっかり教えるんだよ。せめて自分の身くらい守れる基礎を身につけさせておやり」
食堂の静寂を破るように、カーラは少し声を張り上げた。
「だいたいあんた、昔から弟子を持ちたいってずっと言ってただろう?」
ディナは木製の椅子から立ち上がった。その整った顔に嬉しそうな笑みが弾け、瞳はやる気に輝いていた。
「もちろんよ! そのつもりだったわ、お母さん」
ディナは答えると、僕の方を振り返った。
ディナは急いで自分の部屋へと向かい、さっきまで抱えていた黒表紙の分厚い本を置きに行った。
カーラは娘の後ろ姿をしばし見送り、それから再び僕に向き直った。
「リアムちゃん、あの子から真面目に学ぶんだよ。ディナはおっちょこちょいで子供っぽいところもあるけれど、魔術師としては本当に優秀なんだから。夫が急死しさえしなければ……あの子は今頃、二級魔術師にだってなっていたはずなんだ」
僕は黙り込んだ。娘を褒める中年の女性の瞳に宿る誇らしさを感じ取ると同時に、亡き夫に触れた瞬間に浮かんだ深い悲哀の影を見逃さなかった。彼女の手は無意識にテーブルの端をぎゅっと握りしめていた。
過去にディナの父親の身に何かあったのだろうか?
それに……『二級魔術師』とは一体何なのだろう? 魔術師の階級のようなものだろうか?
「よし、リアム! 出発するわよ!」
その明るい声にハッと我に返った。ディナが部屋の扉から姿を現し、その光景に僕は息を呑んだ。
彼女の身なりは劇的に変わっていた。純白と淡いピンクが組み合わされた古典的なドレスを身に纏い、その体型に完璧に調和していた。くびれた細い腰には茶色の革ベルトが上品に巻かれ、歩くたびにサラサラと微かな音を立てるロングスカートを留めていた。足元はふくらはぎ丈の茶色の革ブーツで包まれている。
その装いを完璧に仕上げる最後のアクセントとして、魔術師特有のつば広の三角帽子――中央にピンクの三角模様があしらわれた白い帽子――が頭の上にちょこんと乗せられていた。右手には、複雑な彫刻が施された木製の魔導杖が固く握られ、その先端には柔らかな魔力の光を放つ海のような青いクリスタルが飾られていた。
長いピンク色の髪は解き放たれ、窓の隙間から吹き込む風に揺れていた。ガラスを透かして差し込む朝日の黄金色の光が彼女を温かく包み込み、息を呑むほど魅力的で……本当に美しかった。
「どうしたの、リアム? 何でそんな風に見つめてるの?」
首を少し傾げ、不思議そうな表情でディナが尋ねた。
「あ、ご、ごめん!」
急激に熱くなった顔をごまかすように、僕は慌てて目をこすった。
すげえ! めちゃくちゃ格好いい格好じゃないか! ライトノベルの挿絵でよく見かけるファンタジー世界の魔術師そのものの雰囲気だ! まさに百パーセント『メイジ』という言葉通りの出で立ちだ!
「行こう、ディナ先生!」
満面の笑みを浮かべ、僕は高らかに声を上げた。
足早に玄関扉へと歩み寄り、木製のドアノブを引いた。ギィ! 夜明けの陽光が一気に全身を包み込み、ヴェニンブルクの涼やかな朝の空気を運んできた。
「お母さん、行ってきます! ナターシャもね」
ディナが挨拶した。
母親の隣でまだじっと立っていた二つ結びの少女のもとへと歩み寄る。優しい手つきで、妹の小さな体を温かく抱きしめた。
「行ってくるわね。さっきのことは、本当にごめんね」
ナターシャはその抱擁をぎこちなく受け止め、ディナの胸元に顔を埋めた。
「う、ううん、いいの、お姉ちゃん……お姉ちゃんもリアムも悪くないもん」
それから体を離し、目を鋭く細めて僕を睨みつけると、高慢に鼻を鳴らした。
「早く行きなさいよ! その間抜けで生意気なエルフに、ちゃんと魔術を叩き込んでやって!」
「はいはい。お姉ちゃんがいない間、いい子にしてるのよ」
ディナはくすくす笑い、妹の頭を愛おしそうに撫でてピンクの髪を少し乱れさせた。
カーラが一歩前に進み出て、長女を愛情いっぱいに強く抱きしめた。
「気をつけて行くんだよ、ディナ」
「もちろんよ、お母さん」
ディナは踵を返し、出入り口で待っていた僕のもとへと歩み寄ってきた。
「ところで、どこで特訓するの?」
彼女の後に続いて外へ出ながら尋ねた。
「基礎魔術を学ぶくらいなら、家の裏庭で十分なんじゃないの?」
ディナは魔導杖を軽く振りながら、きっぱりと首を横に振った。
「ダメに決まってるでしょう、リアム。危なすぎるわ! 魔術は適当に使っていいものじゃないのよ。ましてや街の中心部みたいな人口密度の高い場所じゃ、危険すぎるわ。王国の法律で、公式な許可のない市街地での魔術の使用は厳しく禁止されているの」
へえ? そうなのか。そんな厳しい規制があるのか。でも筋は通っているな。酔っ払った魔術師が市場の真ん中でファイヤーボールをぶっ放したりしたら、大混乱になるに決まっている。
僕は本当にこの世界のことを何も知らないな。
「さあ、おいで。私の手をしっかり握って、リアム」
ディナは空いている左手を僕に差し出した。
「え? う、うん」
僕は生唾を飲み込んだ。茹でダコのように顔を真っ赤にしながら、ぎこちない動きで彼女の小さな手のひらを握った。
……すごく柔らかい手だ。冒険者の手とは思えない。
「しっかり掴まっててね、リアム。絶対に手を離しちゃダメよ」
ディナは僕の手をさらに強く握り返しながら念を押した。まっすぐ僕を見つめ、心を落ち着かせるような笑みを浮かべる。
ゴォォォッ!
何の前触れもなく、ディナは右手の魔導杖を天に向けてまっすぐ突き上げた。杖の先端の青いクリスタルが瞬時に反応し、眩い光を放ちながら周囲の大気から魔力の粒子をかき集めた。
「フライトマジック」
ディナは低い声でその呪文を唱えた。
ヒュオォォッ!
次の瞬間、重力が僕の体を捕らえるのをやめたかのようだった。内臓が下に置き去りにされたかのような、奇妙な浮遊感が下腹部を襲った。突如として両足が赤レンガの地面から浮き上がり、体ごと宙へと引き上げられた。
あの低い呪文を耳にした途端、体がふわりと浮き上がったのだ。
「うわああっ、何これ?!」
急速に遠ざかっていく地面を見て目を見開き、僕はパニックになって叫んだ。
「しっかり掴まってって言ったでしょ、リアム!」
怯える僕の表情を見て、ディナは少し首を傾げてくすくすと笑った。
「うわああああっ!」
猛烈な速度で朝の空気を切り裂きながら垂直に急上昇する中、僕は目を固く閉じて絶叫した。風が耳元で激しく唸りを上げ、金髪を乱し、容赦なく顔を打ち据えた。
永遠のようにも感じられた数秒が過ぎ去ると、引き上げられる感覚がゆっくりと落ち着いていった。上昇は滑らかに停止し、僕たちは空気の海の中で静かに停止した。
荒い息を繰り返しながら、僕はゆっくりと目を開けた。
僕たちは地上数百メートルの上空にいた。眼下には、ヴェニンブルクの街の全景が息を呑むほど見事なミニチュアの傑作のように広がっていた。テラコッタ色の瓦屋根が複雑なモザイク模様を描き出し、活動を始めた住人たちの小さな点々で埋まりつつある赤レンガの通りがその間を縫っていた。街を取り囲む巨大な城壁は石の竜のように頑丈に巡り、遠くには総督の居城が夜明けの霧の名残を貫いて高くそびえ立っていた。
東の地平線では、太陽が寝床から昇り始めたところだった。温かく輝かしい黄金色の光が街の隅々を照らし、窓ガラスに反射し、薄い雨雲の残りを突き抜けて、朝の空を茜色、ピンク、そして淡い青の息を呑むようなグラデーションで染め上げていた。
「これが魔術の奇跡よ。どうかしら、リアム?」
ディナの優しい声が僕の感嘆を破った。背後の朝日の光に縁取られながら、上空の風に煽られて彼女の長い髪が優雅になびいていた。
「気に入った?」
三日月のように魅惑的に目を細めながら、彼女は再び尋ねた。
僕は呆然とし、言葉を失っていた。眼下に広がるファンタジー都市の壮大なパノラマと、隣に浮かぶ魔術師の少女の魅力に挟まれ、胸が高揚感で満たされていた。
「魔術って……」
彼女の手をさらに強く握りしめながら、僕は呟いた。
「……本当にすごいんだね」
「すごく好きだよ」




