第28章:魔術の基本概念
僕はボディソープ、シャンプー、香水のボトルをベッドの上に慎重に置いた。
「あ、窓を開けるのを忘れるところだった」
小さく呟いた。
部屋の隅にあるガラス窓に近づき、二枚の窓枠をゆっくり押し開けて、風でバタつかないように金具をかけた。
ギィ……
たちまち、人々の営みの喧騒が耳に飛び込んできた。石畳と擦れ合う馬車の車輪のきしむ音、活動を始めた人々の微かな掛け声が、階下からかすかに聞こえてくる。
「まだ朝の五時なのに、この街はもうこんなに活気があるんだな……」
窓枠に肘をもたせかけながら、僕は呟いた。
ヒュゥゥッ!
早朝の突風が吹き抜け、肌を刺すような冷気を運んできた。反射的に肩をすくめ、薄着の前を合わせる。
「すごく寒いな。まるで山岳地帯の空気だ」
「どうしてだろう、この国境の街の雰囲気……子供の頃の僕の田舎を思い出すな。スマートフォンが普及するずっと前、まだ電気も隅々まで通っていなかった頃の田舎を」
目を細め、街路柱の光の灯りを見つめた。
「もちろん、ここでは松明の代わりに奇妙な魔導クリスタルが光っているっていう違いはあるけれど」
僕は外の景色を眺め続けた。空はまだ夜に覆われ、太陽が昇る気配はない。夜明けの静寂を破るのは、風の音、露店を並べる商人たちの忙しない物音、そして鶏にそっくりな生き物の鳴き声や鳥のさえずりだけだった。
時折、僕の思考はこの現実を拒絶してしまう。ここに立ち、まったく見知らぬ世界の空気を吸っている……自分の中のどこかで、これらすべてを単なる夢だと思い込もうとする部分がまだ残っていた。
あまりにも緻密で、あまりにもリアルすぎる夢。
それも無理はない。こんなまったく理屈の通らない転移現象が、現実に我が身に起きたのだから。
しかし、昨夜のチンピラの蹴りの痛みも、今朝の空気の冷たさも、胸の中で渦巻く感情も……すべてがあまりにも現実だった。夢と現実の境界線は完全に溶け合っていた。
地球での辛い現実から逃げ出した、心地よい夢……。
物思いに耽っていると、ふいに本能が誰かの視線を捉えた。瓦葺きになっている隣家の屋根へと目を向ける。そこには、雪のように真っ白な羽を持つ一羽の鳩が止まっており、小さな黒い目で僕を見つめていた。
「へえ? この世界にも鳩はいるんだな」
口元を少し緩め、僕は小さく呟いた。
鳩から視線を外し、振り返ってシステムから購入したばかりの入浴用具を引っ掴んだ。部屋の扉へとしっかりした足取りで向かう。右手で冷たい木製のドアノブを掴んだ。
だが、それを引くよりも早く、扉が外側からいきなり力任せに押し開けられた。
バタンッ!
「うわあっ!」
驚いて声を上げた。僕と背丈がほとんど変わらない何者かが、僕の胸元に勢いよくぶつかってきた。
「いったぁ……」
甲高い声が痛みに漏れた。
ピンク色の髪の少女が床にへたり込み、額をさすっていた。ナターシャが顔を上げ、眉を吊り上げて僕を睨みつけた。
「ちょっと、あんた! なんでドアの後ろで突っ立ってんのよ?! あたしが転んじゃったじゃない!」
唇を尖らせて不機嫌そうにまくしたてる。
「はぁ?」
あまりの言いがかりに呆れて瞬きした。
「わざと突っ立ってたわけじゃないよ」
手を差し伸べて立たせてやろうとしながら言い返す。
「ちょうど部屋を出ようとしてたんだ。ドアノブに手をかけた瞬間に、君が急に飛び込んできてぶつかってきたんだろ」
僕の手を高慢に払いのけられたので、手を引っ込めた。
「それに、こんな朝早くから僕の部屋に何の用なんだよ?」
胸の前で腕を組んで尋ねた。
ナターシャは服についた埃を払い、挑戦的に顎を突き出した。
「あたしの家でしょ! どこの部屋にいつ入ろうがあたしの勝手よ! それに言っとくけど、ここは亡くなったお父さんの部屋なんだからね!」
無理に虚勢を張るような声で叫んだ。
『亡くなったお父さん』という言葉を聞き、用意していた反論が喉元に引っかかった。僕は口を噤み、出入り口に気まずい沈黙を漂わせた。
ナターシャは小さく咳払いをし、その気まずさを破った。彼女は丸めた布を僕の胸元に差し出してきた。
「これ。ディナお姉ちゃんがこれあんたに渡せって」
気まずそうに廊下のほうへ顔を背けながら彼女は言った。
「着替えがないんでしょ? これ着なさいよ」
差し出された布を受け取った。男児サイズの粗末なチュニックだった。襟元のカッティングや縫製からして、明らかにこの時代の流行を反映していた――ファンタジー系のアニメでよく見かける中世ヨーロッパの子供服そのものだ。
服が手渡されたのを確認すると、ナターシャはすぐに踵を返した。頬にかすかに差した赤みを隠すように、木製の階段を足早に下りていく。
「あいつ、まったく……」
そのツンデレな振る舞いに小さく苦笑した。
視線を手の中のチュニックへと戻した。
「でも……これ、着なきゃいけないのかな?」
ためらいがちに呟いた。
指先でゴワゴワした生地の繊維に触れる。
「すごく生地が粗いな。こんな麻袋みたいな布を一日中着ていたら、肌が痒くなりそうだ」
ディナの家族がくれたチュニックを複雑な気持ちで裏返した。
「でも、断るのはどう考えても失礼で不作法だよな。ディナが親切でくれたんだし」
諦めのため息が鼻から抜けた。
「着るしかないか」
最終的にそう腹を決めた。
「でも、後ですごく痒くなったらすぐに脱いで、システムから新しい服を買ってやる!」
部屋を出て、廊下を通って風呂場へと向かった。
ギィ……ギィ……
足元で古い板張りの床がきしんだ。家の中はまだ薄暗く、壁に固定された小さな松明の火だけが灯っていた。
もし地球で臆病者だった昔の僕なら、こんな薄暗くきしむ廊下を見たら、泡を食ってベッドに逃げ帰っていただろう。日が昇りきるまで風呂に入るのを先延ばしにしていたに違いない。
だが、この数日間で本物の恐怖を経験した今――この家の廊下の薄暗さなど、微塵も怖く感じられなかった。
古くからの言葉の通りなのかもしれない。実のところ、物事は見た目ほど恐ろしいものではない。恐ろしいのは、自分自身の心が作り出す幻影にすぎないのだ。
台所の前を通りかかると、パンが焼けるイーストの香ばしい匂いがかすかに漂い、お腹にほのかな空腹感を呼び起こした。
風呂場の木製ドアを押して中へ入る。不思議なことに、木製の浴槽とレンガの床があるこの空間にいると、強い懐かしさを覚えた。
子供の頃に行った祖父母の家を、この伝統的な佇まいが強く思い出させるからかもしれない。
木製の浴槽に溜められた水に指先を浸してみた。
ピチャ。
「うわっ、冷たっ!」
氷の塊にでも触れたかのように、慌てて手を引っ込めた。
冷水を浴びる気合を入れ直す間、レンガ造りのトイレに跨がって用を足すことにした。数分間、木壁の木目をぼんやり眺めながら、そこで思考を漂わせた。
これは地球にいた頃からの悪癖だった。どういうわけか、トイレでしゃがんで物思いに耽ると、妙な安らぎを覚えるのだ。
気持ちを落ち着かせると、服を脱ぎ始めた。氷のような冷水を頭から全身へと浴びせ、毛穴に突き刺さる寒さに歯を食いしばる。
バシャッ!
手早く、システムから買ったシャンプーとボディソープのパウチを破った。馴染みのあるミルクの香りの豊かな泡が瞬く間に体を包み込み、すべての垢と汗の臭いを洗い流していった。全身が完全に清潔になったのを確認し、綺麗にすすぎ落とした。
備え付けの粗末なタオルで体を拭き、ナターシャからもらったチュニックを手に取った。
仕立てが硬いせいか、襟元や袖に頭や手を通すのに少し手こずった。
『うぇ、着るだけでも一苦労だな』
体に馴染むよう裾を引っ張りながら、心の中でぼやいた。
仕上げに、さっき買ったバニラの香水を両手首、首筋、そして服に軽く吹きかけた。
シュッ! シュッ!
甘く爽やかなバニラの香りが瞬時に部屋を満たした。
風呂場を出て、木製の階段を下りて食堂へと向かった。
そこでは、ディナとナターシャがすでに木製テーブルの前に座っていた。ディナは読書に没頭している様子で、黒革装丁の分厚い本のページを指でめくっていた。その向かいでは、ナターシャが頬を膨らませて麦パンを咀嚼するのに忙しそうだった。おばさん――彼女たちの母親――の姿はどこにも見当たらない。
そういえば、今までディナのお母さんの本名すら聞いていなかったな。
「あら、リアム。お風呂上がったの?」
ディナは黒表紙の本をパタンと軽く閉じ、顔に柔らかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「うん」
頷いて返した。
空いていた木製の椅子を引き、そこに腰を下ろした。
「体調はどうかしら、リアム?」
気遣うような眼差しで見つめながら彼女が尋ねた。
「最初に意識が戻ったときより、ずっと良くなったよ」
一度痛めつけた筋肉を確かめるように肩を軽く回しながら答えた。
「よかったわ」
ディナはほっと息を吐いた。
「正直なところ、こんなに早く回復できるなんてまだ信じられないよ。あんな大怪我だったのに……こんな短期間で治るのがこの世界では普通なの?」
ディナは人差し指で顎をトントンと叩き、少し考えた。
「いいえ、決して普通のことじゃないわ。ノア神父様があなたに使った治癒魔術は、高位のものよ。街頭の誰もが受けられるような治癒魔術じゃないわ」
「そうなんだ……」
僕は小さく呟いた。テーブルの上にあった残りのパンに手を伸ばし、一口かじった。
「普段、私たちのような平民が受けられるのは初級の治癒魔術だけよ」
椅子の背もたれに体を預けながら、ディナは続けた。
「でも初級とはいえ、熱や咳といった軽い病気や、命に関わらない程度の外傷を治すには十分すぎる効果があるわ。例えば、トムの裂傷のような傷ね」
顎の動きがピタリと止まった。
骨が露出するほど酷かったあのトムの足の裂傷が……初級の治癒魔術で治せる範疇に分類されるのか?!
「それでも、本当に感謝しているわ」
ディナは小さく微笑んだ。
「それに、基本的な治療費は教会側が完全に無料にしてくれているのよ。患者が高位の治癒魔術を特別に希望しない限り、民衆から一銭も請求したりしないわ」
「じゃあ、昨日の僕の件は例外だったってこと?」
「そうよ」
ディナは力強く頷いた。
「正直に言うと、ノア神父様がどうしてあなたを助けるためにそこまでしてくださったのか、私にも見当がつかないの」
ノア神父……? あの謎めいた振る舞いの男。そんな高位の治療を無償で施してくれただと? 僕の勘が告げていた。完全に『タダ』なはずがない。後で何かしらの対価を支払わされるに違いない。
「治癒魔術って、そんなに特別なものなの?」
好奇心から身を乗り出して尋ねた。
「つまり、教会の組織の外には、フリーの治癒魔術師はまったくいないの?」
「そう聞かれたら、答えはイエスね。治癒魔術はとても希少なのよ。すべての魔術師が使えるわけじゃないわ」
ディナは右手を上げた。
「私の魔術の属性適性が火と風だって言ったの、覚えてるでしょう?」
僕は頷いた。
「治癒魔術はね、陽属性の派生魔術に分類されるの」
「そして陽属性の派生を持って生まれてくる魔術師は、他の属性の魔術師に比べて極めて少ないのよ」
「そうなんだ……」
だが、陽属性とは一体何だ? それって古代中国の哲学概念じゃないのか? なぜそんな概念が、明らかに西洋ファンタジーの世界観に存在しているんだ?
無意識のうちに眉間に皺が寄った。
僕の困惑した表情に気づいたのか、ディナはよりわかりやすい言葉で説明してくれた。
「こういうことよ。魔術を使うための最も根源的な原則は、生まれつき魔術の『才能』を持って生まれることだって、もう知っているわよね?」
僕は頷いた。
「この生まれつきの才能のことを、私たち魔術師の学術用語では『魔術回路』と呼ぶの」
大学の講義のような口調でディナが説明した。
「魔術師として生まれた人間は誰しも、肉体の中にこの魔術回路が埋め込まれているわ。正確な位置は、心臓のすぐ傍にあるの」
説明を強調するように、ディナは自らの左胸に人差し指を当てた。
テーブルの向かい側で、ナターシャが咀嚼するのを止めた。大きな丸い緑の瞳で僕たち二人を興味深そうに見つめ、今朝の『講義』を黙って聞き入っていた。
「魔術回路は、いわば肉体に備わった追加の魔導器官よ。魔術師や、魔力を操ることのできる存在だけが排他的に持っている器官なの」
ディナは解説を続けた。
「魔物や、魔術によって実体化した不死者なんかも持っているけれど、結晶化していて『魔核』や『オーブ』と呼ばれることが多いわね。大抵は頭蓋骨の中や急所に埋め込まれているわ」
「人間の解剖学に戻るとね」
ディナは胸から手を下ろした。
「心臓の近くにある魔術回路の中心から、目に見えない蔦のようなものが伸びていて、それを『魔術神経』と呼ぶの。この魔術神経は、人間の生体神経系と同じように全身の組織へと広がり根を張っているわ。ただ、この魔術神経の数は個人によって異なるのよ。具体的な例を挙げると、私の魔術回路に繋がっている魔術神経は、生まれつき三十本が限界よ」
魔術回路と魔術神経、か。このシステムは電子回路やパソコンのマザーボードの構造にひどく似通っているように感じられた。
「つまり結論として……魔術回路に繋がる魔術神経が多ければ多いほど、その魔術師は強いってこと?」
確認のために尋ねた。
「その通りよ」
ディナはパチンと指を鳴らした。
「活動している魔術神経の分岐が多ければ多いほど、魔力の処理能力が劇的に跳ね上がるからよ。一度に複数の魔術呪文を同時に詠唱することだってできる。神経が多ければ、出力の経路が広いから負荷をかけすぎることなく、体内から大規模な魔力エネルギーを引き出すことができるの。すべてが並列で処理されるから、変換の速度も格段に速くなるわ」
次々と繰り出される専門用語を理解しようと、僕は眉をひそめた。まだ少し困惑している僕の表情を見て、ディナは深くため息をつき、肩を落とした。
「あたしが例えてあげるわよ」
テーブルの端から、ナターシャが不意に口を挟んだ。
素早く顔を向け、二つ結びの少女を疑わしそうに見つめた。
この子に魔術理論の何がわかるっていうんだ?
「ちょっと! そんな見下したような目で見るんじゃないわよ! あたしだって魔術の理論くらいよく知ってるんだからね!」
ナターシャは頬を赤くして僕を睨みつけた。
「あ、ごめんごめん」
僕は降参するように両手を上げて返した。
「木造の家を建てる過程を想像してみてよ」
ナターシャは偉そうに講義を始めた。
「もし家一軒を丸ごと建てるのに大工を一人しか雇わなかったら、何ヶ月も時間がかかるでしょ?」
筋の通ったその理屈に僕は頷いた。
「でしょ? そこで大工を十人とか二十人同時に雇ったとするじゃない。そしたら当然、家はずっと早く建つでしょ」
「魔術の仕組みもまったく同じことなのよ」
ナターシャは小さな人差し指で机を叩きながら続けた。
「魔術回路の中の魔力量は、あんたの持ってる資金だと思ってよ。どれだけ山のような大金を持っていたとしても、作業する大工が一人しかいなかったら、作業は遅くて滞るでしょ」
「この場合、魔術神経は大工の数なの。持ってる魔術神経が多ければ多いほど、生の魔力は素早く処理されて魔術現象へと変換されるわ。作業する大工が多いんだから、壁も屋根も基礎も同時に建てられるってわけ!」
目を見張った。その例えは実に筋が通っていて、驚くほどわかりやすかった。
「ああ、理解できたよ。すごく頭のいい例えだね。ありがとう、ナターシャ」
「ふんっ! 言ったでしょ、あたしは賢いんだから!」
ナターシャは誇らしげに鼻を鳴らし、隠しきれない得意げな笑みを浮かべて胸の前で腕を組んだ。
「ええ、大体そんな風に単純化できるわね」
ディナはくすくす笑い、妹の頭を優しく撫でた。
昨日のディナの恐ろしい警告とこの新しい情報を結びつけ、頭を巡らせた。
「じゃあ、魔術師はどうやって自分が持っている魔術神経の正確な本数を測ったり把握したりするの? それと……昨日はエルフを解体して魔導器官を奪う奴らがいるって言ってたよね。それって、魔術回路は無理やり他人の体に移植したり譲渡したりできるってことなの?」
「最初の質問に関しては、後で最初の魔術を詠唱できたときに本能的に実感できるわ」
ディナは思わせぶりに答えた。
「それと器官の移植については……そんな暗い話は後回しにしましょ。魔術の訓練のときに詳しく話してあげるわ。今は、治癒魔術の基本の話に戻りましょう」
僕は唇を尖らせた。わざと僕の好奇心を焦らしているのだ。
ディナは座り直した。
「魔術回路は、魔術師という存在の核よ。これなしに魔術を使うことは不可能だわ。赤ん坊はみんな、それぞれ異なる魔術回路の青写真を持って生まれてくるの。火属性の適性一つだけを純粋に持つ者もいれば、私のように二重の適性を授かる者もいる。もちろん、生まれ持った属性適性が多ければ多いほど、多彩な魔術を扱える自由度が増すから、その潜在能力は計り知れないものになるわ」
「じゃあ理論の基礎として、この世界は七つの主要な魔術属性の上に成り立っているってことだね?」
よく読んだ王道ファンタジーのお約束を確認するように尋ねた。
「火、水、風、土、雷、陽、そして陰?」
「そうよ。でも覚えておいて、それはあくまで基本属性の分類にすぎないわ」
ディナがきっぱりと返した。
「その七大系統の外側で、魔術の学問体系は途方もなく広く複雑に発展してきたの。私の知る限りでも、治癒魔術、氷魔術、蒸気魔術、他にもたくさんの派生魔術があるわ。けれど自然の法則は絶対よ。魔術回路に一つの属性適性しか持たない魔術師は、一生他の属性の魔術を使うことはできないの」
ディナは人差し指を立てた。
「だけどね! 一つの属性適性しか持たない魔術師が生涯火球しか撃てない、なんていう狭い考えに囚われないで。他の自然属性からは閉ざされているけれど、無属性魔術を学ぶ自由は完全に残されているんだから」
「補助魔術みたいなこと?」
「そうよ。例えば飛行魔術なんかね。あれは風属性の魔術ではなくて、自らの肉体の重力を操作するために人間の魔術師が純粋に編み出した複雑な術式なの。封印魔術や、空間魔術なんかも全部このカテゴリーに入るわ。どんな魔術師であっても、生まれ持った属性に関係なく、理論上はこの無属性魔術を学ぶことができるのよ。もちろん、すべては本人の意志や魔力量、魔術の難易度次第だけどね。無属性魔術は難易度が上がるほど、難しすぎて脳みそが破裂しそうになるくらい学習が困難になるわ」
「そして何より重要なこととして、魔術を行使するには二つの大きな柱が必要なの。詠唱と、空間的な想像力よ」
ディナは僕をまっすぐ見つめた。
「詠唱はただの言葉遊びの詩じゃないわ。特定の魔術現象をこの世界に『呼び出す』ために、世界の法則によって設計された唯一無二の音節の連なり音なのよ。この世界で新しい魔術が創出されたり発見されたりするたび、世界の法則がその現象を引き起こす引き金として、固有の詠唱の節を自動的に具現化させるの。大抵は古代の神聖な存在や、生み出される自然現象の描写を指しているわね。そして面白いことに、最初にその魔術を創り出した魔術師が、その詠唱の言葉の情報を本能的な啓示として授かるのよ」
「二つ目の柱は、想像力よ」
何かを形作るかのように指を空中で動かしながら、ディナは続けた。
「詠唱は扉を開けるための鍵にすぎないわ。溢れ出る魔力を完全に制御するためには、強固な空間想像力を働かせることが求められるの。最大の威力を出すためにどれだけの魔力量を注ぎ込むのか? 弾体の形状はどうするのか? 弾道はどう描くのか? 詠唱された魔術の物理的な操作過程はすべて、あなたの想像の集中力にかかっているのよ」
この重厚な学術理論の数々を処理しようと、頭の中の歯車をフル回転させながら僕は押し黙った。
ちょっと待てよ。単純な論理で考えてみよう。魔術の形状や威力を制御する根底が純粋に自らの頭の想像力にあるのなら、どうして最初からイメージの視覚化だけで直接使わないんだ? 生死を賭けた戦いの最中に、長々と呪文の詠唱を口にするなんて、ひどく非効率で面倒じゃないか?
「その顔を見れば、頭の中でどんな疑問が渦巻いているか当ててみせられるわ」
ディナは勝ち誇ったように目を細めて微笑んだ。
「『最初から頭の中のイメージで直接発動できるなら、どうしてわざわざ長い呪文を詠唱しなきゃいけないんだ?』って考えてるんでしょう? そうでしょ?」
図星を指されたことを認め、僕は躊躇なく頷いた。
「答えはとても単純よ」
ディナは身を乗り出し、その表情は極めて真剣なものへと変わった。
「さっきも言った通り、詠唱は魔術を呼び出すためのただの演出じゃないの。その呪文の言葉こそが、世界の法則を起動させる建築の基礎なのよ。引き金となる言葉は、魔術エネルギーが形成される初期段階の爆発を安定して保つための、決定的な骨組みとして機能するの。防護の外殻となる詠唱の旋律がなければ、引き出された魔力は瞬時に崩壊し、大気中の魔力へと霧散してしまうわ」
彼女はゆっくりと拳を握りしめた。
「この支えとなる骨組みがなければ、内部の魔力の乱れによる不安定さだけで、魔術は形を成す前に一瞬で瓦解してしまうのよ」
「この世界の魔術の基礎理論ではこう定められているわ――詠唱という媒介なしに魔術を行使することは、絶対に不可能である、とね」
なるほど、詠唱を基盤とした発動に、想像力を補正として組み合わせるシステムというわけか。
「もう一つ質問があるんだ」
ディナは小さく頷き、先を促した。
「もし七大基本属性のどれにも属さない魔術回路を持って生まれた場合、その人の回路は自動的に派生魔術のタイプになるの?」
尋ねてみた。
「ええ」
ディナがきっぱりと答えた。
「じゃあ、氷属性の魔術回路を持つ人は、水属性の魔術も使えるの?」
「いいえ、それはやっぱり無理よ」
ディナは断固として首を横に振った。
「自分が作り出した氷を操作して、水へと融かす場合は別だけどね。それにしたって、厳密には物質の形状を元の物理的な状態に戻しているだけであって、最初から純粋な水属性魔術を使っているわけじゃないわ」
「じゃあ、基本属性の魔術を派生属性へと変化させるにはどうすればいいの?」
「その具体的な講義は、後の魔術訓練にとっておきましょ」
ディナは軽く手を振り、それ以上の言及を遮った。
「今は、魔術の基礎的な理解を深めるために、基本理論を咀嚼することだけに集中して」
「わかった。それと、精霊魔術の存在についてはどうなの? 精霊魔術みたいな概念って本当に実在するの?」
あの奇妙なやり取りを思い出し、問い詰めるように尋ねた。
「教会にいたとき、ノア神父様が僕に言ったんだ……精霊たちに好かれているようだ、って。それって、実際どういう意味なんだろう?」
「精霊魔術については、私の知識もかなり限られているわ」
ディナは眉をひそめ、困惑した様子を見せた。
「でも私の知る限りでは、あの手の魔術は属性システムには分類されないの。理論上はどんな魔術師でも学べるはずよ。ただ、絶対に譲れない条件が一つあるわ。精霊そのものに好かれなきゃいけないのよ。精霊たちとの共鳴がなければ、精霊魔術を学ぼうとする努力なんてただの無駄骨に終わるわ」
無意識のうちに視線が逸れた。テーブルの向かい側でずっと静かに座っていたナターシャを見つめた。その幼い少女は、講義をする姉の姿を、憧憬の光を宿したまん丸な目で見つめていた。
「何見てんのよ?!」
ナターシャは残りのパンをフォークで乱暴に突き刺しながら、鋭い眼光で睨み返してきた。
「何でもないよ。ただ気になって聞いてみたかっただけさ」
僕はさらりと言った。
「君もディナみたいに、魔術が使えるの?」
ドクン。
僕の何気ない質問を聞いた瞬間、ナターシャの尊大な表情が一変した。体は凍りつき、唇は固く結ばれた。食堂の空気が一瞬にして重苦しいものへと変わる。
え? 待てよ。僕、地雷でも踏んじゃったのか? 絶対に言ってはいけないタブーに触れてしまったのか?
妹の表情の急変に気づいたディナは、すぐに自分の椅子から身を寄せた。ナターシャの肩を温かく抱き寄せ、ピンク色の髪を深い愛情を込めて優しく撫で始めた。
「ナターシャはね……魔術の才能を持って生まれなかったのよ、リアム」
「しまっ……ごめんなさい。悪気はなかったんだ、本当に」
激しい罪悪感に苛まれ、僕は慌てて頭を下げた。
「いいの……本当のことだから」
ナターシャはかすかに震える小さな声で呟いた。彼女はディナの体をゆっくりと押し退けた。
スーッ。
ナターシャは席を立ち、食べ終えた木皿を手に取ると、一度も振り返ることなく俯いたまま台所の方へと歩いていった。
「ナターシャはね……魔術に関することが大好きな子なのよ」
壁の仕切りの向こうへと消えていく妹の小さな背中を目で追いながら、ディナは沈んだ声で語り始めた。
「姉である私が魔術師だから、あの子が小さい頃から簡単な魔術の手品を見せては喜ばせてあげていたの」
「それを見て育ったから、ナターシャは私から複雑な魔術理論を熱心に学ぼうとしてくれたわ。魔術の話をするときはいつも、あの子は本当に幸せそうで目を輝かせていた」
「そんな期待があったからこそ……自分に魔術回路がまったく備わっていないと知ったとき……あの子は酷く落胆したのよ」
「私のせいだわ。実の姉である私が魔術師だからといって、妹にも同じように魔術師の才能があるとは限らないってこと、もっと早く気づいてあげるべきだったのに」
ディナは空になったミルクの器を見つめた。
「お父さんもお母さんも……魔術師なんかじゃなくて、純粋な普通の人間だったわ。だから、ナターシャに魔術の才能がないことの方が、本来は自然なことなのよ」
「私が魔術師の才能を持って生まれたことなんて、単なる偶然の産物にすぎないわ。平民の夫婦から、奇跡的に二重属性の適性を持つ子供が生まれただけよ。この世界で魔術師が生まれる謎は、誰にも予測できないまったくのランダム現象なんだから」
「最も卑しい身分の奴隷からだって、強大な魔術師が奇跡的に生まれることだってあるわ」
「その逆だって珍しくないのよ。両親が純血の高位貴族の魔術師であっても、生まれてくる子供がただの普通の人間になることだってあるんだから」
僕は手を伸ばし、机の上に置かれていた残りの麦パンを手に取って、黙ってそれを咀嚼した。
どれほど高貴な最高峰の魔術師の家系に生まれたとしても、その血筋が才能の継承を保証してくれるわけではない。その逆もまた然りだ。
魔術というのは……本当に神秘的だ。
「ごめんね、リアム。こんなつまらない身の上話を聞かせちゃって」
空気を和ませようと、ディナは苦笑いを浮かべた。
「ううん、そんなこと言わないでよ。申し訳ないのは僕の方だ。不用意な口を利いて、デリケートな話題に触れちゃって本当にごめんなさい」
僕は深い後悔を込めて返した。




