第25章:奇妙な夢
「はい、今日の講義はここまでです」
「解散して構いません。来週の月曜日の期末試験では、全員が全力を尽くして最高の結果を出せるよう期待していますよ」
椅子の脚が擦れる音とバッグのファスナーを開閉する音が、たちまち静寂を破った。
「やっと終わったー」
前の席の男子学生が、背骨をポキリと鳴らしながら両腕を高く伸ばして声を上げた。
「月曜もうテストかよ? 何勉強したのか全然わかんねえや」
「は? お前本気で言ってんの?」
「まさか、冗談に決まってんだろ。そういや、北門の近くに新しいカフェがオープンしたらしいぜ。行ってみね? バリスタの女の子が可愛いらしいぞ」
青い布張りの座席から人々が立ち上がり、二重の木製ドアを通ってぞろぞろと出ていった。彼らの笑い声や他愛のない雑談が、ひどく平和に響いていた。
僕も同じように身支度をした。ルーズリーフのバインダーを揃え、ペンケースをリュックサックにしまう。片方の肩にそれを背負い、大学の廊下へと歩き出した。
みんなずいぶん呑気だな。
廊下で談笑する学生たちの群れを見渡した。
来週の月曜にはもう試験だというのに。
ふと足が止まった。下を向き、少し汚れた黒いスニーカーを見つめる。
「何を言ってるんだか、僕も……」
重いため息が口から漏れた。
「人のことをどうこう言える立場でもないのに」
さっきから頭の中に居座っている奇妙な靄を振り払おうと、首を軽く横に振った。
「本屋にでも寄って行こう」
見慣れたコンクリートの階段を下り、正門へと向かう他の学生たちの波に混ざった。外の空気は少し違っていた。やや湿気を帯び、降り始めの雨粒が乾いた地面に触れたときに立ち上る、ペトリコールの独特な匂いを運んでいた。
「なんだか……」
自分の胸に手を当てながら、僕は小さく呟いた。
「……何か大事なことを忘れているような気がする」
顔を上げた。街の上の空は、黒ずんだ灰色の積乱雲に覆われていた。風がやや強く吹き、歩道のマホガニーの街路樹から枯葉を散らしていた。
「曇ってきたな。もうすぐ雨が降るに違いない」
リュックのサイドポケットに手を入れ、黒い折りたたみ傘を取り出した。ボタンを一度押すと、カチリと音を立てて傘が開き、小雨がまだ本格的に降っていないにもかかわらず、頭上に小さな天蓋を作り出した。
それぞれの用事で忙しそうな歩行者たちとすれ違いながら、歩道を進んだ。
『リアム……リアム……!』
唐突に足が止まった。傘の先から露が滴り落ちる。
振り返り、インターロッキングの敷かれた歩道を行き交う人混みを見渡した。
「こんな路上で大声出してるの、誰だよ?」
煩わしさを感じて小さく愚痴をこぼした。再び体を向き直して歩き出す。
『リアム……お願い、起きて!』
再び足が止まった。今度はより不自然に強張っていた。
「耳元で叫ぶなって言ってるだろ!」
少し声を荒らげ、鋭く振り返りながら叫んだ。
「少しはマナーってものを考えたらどうだ? それに僕の名前はリアムじゃ――」
言葉が途切れた。
僕の背後には誰もいなかった。ただ数人の歩行者が足を止め、同情の籠もった視線で僕を見つめていただけだった。
僕は気まずくなって唾を飲み込んだ。突然ズキズキと痛み始めたこめかみを人差し指の先で押さえる。
「最近夜更かしが続いてたせいに違いないな」
人々の痛々しい視線から逃れるように足を速め、独り言を呟いた。
「見知らぬ名前を叫びながら泣く女の声の幻聴まで聞こえるなんて」
いつもの書店のガラス扉を押すと、ドアベルがチリンと涼やかな音を立てた。新しい紙と印刷インク特有の匂いに混ざり合ったエアコンの冷気がすぐに迎え入れてくれ、ささくれ立っていた気持ちが少し落ち着いた。
「いらっしゃいませ」
赤い制服を着た女性店員が、マニュアル通りの笑顔で迎えてくれた。僕は軽く会釈だけを返し、そのまま通路を進んで『ライトノベル――ファンタジー/異世界』と書かれた棚へと向かった。
つるつるとした本の背表紙の並びを指先でなぞり、黄色い花束を手にした黒いスーツ姿の猫耳の男のイラストが描かれた一冊の前で指を止めた。
「『リゼロ』の44巻、もう出てたのか」
破られていないフィルム包装を見て、少し目を輝かせた。
「現地の出版社がこんなに早く翻訳を出すとは思わなかったな。公式の翻訳版を読むには何ヶ月も待たされると思ってたのに。この巻、日本で発売されたのって一週間くらい前じゃなかったか?」
深く考えることもなく、その本を手に取った。それから棚の下段へと目を落とす。
「ついでにあれも買っていくか」
分厚い小説を一冊引き抜いた。表紙には、露出度の高いビキニアーマーを身につけた褐色のダークエルフの少女が、白銀の鎧を纏った人物と対峙しているイラストが描かれていた。
「ネットの翻訳で読んではいたけど、『オーバーロード』の16巻は紙の本でコレクションしとかないとね」
本をパラパラとめくりながら呟いた。
「17巻が全然出ないのが残念だな。アインズ・ウール・ゴウンが新世界の残りをどうやって征服していくのか、めちゃくちゃ気になってるのに。はぁ」
他に買うべき本がないことを確認し、レジへと向かった。レジカウンターの近くの壁では、中型の液晶テレビが春アニメのプロモーション映像を次々と流していた。
【ナツキ・スバルの帰還を見届けよ! 『Re:ゼロ』第4期……2026年4月放送開始! 各配信プラットフォームにて配信決定!】
雪の中での壮大な戦闘アニメーションが流れる画面に目を奪われ、足取りが緩んだ。
「第4期か。ってことは第6章……プレアデス監視塔だな。4月に一気見できるよう、課題が溜まってないといいけど」
二冊の本をレジカウンターの上に置いた。
「お会計は〇〇円になります」
店員はそう言って白いビニール袋を差し出した。
「どうも」
書店から外へと出た。雨粒が降り始め、都会のアスファルトを濡らしていた。
ブーッ……ブーッ……
ズボンのポケットの中でスマートフォンが長く震えた。傘を片手に支えながら、もう片方の手でスマホを取り出す。端がひび割れた画面には『お母さん』の着信表示が浮かんでいた。
緑色のアイコンを上へスワイプする前に、深く息を吐き出した。
「もしもし? どうしたの、母さん?」
「もしもし? 大学はどう? もうすぐ期末テストなんでしょう? ちゃんと勉強してるの? 解けそう?」
かすかなノイズを背後に混じらせ、どこか弱々しい母の声が響いた。
「それから……今月の仕送り、もう足りなくなったりしてない? 足りないなら、今日の夕方にでもまた振り込むわよ」
点灯したばかりの街灯を反射するアスファルトの水たまりを見つめた。
「大学は順調だよ」
できる限り平坦な声で答えた。
「テストのことも……過剰に心配しなくていいから。そのくらい頭に入ってる。仕送りも……先月の頭にもらった分がまだ十分に残ってるよ。わざわざ送ってくれなくていいから」
「そうなの? それならよかったけれど……」
母のほっとしたような声が返ってきた。
「ねえ……たまには顔を見せに帰ってこない? 家を出てからもう三年近くになるのに、長期休暇のときも一度も帰ってこないじゃない。もしかして……お父さんやお母さんがあなたを傷つけるようなことをしたから、避けているの?」
「違うよ。何言ってるんだよ」
僕は早口で返した。
「父さんも母さんも、何も悪いことなんてしてないよ。たださ、母さんだって知ってるだろ? こっちは大学の課題が山積みなんだ。それにコンビニのバイトのシフトも詰まっててさ。実家まで電車で丸一日かかるし。帰ろうと思っても、いつも予定が合わないんだよ」
また嘘をついてしまった。
「そう……私たちのことが嫌いになったのかと思ったわ。時間ができたら帰ってきなさいね。家のドアはいつでも開いているんだから」
「うん、母さん。都合がついたらね。電車が来そうだから、もう切るよ」
僕は赤いボタンを押した。
激しさを増す雨の下で、僕は立ち尽くしていた。黒い傘は雨を防いでくれたが、冷たさまでは防いでくれなかった。
「帰省、か……」
僕は呟いた。
「あんなクソみたいな場所、二度と帰るもんか。チッ」
僕は足早に駅へと向かった。
誰もいない優先席の隅に、一人で腰掛けた。
鉄のレールと擦れ合う車輪の音が、単調なリズムを刻んでいた。
ガタゴト……ガタゴト……
車両の天井の蛍光灯が、突如として明滅した。チカッ。
少し黄色みを帯びて明かりが戻ったとき、あり得ないものが目に入った。
密閉され冷房の効いた電車の中で、一羽の蝶がひらひらと舞っていたのだ。その翅は白く光り輝き、リノリウムの床へとゆっくり落ちていく微細な光の粉を撒き散らしていた。
その虫は冷たい空気の中を緩やかに舞い、やがて僕の膝の上にぽつりと留まった。
僕は虚ろな目で見つめた。
「綺麗な……蝶だな」
『起きて、リアム……お願い、起きて……』
その声だ。またあの女の声だ。今度は遠くからではない。頭蓋の内で直接反響するかのように、極めて明瞭に聞こえた。
「またあの声か……」
頭がズキズキと痛み始め、僕は呟いた。
「僕の名前はリアムじゃないって言ってるだろ。それに何なんだよ、起きろ起きろって何度も……僕は電車に座ってるんだ、もう起きてるっての!」
ガタゴト……
レールを擦る車輪の音が突如として消え去り、耳を劈くほどの完全な静寂へと取って代わられた。窓の外を流れる色鮮やかな街の灯りと地下鉄の暗闇が瞬時に溶け合い、視界を焼き尽くす一色へと変わった。
白。
……
僕ははっと飛び起きた。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
必死に空気を吸い込むと、肺が焼けるように熱かった。冷や汗が全身を濡らし、着ている服が肌にべったりと張りついて不快だった。僕は柔らかなものの上に座っており、背中は木製のヘッドボードに預けられていた。
「何が……何が起きたんだ?」
かすかに痛むこめかみを揉んだ。心臓が激しく早鐘を打ち、あの奇妙な夢の焦燥感が今なお生々しく残っていた。
「それに……ここ、どこだ?」
視線を忙しなく巡らせ、周囲を見渡した。見覚えのある板壁。窓際の書き物机。空っぽの本棚。
「あ、そうだ……」
悪臭の漂う狭い路地、あざ笑うチンピラの顔、殴られ蹴られた激痛、そしてディナの魔術……そのすべてが鮮明に蘇ってきた。
「僕……あのクソチンピラどもに袋叩きにされて……ディナにおぶわれて帰る途中で気を失ったんだった」
うつむき、今は綺麗になっている自分の手のひらを見つめた。
「さっきの夢……電車の夢は……一体何だったんだ?」
ベッド脇の小机の上で静かに揺らめく蝋燭の炎を見つめ、僕はしばし押し黙った。そのオレンジ色の光が、壁に踊る影を描き出している。
「ディナ……そうだ。ディナはどこだ?」
彼女の無事を案じる気持ちが、痛みや混乱を一瞬でかき消した。慌てて毛布を跳ね除け、立ち上がろうとする。
冷たい板の床に足を下ろし、体重を乗せた瞬間――
「え?」
自分の体を確かめてみた。頭が重く、触れてみると分厚い包帯が何重にも巻かれていた。見下ろすと、腹も胸も同じ包帯で巻かれ、右腕も同様だった。
「これほどの重傷なのに……」
肋骨のあたりをそっと押してみた。激痛が走るはずなのに、奇妙なことに……
「全然痛くない……?」
激しい運動をした後のような、かすかな筋肉痛の鈍い感覚があるだけだった。骨折やひどい打撲による突き刺すような痛みはどこにもない。
完全に立ち上がり、数歩歩いてみた。少し足取りはおぼつかなかったが、まっすぐに立つことができた。
あり得ない。あんな大怪我を負ったなら、少なくとも一ヶ月はベッドで寝たきりのはずだ。
一体どうやって……?




