【21】
季節はゆっくりと、けれども振り返れば刻々と日々の姿を変えていた。
暑さを助長させる虫の音が鳴り渡る夏を過ぎ、情熱的な色に木の葉を染める秋が来て、風に吹かれて葉が舞い落ちる。靴音の代わりに石畳を覆う枯れ葉が砕ける音を立て、冷え切った雨が降る。地面のへこみに溜まった雨は翌朝にはすっかり表層が氷漬けになって、ヒールが当たるとパキリと割れる。
吐き出した息が白くなって、目に見えるようになっていた。
定時の30分前。
その時間が定時だというようにローシェは今日も出勤する。
裏門の門番にお決まりの挨拶をして、女学院のひっそりとした裏玄関を進む。
そこに彼の姿はない。
ローシェが学院長に紹介候補者のリストを提出した一週間後に、毎日欠かさず姿を見せていた彼はぱったり消え去った。
デオロット伯爵夫人から既に彼に話がいったのだろう。女学院側で彼と話が合いそうな女性を幾人か紹介されていると知って、彼は何を思っただろうか。
「昨日今日と、あのお人は来ておりませんね」と門番から聞き知って以降、ローシェは女学院の決まった窓から事あるごとに外を見下ろした。
女学院の出入りに裏門を通るようになった。
いなくなった彼を探してしまう自分がいた。
彼を突き放しておいて、彼に一途に想われることを願うなんてあまりにも身勝手だ。
もう彼は現れない。
それが分かって、自分から彼の面影を切望する。
彼のいない景色は、色褪せたモノクロの世界に見えた。
色とりどりの花が咲く暖かな夏も、緑の葉を黄色や紅に染めていく幻想的な秋も。
木の葉が落ち切って丸裸にされた木の枝を見て、踏みつけられて散り散りに割れた枯れ葉を見て、ようやく自分の視界に映る景色が、他の人の目に映る景色と一致したような。
自ら切り離した恋への未練がましい執着が終わったような安心感と、彼の存在が薄れてしまいそうな恐れが混在して、苦しくなった喉元を手のひらで覆う。
教員室に辿りつくと、入り口付近のカウンターに置かれた新聞を片手に自席に向かった。
「おはようございます」
途中で、毎日決まって先に来て仕事をしている同僚に挨拶をする。
動かしていた手を止めて顔を上げた同僚は表情を濁す。その気の毒そうな眼差しにローシェは既視感を覚えた。
「学院長がお待ちよ、ローシェ。急いだほうがいいわ」
今回の招集は明らかに不穏だ。
手にした新聞をさっと広げて、紙面の表題を確認していく。
(今日もない……)
細々とした文字には目を向けずに早々と確認を済ませたローシェは「行ってきます」と同僚に礼をしてから、長い廊下を駆けだした。
*
「お呼び出し――ですか?」
秘書が用意してくれた紅茶に手を付けず、百合の紋様が描かれた白地の封筒をテーブルの上で差し出した学院長へと、ローシェは状況を把握できないまま繰り返す。
――デオロット伯爵夫人が貴女をお呼びです。今すぐに伯爵邸に行きなさい。
学院長ははっきりと、そう言った。
「ええ。ご令息は未だに婚約発表をなされていませんね」
「はい。今日の新聞にも記事は出ておりませんでした」
ここ数か月、仕事の始まりは新聞のチェックだった。
デオロット伯爵令息の婚約発表となれば、必ず新聞が取り上げる。貴族向けに発行されている新聞には子爵や男爵位の令息令嬢の婚約まで取り上げられるので、伯爵家となれば一面を飾ることだろう。これまでの同格の貴族はそうだった。
「デオロット伯爵夫人はご令息の婚約者探しを悠長に捉えてはいませんでしたから、この招待を私は重く受け止めています」
冷静な学院長の言葉に、ローシェは膝に乗せた手を握る。青白く、血管が目立つ手は力を込めても凍えている。
彼の想いを否定して逃げたせいで、彼を更なる女性不審にさせていたらどうしようと当初は思っていた。
学院長は貴族間の仲介に携わった際に、定期的に両者から状況を確認している。
今回もそうだ。
ローシェがリストをつくり、その内の数名を学院長が紹介し、その中から更に絞った数名をデオロット伯爵夫人が彼の見合い相手に選んで、ガーデンパーティーを催した。その後、幾人の女性と数回交流を重ね、見合いは「良好な関係を築けている」と各家から連絡があったと聞いていたから、ローシェは杞憂だったと思い直した。
けれど、心とは理路整然としないものだ。
特段気にしていなくても、何かの些細なきっかけで疑心暗鬼に陥ったり、手も足も出せなくなったり、これまでの自分が揺らぎそうになる。
自身の存在がそのきっかけを生み出す要因になっていたらと不安だったから、彼の婚約発表がされる日を待っていた。
見たくないと思いながら、姿を見ることが叶わない彼の幸せを紙面越しでもいいから知りたかった。
「本来なら私も赴く事案ですが、デオロット伯爵夫人は貴女一人で来ることを望んでいます」
「――はい」
震えをのみ込んで、固く吐き出す。
「いつでも構わないとも書かれていましたが、今すぐに向かいなさい、ローシェ。不在の場合は、戻ってこられるまで待たせてもらいなさい」
「はい、行って参ります」
手に取ると百合の香りがふわりと揺らぐ封筒を手にしたローシェは、深々と礼をしてから厳かな分厚い扉で締め切られた学院長室を後にした。




