【20】
「ローシェ、そろそろ溜まってた仕事も落ち着いたんじゃない? 今夜私とどう?」
くいっと豪快にお酒を飲むポーズをした年上の同僚に、ローシェは手を合わせる。
「すみません、まだ来週から始まる授業の準備が終わっていないんです。また今度、誘ってください」
本当のことで、断り文句だった。
待てども風化してくれない彼との日々を、酒に酔って口を滑らせてはいけない。
話せる部分を話しなさいよ、と言われても困るので、気持ちが解放されるような状態にもなりたくなかった。
*
彼の舞踏練習に付き合った翌日、ローシェは伯爵夫人に経過報告を済ませ、出向期間終了のサインをもらった。
当初に依頼された彼の見合相手の紹介は学院長に伝えておくと話すと、夫人は満足したようだった。
馬車での送別を丁重に断り、使用人用の裏口からデオロット伯爵邸を去る。
大通に出たら待合所に向かって、何度も迂回した道を通って自宅付近の降り場に辿り着く乗合馬車を待つ。
ガタガタと派手な音を鳴らしては大きな振動が響いて痛む身体の節々に気が滅入って、これが身分相応というものだと実感した。
そう思うことで、気持ちに区切りをつけたかった。
(全然、終わった話になってくれないのだけれど……)
出向期間が終わって女学院に復帰したローシェは、真っ先に学院長に挨拶を兼ねた報告をする。
学院長の一声で、紹介候補のリスト作成に取り掛かった。生徒と卒業生の成績表を見直して、教師毎の総評を読む。過去の新聞や最新の貴族名鑑をチェックして、婚約状況を確認する。
学院長に提出し終えたら、あとは学院長の領分だ。
これから候補者の精査をして、デオロット伯爵夫人の意向を確認してから候補者側に連絡をとる。そうして、彼の婚約者探しは始まっていくのだろう。
仕事だから真剣に取り組んだ。彼が求める人物像を想像して、彼が心地良いと思える距離感を見極められる相手を考えて。
おこがましくも、自分と比べた。
成績が良くて、努力家で、人柄も良い。言いつけられた生き方をしているのではなくて、その中で『自分』をしっかり形成した彼女達。
比べたところで彼女達に勝る面がなくて、教え子と己を比べる自分自身に落胆して、卑しい感情を恥じた。
彼が知ったら幻滅するだろう。名門女学院の教師という立場が何倍も良くローシェをみせてくれているだけで、実際は秀でたところなんてない。彼につり合わないのは、身分だけではないのだ。
(駄目よ、ローシェ。暗い思考は表情まで暗くしてしまうわ。笑っていなくちゃ)
笑って、前を向こう。
働いて、給料を受け取って、家族を支えていかなくちゃ。現実味のない恋を、いつまでも未練がましく思い返してはいられない。
「それはそうと、さっき門番から連絡受けたんだけどね。また来てたらしいわよ」
どきり、と胸が痛む。
「身なりからして貴族よね? 明らかに不審者なのに、どうして学院長は何も対処しないのかしら。いつもなら早々と騎士団に対応してもらうのに」
まったく、と悩ましげな溜息を吐く同僚に、ローシェも合わせて苦笑いする。
「事情があるのでしょうね」
「きっとそうなのよね〜。その辺り聞きたかったのに残念だわぁ」
「しょうがないわよね」と息を吐いてから、同僚は意味ありげに微笑んで自席に戻っていった。
ローシェは頭を伏せて、手元の教本を読み始める。
――読むふりをして、瞼を閉じた。
裏門から少し離れた樹木の横に立つ、彼の姿。
一度だけ、女学院の窓から彼の姿を目にした。
迎えにきてくれた雨の日と同じく、漆黒の外套に身を包んだ彼。
初夏を通り過ぎて、既に汗ばみ始める夏に変わったのに、彼は身を隠す外套を纏っていた。そのせいで、余計に彼の特別な存在感が際立っていた。
木の葉で日陰になっていても暑いだろう。心配だったから、ずっと視線を逸らせずにいた。
授業の時間も忘れて、立ち尽くす彼と同じく、窓際に立ち尽くしていた。
前だけを見ていた彼が、ふっと見上げて目が合った。
遠くて、影になって表情も見えないのに、目が合っているとわかってしまった。
(私は、逃げたの)
弾かれたように飛び退いて、後退して、彼にはもう見えないと分かっていながら、その場から走り出していた。
以来、彼を視界に入れるのが怖くて、窓から外を眺めないようにしている。
門番には彼の様子に気を配って、辛そうだったら水を渡すように頼んだ。
学院長にも彼が裏門にいることを報告した。デオロット伯爵夫人が本格的に彼の婚約者探しを始めたら、彼は女学院に来る時間をとれないだろう。それまでの間、そっとしておいてほしいと頼んで、了承してもらっている。
締め付けられる痛みに息衝く。
じわじわと疼く胸の痛みは苦しさだけじゃなくて。
彼が私を待っている――そう思ったら、途端に甘い痛みにもなって、そんな自分を浅ましく思った。




