【22】
学院長が待機させていた女学院の馬車に乗って、ローシェはデオロット伯爵邸の門を潜る。
馬車を降りると、御者にひと声かけて女学院に戻ってもらった。
招待されたとはいえ日時を指定されていないのだから、どのくらい待つかわからない。それに、内容次第では更に時間を要する。
契約書類一式や重要な書類に用いられる厚口の用紙に筆記具を詰め込んだ鞄を両手に、急な来客を迎えた執事に礼をする。
執事は「お久しぶりですね」と快くローシェを案内してくれた。
ホールから繋がる応接室だ。促された席の横でローシェは立ったまま扉に身体を向ける。
伯爵夫人は幸いなことに外出していなかった。執事の口振りを推測するに、女学院側がすぐにローシェを送り出すことを見越して、予定を空けていたようだ。
ここまで案内してくれた執事が夫人を呼びに行って、降りてくる。それまでの移動距離や二人の歩行速度を知っているローシェは、想定以上に長い待ち時間に緊張を募らせていた。
両手で握りしめた鞄が鉛のように重い。
デオロット伯爵邸の様相は、ローシェの記憶から大きな変化はない。あげるとすれば花瓶に生けた花の種類や、そこかしこに飾られた小物の並びが替わったくらい。
大きな窓からの採光によって、秋が過ぎ去ろうとしている今時期でも明るく温かな室内で、ローシェは暗く冷えた重圧を感じてしまう。
しばらくして執事とともに夫人が歩いてくる姿を目にして、丁寧に腰を折った。
「いらっしゃい、ローシェ。急に呼び立ててごめんなさいね」
「再びお会いできて光栄です、奥様。先触れも出さずの来訪になり申し訳ありません」
「あら、そんな他人行儀になさらないで。気を楽にして座ってちょうだい」
ふふふ、と微笑む夫人もまた、記憶と変わらない。
それでも気持ちの悪くなる緊張をしながらローシェが着席すると、執事が手慣れた手つきで紅茶を注ぐ。
ゆらゆらと上る湯気が朧気に見える。
馨しい茶葉の香りが漂って、まるっきり同じ紅茶を彼と飲んだ日を思い返して、どうにもならない感情を微笑みで隠す。
ティースプーンで数回かき混ぜてから、少しだけ冷えた紅茶に口をつけた夫人が「ローシェ」と呼んだ。
「貴女を呼んだ理由はお分かり?」
前置きなく本題に入る夫人は淑やかで、張り詰める鋭さはないけれど、貴族とはそういうものだ。
笑顔の仮面で本心を見えなくする。優雅に微笑んで親しみを持たせることで、会話の主導を握る。微笑みながら、冷酷な言葉を口にもできる。
ローシェは考え得る最悪の流れを想定して、頷く。
「御令息のご婚約に関するお話ですわよね。カルデリア女学院は奥様と二つの契約を結びましたもの」
ひとつは家庭教師の雇用契約。もうひとつは、女学院の生徒や卒業生の紹介にかかる契約。
後者の契約も既に終えている。女学院はあくまでも婚約者のいない生徒や卒業生を両者合意の上で紹介し、初めの一度を取り次ぐのみ。紹介した令嬢との婚約まで辿りつかなかったとしても、それは女学院には関係のないこと。
けれど、女学院から招いた家庭教師の恋愛指南の影響で、彼が婚約を望まない状況にいるとなれば問題だった。
「そうよ」
たった一言を告げて再び紅茶を口にする夫人に、ローシェは床に置いた鞄から書類を取り出す。
「契約書を持って参りました。私の雇用契約です」
「――何をおっしゃりたいのかしら」
「奥様の憂慮は私の甘い決断が招いた結果と思いますので、遡っての契約解除は甘んじて受け入れます。カルデリア女学院としての契約ですので、賠償に関しては話を持ち帰させていただきたいのですが、その前に謝罪をさせてくださいませ」
頬に手を添えて曇った表情を見せた夫人に、ローシェは先んじて頭を下げる。
「あら……」
夫人は続きを待つように言葉を発しない。家庭教師として赴いていた際は幾度かティータイムを過ごしたが、話好きな方だった。
だから、余程深刻な事態なのだとローシェは受け取る。
「学院長が近況を伺った際は、こちらがご紹介いたしましたご令嬢と良好な関係を築けているとのお話でした。その後、なにがあったのでしょう」
杞憂だったと終わらせてはいけなかった。
自分よりも秀でた女性は山ほどいるのだから、彼にとって替えの効かない存在になれるなんて自惚れることはできないけれど。
「息子と最後に会ったのはいつ?」
いつだって真っ直ぐに言葉を届けてくれていた彼から逃げてはいけなかったのだ。
「こちらで御子息の舞踏練習の相手役を務めた日が最後ですわ。翌日は早朝から仕事に向かわれていましたので、僭越ながらお別れの挨拶は書置きで代えさせていただきました」
「息子はそちらに足を運んでいたようだけれど」
「確かに御令息は女学院の門前まで来られていたことがありましたが、お会いしておりません。契約には守秘義務がありますので、良からぬ噂が立ってはいけませんから」
「手紙のやり取りもなかったの?」
「はい。御子息の指南においての契約主は奥様です。私は、奥様に知らせずに連絡を取り合える身ではありません」
「――では、本当に息子から何も聞いていないのね?」
当然連絡をとっていたのでしょう、という誤解が疑念になって、驚き、呆れに変わる。
「何も、と仰いますと……?」
ローシェは戸惑った。
いくら貴族が笑顔の仮面をつけるといっても、付き合いが増えるにつれて、多少の違いは察せられるものだ。けれど察するまでもなく、夫人の微笑みは感情のままに面白おかしく笑っていた。それを隠そうとしていない。
「貴女の生家を改めて確認したのだけれど、貴女の母親の祖母の姉の子が、アルテア王国の伯爵家に嫁いでいるようね」
「は……い? すみません、初めて聞いた話でしたので」
アルテア王国は西の隣国だ。長いこと友好関係を国同士で結んでいて、王族間の婚姻は何度もある。数年前には、第一皇女がアルテア王国に嫁いでいった。
その国の伯爵家に嫁いでいる、母の祖母の姉の子。
言われたままに繰り返して、脳内で家系図を描いてみた。顔も名も知らない縁遠い外戚である。他人と呼んでもいいはずだ。
嫁いでいる、というのは今も健在と捉えても良いのだろうか。
ざっくり計算するとそれなりに歳を召していそうだった。
「ローシェ、貴女はその家の養子になりなさい。手紙は私から送ります。書類上のことも私に任せてちょうだい」
口元の弧を深めた夫人が目の前にいる。
ローシェは何を言われているのだろうと混乱した。
「あの、夫人。話が見えてこないのですが」
「まあ……敏い子と思っていたのに、分からないの?」
「申し訳ございません」
謝罪を口にして頭を下げようとすると、手のひらで制される。
「謝らなくていいのよ。つまりね、貴女はアルテア王国の伯爵令嬢になるの。その後に息子と結婚して、うちに来なさい」
「それは――」
彼の婚約に関しての呼び出しで、唐突に切り替わったローシェ自身の話。
それらが繋がっていたと知ったローシェは唖然とした。
「ああ、書類上の話なのだから、貴女がアルテア王国に行く必要はないわ。結婚は少し時間がかかるけれど、今すぐにでもうちにいらっしゃい。それとも、貴女達のための家を買った方が良いかしら?」
夫人は気にせずに続ける。
間を置かずに次から次へと話を広げていく姿は、ローシェが接してきた普段の様子だった。
「駄目ね、そのあたりは息子に任せましょう。心配はいらないわ」
「あの、夫人」
「いいのよ。礼は結構。結果で返してくれれば私は良いの」
爵位を継ぐ息子の相手が私でいいのか、とか。
どうしてそこまで親切にしてくれるのか、とか。
教師の顔で息子を誑かしたと思わなかったのか、とか。
私を彼の相手として認めてくれるのか――とか。
疑心暗鬼になって、似たようなことを何度も聞きたくなる。
そんなローシェの不安を、聞き入れもせずに振り払う。
「今回貴女を呼んだのは養子の件を伝えるためだから、私の用はもうないのだけれど、貴女にはあるでしょう。――あの子、貴女が来たことに気づいていたのに降りてこなかったのよ。代わりに貴女が行ってあげてちょうだい」
困った息子をよろしくね、と言って夫人は笑っていた。




