【23】
馴染み深い書斎の扉をノックしたローシェは、扉越しに彼の声を聞いた。
遮るものがあっても、良くとおる真っすぐな声。懐かしくて胸が詰まった。
扉を開けて、一歩踏み入る。
彼は正面にある書斎机に両手を置いて腰掛けていた。訪れる人をひたすらに待ち構えていたと分かる姿勢で、彼はいた。
彼のための部屋だった。彼の書斎だから当然だけれど、今の彼の感情を事細かに表した空間だとローシェには思えた。
伯爵邸を訪ねた時は、冬を目前にした空気の中でも温かな陽光が降り注いでいた。夫人と話していた応接室にも大きな窓から光が射しこんで明るく照らしていた。
それなのに、彼の書斎は陰っている。どこからか流れてきた雲が光を覆って、薄暗くしていた。彼の感情に合わせるように。
落胆の色がローシェの視界を塗り潰す。
「貴女は随分と冷たいひとですね」
冷えて、寂しい。言葉を告げようと唇を震わせては噛みしめた。
「貴女の指南通り、紹介されたご令嬢方と交流を図りましたよ。オペラ鑑賞に美術館、湖のある庭園に遠乗り。その後のディナーもエスコートしました」
伏せられた彼の眼差しによって、室内が一層暗く感じる。
「とても有意義な時間でしたよ。偏りはありますが、皆さん深い教養をお持ちだ。妻にしたら得意な分野で役に立ってもらえるのだろうと考えました」
彼の興味と関心を惹ける女性をローシェは考えていた。その結果を彼の口から耳にして、教師としては喜ぶべきだろうに、全くもって喜べない。
彼の意志を無視して自らが選んだことなのに悲劇のヒロインを演じるなんてどうかしていると、ローシェは口角を引き上げる。
「貴女が選んだのでしょう? 私の好みを、私以上に把握なさっていますね。行動力がある反面、恋や愛においては控えめな、芯のある女性ばかりを薦めてくれた」
感情の行き場が迷子だった。
「ご令嬢方のうちの一人と、結婚する将来を私なりに考えました。考えられる相手でしたよ、ローシェ」
夫人は彼の結婚相手として迎え入れる話をローシェにくれた。
けれども、彼にそんな甘さは欠片もない。
薄暗い日夜に吹きすさぶ雪で凍える冬の中に彼はいる。触れていないのに冷え切った彼の体温が伝わって、身震いした。
「私は同時に、どの段階で貴女に連絡がいくのだろうか、とも考えながら過ごしていました」
寄り掛かっていた書斎机から手を離して姿勢を正した彼に合わせて、ローシェの顔もほんの少し上を向く。
「貴女が嫉妬をして、姿を現してくれることを期待していました。問題が生じたたら、責任をもって様子を見に来てくれるだろうとも思いましたが、貴女の評価を下げたくはありませんから、踏み留まりました」
そうして一歩ずつ、彼は足を踏み出す。
「元々、相手は適当に選ぶつもりでしたから、貴女が選んだご令嬢でも良かったんです」
ローシェは動けなかった。
ただ、距離が近くなるたびに上がる彼の目の高さに引かれるように、顔だけは上を向いた。
「ですが」
言葉を区切って、彼は踏み出していた足を止める。
微笑んでいることなんて出来なかった。
「私は、私の風景に入り込んできた貴女が忘れられません」
感情をぎりぎりまで抑えた、平坦な声。
それなのにすっきりとローシェの思考に入ってくる、綺麗な低音。
「貴女の言葉を何度も考えてしまいます。夜会の煌びやかな会場に、花が咲き誇る庭園。空から差し込む眩い陽光の下。闇夜の路地に、降り注ぐ雨の中。薄暗い廃墟にも足を運んでみました。貴女がいたら、私の目に何が映るだろうと考えました。貴女の瞳に、私がどう映るのだろうとも考えました」
彼に関心を向けられていなかった時の話まで覚えていてくれた。思い返して、考えてくれていた。
「私はそれが知りたい。私が目にする景色全てに貴女を望みます」
胸がつっかえて、苦しい。
気を抜けば溢れ出しそうになる涙を堪えて、ひくつく喉を、息をのみ込むことで抑える。
言葉を返したいのに、いつまで経ってもでてこない。振り幅の大きすぎる感情に心が追い付いてくれないのだ。
「母から聞きましたね? 貴女が身分を気にして私を拒絶するので、私が用意しました。相手方とは話が済んでいますので、残るは儀礼上のやり取りだけです」
それでも、彼の声で紡がれる内容は一度で理解ができる。
ローシェは言葉がでない代わりに大きく頷いた。
力なく落ちていたローシェの左手を彼の右手が持ち上げる。
互いに感覚がないほど冷えているのに、触れた手のひらから、じわりじわりと体中に熱い温度を広げていく。
「ローシェ。ローシェ・アリオスト」
どこまでも甘く溶けて、耳の奥深くまで覆う砂糖の膜をつくる彼の声。
名前を呼ばれただけで、全身が逆上せたように熱くなる。
「――私は貴女を先生とは呼びません」
持ち上げられた手の指に、彼の唇が落とされた。
左手の薬指。
まだ何ものにも縛られていない指の付け根に、彼は熱を落とし込む。
柔らかくしっとりとした感触が離れても、彼の唇が触れた部分は熱いままだ。
「これからは、妻と呼ばせてください。良いですね?」
目を細めて、目尻も下がる。
胸焼けしそうなほどに甘い彼の微笑みに、ローシェは瞬きをして、息を飲み干した。
「――まずは恋人から、と仰るのが一般的ではないでしょうか」
目頭を熱くしていた涙が急速に引いていた。
彼に返す言葉が出てこなくて辛かったのに、教師らしく振舞う言葉だけはすんなりと飛び出る自分の可愛げのなさに呆れてしまう。
「恋愛指南の続きですか」
彼はそれすらも嬉しいとばかりに笑った。
「すみません。つい……」
「貴女は常々『相手次第』と仰いましたよね。私も貴女も互いに好意を寄せています。これまでの関係は婚約期間と捉えても良いでしょう。充分ではないですか」
「それは」
「今は否定の言葉を聞きたくありません。頷いてください」
どうか頷いてと彼の瞳が告げていた。
彼の思いは全て、一心に向けられる眼差しに込められている。
それが伝わるほどに、情の籠った、切実な彼の眼差し。
耳に届いて離れてくれない彼の言葉に従うように、頭を縦に振る。
否定なんてしたくない。
一度逃げてしまったから、心のままに、正直に彼と向き合いたいとずっと後悔していた。寝ても覚めても過ぎ去った彼との日々を再生して、過去にしてしまった選択を後悔していた。二度も同じ思いはしたくない。
耐えきれなくて、目を閉じた。
彼の熱が移ったかのように途端に熱さを取り戻して、生成された雫が眦から零れ落ちていく。
「ローシェ」
「――はい、ユーグ様」
嗚咽混じりな返事をした。
触れていた手の指先が絡み合って、空いていた手で抱き寄せられる。
鍛え上げられた分厚い彼の体を全身で感じで鼓動が早まった。
「目を開けてください、ローシェ。貴女の見る景色に、私を入れてください」
ローシェは閉じていた瞼を開ける。反対に、彼は閉じた。
視界に入れてほしいと願ったのは彼なのに。
伏せられた目を縁取る長い睫毛を眺めて、それから再び瞼を下して縁に溜まっていた水滴を頬に落とす。
そうして、私たちはキスをした。
音のない静寂のなかで、彼の鼓動がローシェの耳に届いていた。
反対に自分の鼓動も彼の耳で響いているのだろう。
早鐘のように鳴り続ける心音が鳴り止むまで。その余韻まで記憶に刻むようなキスをした。
「これからは外にも出かけれますね。初めは美術館が良いでしょうか。それとも、個展にしましょうか。若手の画家が期間限定で展示しているギャラリーの招待状をいただきました。まだ行かれていないでしょう?」
ローシェは脳裏に思い浮かべる。
一瞬の美を落とし込めた美術品を前にする彼を想像した。目立たぬ恰好をしても人目を集める彼を、訪れた人々は我も忘れて眺めるだろう。
価値を評される美術品よりも美しく、圧倒される彼の存在。
その隣に並んだ己の姿を想像する。余所から見れば、不釣り合いで酷く滑稽に映るだろう景色。
それでも――
「どちらも素敵ですね。どちらにしても、貴方がいます。貴方がいる景色は全てが新鮮に映るのです、ユーグ様」
ローシェは笑う。
笑わなきゃ、と心を縛る必要はもうなかった。
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