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彼女がバイクに乗る理由  作者: 田代夏樹
14/15

再会

「さあ、浅見選手はライン踏みのセクションに入ったぁ! 田中さん、ここまでどうですか?」

「いいですね。彼らしい力強いライディングに鬼気迫る気合が見えます。・・まったく馬鹿なんだから。少しは手を抜けよ! 彼女に花を持たせてやれって!」

「おおっーと! 解説の合間に爆弾発言! やっぱり真鍋選手との交際は噂ではなく事実だったのかあ!」

 ギャラリーが爆笑して手を叩き、それでもあいつのNinjaはまったくブレることなく三本のラインを踏んで、回転をこなして連続八の字に入った。私は本部テントにゆっくりと歩き、その目はタイマーに釘付けになっている。

「速い速い! 連続八の字を軽くいなして、ボックスターンへ。浅見選手、大型SSを苦も無くスペースに入れます。そしてここからこの教習コース名物のS字からクランクへ」

「今日は皆苦労してんだよ、このセクション! S字からのクランクからのUターンでクランク、S字という・・・こら田中あ! このドS野郎め、いやらしいコースにしやがって!」

「おおっーと! ここで三神塾長、愛弟子の田中選手を罵倒したぁ! 塾長はこの後スタートなんですから、大人しく順番待ちをしていて下さい。解説に出しゃばらないように!」

解説の場外乱闘も入ってコースは中も外もヒートアップしている。

「そしていやらしいと言えば、この先のオフセットスラロームも設定が厳しい所です」

「今日のは奥に行くほどパイロンを詰めていますから、スピードの乗せにくいセクションです。先ほどの真鍋選手は上手かったですね」

「さあ、クランクを抜けてのUターン、華麗に決めて戻りのクランク」

本部席に近いセクション、サスペンションがよく沈んでいるのが判る。マジだ、こいつ、本気で攻めている。でも、それでなくっちゃね。

「S字を抜けて短い直線をフル加速! フルブレーキからのスラロームイン!」

タイムは五十秒を回った。このオフセットをどう攻略するかでタイムは大きく違う。オフセットに位置したパイロンは、スラロームというより連続のS字だ。あいつがこれでもか!  というくらい深いバンクでターンを決める。

「そして最後のセクション、行って帰って来いに突入! 手前のパイロンを回転し、二十メートル離れた次のパイロンまでフル加速! うわ! 速い速い! これぞリッターバイクの真骨頂! この速度からターンスピードまで減速できるのかああ?」

「うわ! 浅見選手のガチ加速! これはヤバイですよ」

「フルブレーキからのターンは、ちょっと膨れたか?」

「いえ強引、強引に捻じ曲げましたね。腕力と脚力で曲げました。彼らしい力業です。」

八、九、十・・・。無情にも時計は進む。

「回転して、戻りの加速。スロットルがねじ切れるほどのワイドオープン!」

吹け上がるエキゾーストノート、タコメータの針が一気にレッドゾーンに飛び込むのが見えるようだ。二十秒を過ぎた。

「最後の回転に入ります、浅見選手。これをクリアすればゴールはもう目の前!」

お願い! ノーミスで帰って来て! 速く、もっと速く!

「最後の加速、Ninjaのフロントが浮いたあ」

「ヤバッ!」

田中さんの叫び声が響く。フロントが落ちるとすぐにフルブレーキ、タイヤが悲鳴を上げる。サスペンションがフルボトムまで沈み、ゴールラインを超える直前、リアが浮いた。二十六秒。

「ジャックナイフでリアが浮いたまま、ゴールエリアに飛び込んだぁ!」

二十七秒。ドンという音と同時に時計が止まっった。

「浅見選手、ゴーール! タイムは?」

その時、全ての音が消えた。


 和やかな表彰式を、私は晴れ晴れしい気持ちで見ていた。お立ち台の一番高い場所にはガミさんが、その横には渡辺(父)さんと山岸さんがいた。田中さんのマイクパフォーマンスさながらのインタビューとマリナちゃんの掛け合いが絶妙で、終始笑い声が響いた。

「残念だったよねー。もう少しであそこに上がれたのにさあ」

坂本君が私の横で囁いた。

「いいのよ、私は浅見さんに勝てただけで十分」

「あーあ、しくったなあ。最後のクラッチミートがきつくなった分、フロントが浮いちまったからなあ」

あいつの悔しそうな顔は、でも笑い顔にも見える。

「あそこは半クラ使うとこですか?」

「以前はね、ノークラッチが主流だったんだけど、モタードが入って来てから半クラ派も増えたんだ。回転はほぼアイドルで回るから、回転の終了と同時にパワーバンドまで一気にエンジンを回してクラッチで調整するのさ。失敗したけどね」

「敗因はそこですか? 私、浅見さんがゴールしたのになんで時計が止まらなかったのか、解らなかったのですけどお」

優美ちゃんがあいつの向こう側から。

「ゴールエリア内で車両が完全停止しないとフィニッシュとはみなされないんだ。バイクが止まってもリアタイヤが地面に接地していなかったからカウントが続いていたんだよ。前に進んでいなくてもバイクは上から下へ動いていたからね」

その説明に優美ちゃんは大きく頷いた。

「フロントタイヤが浮いた状態では前ブレーキが掛けられないからなあ、つい、ハードブレーキになった。その結果がアレさ。二十七秒七〇。まさかこいつに負けるとは・・・」

「こいつって・・・。もう! お前とかこいつとか、言わないで下さい。約束したでしょう? 大体、そんな馴れ馴れしく乱暴に私のことを呼ぶから皆が誤解するんですよ。ねえ、解ってます?」

「そんな約束、したっけ?」

「うわっ! 男らしくない! 負けた言い訳をしたり、約束を反故にしたり」

「な、なんだよ。坂本と優美ちゃんにレースの解説しただけだろ? 言い訳なんてしてないし。ああ、もう面倒くせえ」

「本当に付き合っていないんですか、お二人は?」

「付き合っていません!」

「じゃあ僕、立候補します。洋子さん、好きです。僕の彼女になって下さい」

 こりゃあまた随分ストレートな告白だ。しかもムードとか雰囲気作りとか、完全無視だし。・・・でも、告られたの、久し振りだ。彼の真剣な眼差しに胸がキュンっと音を立てた。

 坂本君の向こう、視界の中にあいつの顔がある。何も言わずに私の顔を見つめるあいつの目が、困ったように見えたのはきっと気のせい、だよね。

「また五年後にやりましょう!」

ガミさんの大きな挨拶で表彰式は終わり、会場は拍手に包まれた。


 四月になって、私はまたFZRに乗り始めた。不思議なものだ、KR-1を降りてFZRの重さがやたらと気に掛かるようになった。レースをしなくなった今、休みの日にぶらっと走るだけなのに、いやそのせいなのだろうか、400ccの重さが気になる。公道にはクランクもS字もスラロームもないのに。

 あいつと職場が変わって、私はソロで走るようになった。未然対策課も二十四時間体制でシフト勤務だから週末が必ず休みとは限らない。誰かと一緒に走るためには事前に計画を立てて休みを申請して置く必要がある。それでも他の職員との調整があるから希望通りに休めるとは限らない。そして、今の私はあいつと一緒に走る気になれなかった。

 三月の第四日曜日は、ガミさんの送別会だった。散々酔っぱらって昔話になって、そこで私は初めてこの三神塾の生い立ちを知った。

 そもそもの発端はあいつがガミさんたちと一緒にツーリングに行くことになって、そこで女性ライダーのグループと遭遇したことだという。自動車教習所を卒業したばかりの、仲良しグループが初めてのツーリングでハチャメチャだったらしい。

「まあ、本人たちは楽しくやっていただろうし、別に周りに迷惑掛けなきゃ良いと思ってたんだけどさ・・・」

 ガミさんたちがワインディングロードをシャカリキに走り回って休憩すると、何故かそこにそのグループが居て、午前中だけで三回あったという。

「あれ、またあの連中だ。さっきの場所からここまで、国道を真っ直ぐ走って来たら三十キロくらいしかねーぞ。走るよりお喋りを楽しんでいるんじゃねーか?」

「いいじゃないか、それもまたバイクの楽しさだよ。人それぞれ、御意見無用が仁義だぜ」

「あっちもこっちを見てる・・・ジロジロ見るなって、ストーカーしてると思われるぞ」

「無視無視! あっちはあっち、こっちはこっち。住む世界が違うんだから」

 ところが、その休憩していた展望台でちょっとしたトラブルが起きた。彼女たちの一台が立ちゴケして、将棋倒しになったのだ。それを助けたのがガミさんたちで、助けた縁がなんとやら。彼らは途中まで一緒に走ることになった。まあ早い話がナンパしたわけだ。

「いつの間にか浅見はその中の一人と付き合うようになってな、儂の目を盗んで二人でツーリングに行くようになったんだ。本当にけしからん奴だ」

遠くを見るガミさんは顔が茹でタコのように赤い。二つ向こうのテーブルであいつはマリナちゃんと鼻の下を伸ばして話している。

「ある日な、浅見が儂に頼みごとがあるって来てな。ライディングスクールを立ち上げたい、って真剣な顔で言ったんだよ。その頃儂はもうレースは引退していたし、あんまり乗り気じゃなかった。でもなあ・・・」

ガミさんはコップの日本酒をグイっと煽ると話を続けた。

「忘れもしない四月の四日、儂らは春のツーリングに出掛け、そこで事故が起きた・・・」

四月の、四日? それって・・・。

「儂が先導して後ろは六台、最後尾は浅見でその前が奴の彼女。あいつはその一部始終を見ていた。狭い国道のワインディングロード、片側が山で反対は崖、峠のよくある道さ。儂は押えて走っていたが、それでも集団はばらけ、最後尾の二台はだいぶ遅れ気味だったと思う。前を詰めようとする彼女に、無理をするな、インカム越しにあいつがそう言った矢先だった。彼女のバイクの前に鹿が飛び出して来たそうだ。彼女は上手く減速して鹿を躱し、加速しようとアクセルを開けた次の瞬間、二頭目が飛び出して来てぶつかったんだ」

息が止まりそうだった。胸を強く、激しく、心臓が叩く。アルコールの所為じゃない。

「彼女は鹿もろとも崖から落ちたそうだよ。浅見からその話を聞かされたとき、儂は責任を感じた。あいつがライスクを立ち上げたいといったのは彼女の練習のため。もし儂らがスクールを始めてバイクの操作を教えていたら、いや、バイクの練習をする場所を提供できていたら、もしかしたらあんな事故は起きなかったかも知れんのだからな」

 私はガミさんのコップに日本酒を注いだ。お銚子の縁がコップに触れてカチカチと音を立てた。その事故で亡くなった人が、桜雅という人なんだ。まさかバイクの事故で亡くなっていたなんて。

「浅見がインストラクターとして熱心なのも、認定の公式レースに出ないもの、それが理由さ。クラス認定を受けて上位選手になることが目的じゃないんだ」

私は、図らずもあいつの過去を知ってしまった。


 ふと気づくと、あいつのことを考えている自分がいる。あれからたったひと月しか経っていないのに、随分と遠い気がする。・・・あいつは桜さんの面影を私に探したのだろうか。強引に誘うツーリングも、お節介なレクチャーも、馴れ馴れしい態度も、そう思うと納得できる気がして、同時に腹立たしかった。ばか! 浅見ばか彦! 私は桜さんじゃないのよ。

 FZRを売ろうかと思ってバイク屋さんに行った。そもそもの目的は果たした。FZRはいい子だけれど、KR-1を知ってしまった今、物足りなさを感じてしまっている。こんな気持ちのままでこの子に乗り続けるのは、何か裏切っているようで申し訳ない気がした。

 そして。私がFZRを手放してバイクを降りたら、今までバイクを通して出来た友人たちは離れてしまうのだろうか。バイクを通して知った世界、あの感覚は記憶の一片になってしまうのだろうか。

 ちょっと重い気持ちでバイク屋さんのドアを開けると、私の目は、その奥にある一台のバイクに吸い寄せられて行った。

「なんで? なんでここにあるの?」

そのバイクは、ガミさんがモンゴルに持って行ったKR-1・・・ではなかった。赤白ツートンはよく見ると配色が違う。突き出たエキパイの位置が違う。何よりタンクエンブレム、メーカー名が違う。これは一体・・・?

「ヤマハTZR250の最終形3MA、通称サンマ。流石洋子さん、お目が高い」

バイク店の店主がカウンターから出て来た。

「ワンオーナーの極上品ですよ。エンジンは換装してから一万キロも走っていません。今なら普通に三桁バイクですけど、ちょっと訳アリでね」

「訳アリって?」

「タンクエンブレムを前のオーナーが溶接しちゃっているんでね。・・・ほらこれ。ご丁寧に透かし彫りで作ったヤツを直付けしてるから、剥がせないし削れないし・・・。このまま買って頂けるならお安くしますよ」

私は促されてタンクを見て、驚いた。雅美と漢字で彫ってある。

「バイクにね、名前を付けるの、結構流行ってたんですよ。カスタムもそうだけど、他とは違うっていう差別化なんでしょうかね。奥さんの名前って聞きましたけど・・・」

「買います! 私に売って下さい。この子の名前は、まさみじゃありません。みやびです。私の親友の、雅美です。これは・・・この子と巡り会えたのは運命なんです」

一気にテンションが上がって、何を言っているのか自分でも判らなくなった。


 FZRを下取りに出しただけでは到底足りず、母親を拝み倒して借金をした。五月、ようやく全ての手続きが済んだとき、坂本君からツーリングの誘いがあった。彼にはそろそろ交際の返事をしなくてはならない。お付き合いできません、そういう理由もないのだけれど、振ったらもうツーリングの誘いはなくなるのだろうか。かと言ってツーリングのために彼氏を選ぶもの違う気がするし、坂本君に交際を申し込まれたあの日の、あいつの目が忘れられない。そう、あの目が私の心を縛っているのだ。・・・まだ答えが出せない。

 待ち合わせのコンビニに行くと、二台のYZFが停まっていた。ペアルックの坂本兄妹。

「お待たせ!」

「わあ、洋子さん! ニューマシンじゃないですか!」

「うん、やっと整備が終わったの。今度はモトジムカスタムじゃなくて普通のロード用」

そこに聞き慣れた排気音が背中にした。振り向かなくても判る。緑色のヤツだ。

「なんだ洋子! マシン変えたのか! まった俺になんの相談もなく・・・」

ヘルメットのシールドを上げると一気にまくし立て、サイドスタンドにNinjaを預けて彼はゆっくりとバイクを降りた。

 もう! 会うなりこれだ。突っ込みどころが満載で困ってしまう。

「なんであなたが来るの? どうして洋子って呼び捨てなの? 何故私がバイクを買うのにあなたに相談しなくちゃならないのよ! もうあなたとは部署も職場も違うし、先輩局員でも指導員でもないし、ここは三神塾じゃないんですよ⁈」

「解ってるって、そんなの。職場の同僚じゃないから、どう呼ぼうか、結構考えたんだぞ。まあ、ヨーコって言い易いからな。そう呼ぶことに決めた」

「決めたって・・・、さんとか君とか、敬称を付けるって発想はないんですか?」

「ない!」

言い切りやがった・・・まったく。三十路間近の、ガキめ。

「で? なんで私が私のバイクを買う時にあなたに相談しなきゃならないんですか?」

「だって。ガミさんのいない今、俺がおま・・洋子の相談役みたいなものじゃないか」

「はあああ? 誰が相談役ですってえ⁈」

「五年後の三神塾の復活祭まで洋子が下手になっていないように、俺が見といてやるよ。そんでそのレースで俺がぶち抜く。下手ッピィを抜いても嬉しくないからな」

ああ、もう頭が痛くなってきた。それ、前に私が言った台詞じゃない。いいわ。

「いいわ、そこまで言うなら返り討ちにしてあげる」

「はいはい! そこまで、そこまでー! なーに熱くなってんすか、五年も先の話で。さ、五年後よりもお昼のこと。今日のB級グルメはカメノテ丼でーす。行きますよー」

 TZRはKR-1によく似ていた。まるで旧友に会ったかのような懐かしさでこの子は私に馴染んだ。エンジンフィールもコントローラブルな車体も、今まで乗り継いできたバイクは、この子と会うためだったような気がする。雅美、また一緒だよ。これから一緒に走ろう。雅美に伝えたい事、聞いて欲しい事、いっぱいあるんだよ。カーブを駆け抜ける度に私は囁いた。


 私は雅美と一緒の時間を過ごすために休みを申請してみた。坂本君の気持ちも、あいつのことも、私は一人では答えが出せずにいた。でも誰に相談したとしても、結局は自分一人で答えを出すしかないのだ。そのためにはじっくりと自分自身と向き合う必要がある。雅美と一緒に過ごす時間、一人でじっくりと考える時間、矛盾しているようだけど、彼女と私は一心同体、今の私にとって同じことなのだ。

 ダメ元のつもりで申請したのだが、梅雨が明けて台風シーズンが来る前なら良いよ、と許可が下りた。夏、か。そうだ、北海道に行こう。何の脈略もなく頭の中に北海道という地名が浮かんだ。いや、バイクに乗り始めてから集めたバイク雑誌が記憶に定着していたに違いない。夏の北海道はツーリングライダーの聖地。ライダーなら誰もが憧れる、就実の丘、天空に続く道、地平線。北の大地の風も緑だろうか、キタキツネと会えるのだろうか、そんなとめどない想像を膨らませて、私はネットで情報を収集し、テントや寝袋を買い漁った。

 大量の荷物でTZRのリアシートはパンパン、そもそもツーリング向けのバイクではないのだが、そんなことは一向に構わなかった。フェリー乗り場で乗船を待つバイクの群れは皆ほぼ一様に荷物を満載している。浮かれ気分とちょっとした悩みを抱えて、私は頭の中で今回の旅の予定を反復していた。北海道に滞在できる時間は正味五日だけだ。雑誌に掲載されていたお勧めプランと、ネット情報での、絶対外せない北海道グルメを組み合わせてオリジナルの計画は、それでもきっと同じようなことを考える人は沢山いるんだろうと容易に想像できた。大切な時間を、出来れば誰にも邪魔されたくはない。そのためのソロツーリングなのだから。

 いざ北海道に上陸すると、そこは都会の港町でいささか拍子抜けしてしまった。山も草原も見当たらない。どうにも大自然の印象が強くて勘違いしてしまっていたけれど、そりゃそうだ、離島や小島ではないのだから。私は気を取り直して荷物の固定をチェックした。ガソリンはこまめに給油すること。携行缶は取り出しやすい位置にした方がいいよ、燃焼オイルもね。出発前のメンテナンスでバイク屋の店長さんからもらったアドバイスは忘れないようにしなければ。

 さあ、雅美、行こう。私はタンクを撫でるとキックペダルを踏み抜いた。夏の陽射しの中、逃げ水が揺れる街へ、私は走り始めた。

私は富良野を起点に北海道の北部を一泊二日で周遊する計画を立てていた。富良野は二泊、最後の一日は小樽でホテルを予約してある。


 夏の北海道はライダーとバイクで溢れていた。都内は勿論、関西や九州の、私の知らない地名のナンバープレートがいっぱいあった。単独だったりもグループだったり、本当に沢山のライダーが自分たちの目指す何かを求めて、北の大地を縦横無尽に走り回っていた。

 私はと言えば目の前の光景にひたすら感動していた。丘陵の風景に、ただただ真っ直ぐな何処までも続いているかのような道に。エメラルドグリーンの風はいつだって肌を優しく愛撫し、黄白色に輝く太陽で私の身体は火照り、淡いスカイブルーと夏の入道雲は、例えようもない大きな包容力で私を抱きしめた。その風景は官能的にさえ思え、私の全神経をひたすら解放させた。オートバイに乗って初めて、アクセルを開けることが勿体ないと感じた。と同時に、TZRの全ての能力を解き放ちたいという相反する欲求が激しく私の中で葛藤した。

 ひとたび道道の峠道に入ると、覆い被さるようにしてできた木々のトンネルが視界を狭め、木漏れ日から漏れ射す陽は黄金に輝く光のカーテンに見えた。一つとして同じ色のない複雑な緑の木々の葉の、そこから呼吸されているであろう新鮮な空気を深く吸い込むとそれだけで全身の血がきれいに洗われるような気がした。

 けれど悩みだけはいつまでも心の片隅に居座り、時折頭をもたげては私の胸を刺した。「私が男性の事で悩むなんてね」

自嘲交じりに呟いて。

「ねえ雅美。どうしたらいいのかな、教えてよ、ねえ雅美」

やがてワインディングのライディングを楽しんでいると、不意にエンジンの回転数が上がった。アクセルはパーシャルなのに、何故?

「雅美、脅かさないでよ。悪戯のつもりなの?」

すると急に今度は吹けなくなった。アクセルを開けても回転数がついて来ない。

「やだ雅美。もう、いい加減にして」

何も言わない雅美。そしてエンジンは止まってしまった。

 私は一瞬何が起きたのか理解できなかった。ニュートラルギアに戻し、キックペダルを出して踏み込むと、エンジンはほんの数回転して止まった。はっとした。ガス欠だ。さっきのは雅美がお腹空いたぁ、と子供のようにぐずっていたのか。考え事をしていたせいでうっかりガソリンスタンドを素通りしてしまった。失敗したなあ。私はガソリンコックをリザーブに切り替えるつもりで手を伸ばした。あれ? 回らない。逆だっけ? あっ! やってしまった。昨日給油したとき、コックを戻し忘れたのだ。リザーブのままガソリンを使い切ってしまった・・・。やれやれだ。私はサイドスタンドに雅美を預け、荷物から携行缶を取り出そうとして荷物を確認した。

 次の瞬間、サーッと血の気が引くのが判った。ない。1Lの携行缶が、燃焼オイルの缶がない。どこかで落としたのだ。直射日光は良くないだろうと、畳んだウィンドブレーカーの隙間に挟んで置いたのが振動で抜けてしまったのだ。いつ、どこで落としたのか見当もつかない。

 早鐘のように高鳴る心臓を必死に押さえ込んでいると、脚が震えて来た。こんな場所でどうしよう、どうしたらいいのだろう。パニックを起こしそうになる自分に、取り敢えず落ち着こう、と声を出して言ってみた。ヘルメットの中で反響していつもの自分の声に聞こえなかったけれど、返ってそれが他人に言われているようで冷静になれた。

 スマホのマップで現在位置を確認し、一番近いガソリンスタンドを探すと二軒ヒットした。ただ、このまま進んでも来た道を引き返してもどちらも5,6kmはある。歩けない距離ではないが、問題は営業時間内に辿り着けるかどうか、だ。そんな長い距離を、私はバイクの押し歩きをしたことがない。かと言ってこのままここにいる訳にも行かない。保険のレスキューを使えばいいのだろうか? でももしレッカーの到着が遅くなるようなら、保険会社とやり取りをする時間さえも勿体ない気がした。でも、どっちに? ここまでは緩い上り坂だった。マップでは勾配が解らない。この先上り坂が続くようなら到着にはさらに時間が掛かるだろう。営業時間が終了してしまっては元も子もないのだ・・・。

 私は決心して来た道を戻り始めた。迂闊な自分を責めたが責めても仕方が無い。今はガソリンスタンドまで戻るのが先決だ。軽い下り坂だと思ったのだけれど実際はアップダウンがあって、軽いはずのバイクは満載のキャンプ道具を捨てたくなるほど重く感じた。あっという間に息が上がり、腕や足が重く、全然前に進まない。

 五分も押すと汗だくになって、途方に暮れた。このままでは時間内に辿り着けない、そう思ったが疲れて思考がまとまらない。幸いキャンプ道具は一式あるんだ、ここで野宿するしかない。食料や水がない、買い出しに行かなきゃ。歩いて買い物に行くのか。いっそバイクをここに置いてヒッチハイクをした方が・・・。滅茶苦茶で取り留めのない考えが脳内を駆け巡り、それでもバイクを押すのだけは止めなかった。

 あれ? 排気音、エキゾーストノートが聞こえる・・・。錯覚かと思ったけれど、それは確実に近づいて来た。もしかしたら助けてもらえるかも知れない、そう思った瞬間、甘い考えをかき消すように思考のピントがはっきりとした。もしヤバイ系のドライバーだったら・・・。こんな山の中、逃げることも出来ない状況で私はどうしたらいいのだろう。途端に恐怖心が体を支配した。金品だけではない、私の貞操の危機ではないか。いえ、命の危険だって。私は足がすくんで動けなくなった。

 カーブの向こうからやって来たのはバイクだった。一台の、青いバイク。私の横をすれ違う寸前、私は目をつむってしまった。怖い。本当はその相手を見定める必要があるのだろうけど、私の本能はそれを拒否した。きつく閉じた瞼が視界を消し、でもそのおかげで音が良く聞こえた。バイクが私の横を過ぎると減速したのが解った。いよいよヤバイ、Uターンして近づいて来る。肩に力が入り、心臓はバクバクと音を立て、膝がガクガクと揺れて、バイクを支えているのかバイクに支えられているのか判らなくなった。

「どうかしましたか? 故障ですか?」

暗闇の向こうから聞こえて来たのは、天使の声だった。


「内地の人は北海道の広さを甘く見過ぎじゃんね」

「ごめんなさい」

「でもどうしようかねえ。ホースもポンプもないし、どうやってガソリンを移そうか・・・」

止まってくれた女性ライダーは、自分のバイクからガソリンを分けてくれると申し出てくれたのだが、肝心の手段がない。私自身もこんな時どうすれば良いのかさっぱり判らない。電話で、こんな時どうすれば良いのか誰かに聞こうかと思ったとき、あいつの顔が思い浮かんだ。なんであいつなのよ。聞くならバイク屋さんでしょ? 自分に腹を立てた。

「あ。あなたの荷物、キャンプ道具じゃないの? コッフェル、持ってないの?」

言われて、はっとした。そうだ私のこの重い荷物はキャンプ道具だ。何故気が付かなかったのだろう。

「あります、クッカー。シェラカップも。コーヒー用のペーパーフィルターだって」

「なんだ、じゃあそれを使いましょう。臭いが付くかも知れないけど、緊急事態だからね」

私が荷物をほどいて器具を出す間に彼女は車載工具からスパナを出して、準備してくれた。

「燃費、どれくらい?」

一番大きなクッカーを燃料コックの下も差し出すと、彼女はドレンボルトを緩めた。

「15~18km/Lくらい」

「じゃあ1Lあれば十分だね。こっちもそんなに大きなタンクじゃないから」

彼女がクッカーに預け、私はドリッパーにペーパーフィルターを取り付けた。TZRのタンクキャップに不思議なくらいそれはぴったりと嵌った。彼女がそこにゆっくりと燃料を注ぎ込む。辺りにはガソリンの臭気が漂い、静かな音を立ててタンクに落ちて行った。

「もう一杯ね」

「ありがとうございます。本当になんてお礼を言ったら良いか・・・。あ、そうだ、ガソリン代をお支払いしなければいけませんね」

彼女はガソリンをクッカーに注ぎながら。

「いいわ、これくらい。困った時はお互い様ってことで。・・・ところで、何でさっき目を瞑ってたの?」

私は素直に話した。彼女は一瞬戸惑い、次の瞬間大笑いした。

「じゃああたしは暴漢に間違われた訳ね」

「ごめんなさい。本当にすみません。こんなにも優しくて素敵な女性だとは思わなくて・・・」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、ってやつね。怖がっているから何でもお化けに見える」

最後の一滴がタンクに落ちた。彼女は私にクッカーを手渡し、言った。

「さ、これで良いわ。富良野に向かって行けばスタンドは十キロくらいだから」

私は慌てて確認した。スマホを差し出してこっちの方がもっと近いのでは、と聞いてみた。

「ああ、そこのスタンドは今日は休みだよ。爺さま、腰が痛いって寝てるわ」

なんてことだろう。もしこの女性ライダーとすれ違わなければ、本当に野宿する羽目になっていたみたいだ。彼女は工具をバイクに戻した。

「じゃあ気を付けてね、まさみちゃん」

「・・・私、洋子ですけど?」

「え? あ、ごめんね。タンクに雅美って彫ってあるから、てっきり」

「これ、ミヤビって読むんです。この子の名前なんです。おかしいですか?」

私は器具をビニール袋に包みながら言った。彼女は空を見上げて不思議そうな顔をした。

「ミヤビ、みやび、雅美・・・。あれええ? どっかで聞いたことあるなあ。まさみと書いてミヤビと読む・・・。えーと、ああ、そうだ。大学の時の、ええーと新入生だ。桜の木の下で声を掛けて、サクラ、桜、佐倉、そう、倉のさくら。佐倉雅美だ。ああ、どうしているかなぁ、あの娘。私の被写体では飛び切りだったんだけどなぁ」

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