あいつを抜くとき
シェイクダウンには丸々一日を費やした。この子の性格を分析すると、2stはやんちゃ坊主と言われるけれど、私にはむしろ素直な優等生に思える。この子の最大の武器は軽さだ。加速も減速も、今まで以上にアグレッシブに攻めることが出来る。そしてハンドリングも軽い。今まで苦しんでいた高速での切り返しが嘘のようだ。
「これが戦闘力の高いマシン、というものなの?」
私は驚きを隠せない。バンクは深く旋回能力も高い。これなら何処を走ってもFZRより速く走れそうだ。私はその感想を素直にガミさんに伝えた。
「よく理解してるね。儂が対NSRの最終兵器と言った意味はもう一つあるんだが、これは乗り比べをしないと解らんだろうな。KR-1のパワーバンドはNSRより広いし、キャブレターの変更とチューニングで四、五千回転くらいのトルクを上げられるんだ。そうなれば4stマルチと大して変わらん出力線図になる」
「下でのモタツキが改善されるってことですか?」
ガミさんはニンマリとした。
「速そうだろう?」
「なんでそんな優秀なバイクが売れなかったんですか?」
ネットで調べてKR-1は当時最強の2stとまで評価されたにも関わらず、その系譜は不遇とも言えるほど販売台数が低い。
「ま、一言でいうとカワサキは売り下手ってことかな」
あいつが会話に割り込んで来た。
「そうとばかりは言えんよ。ホンダさんだってMVXで大失敗したしな」
「KR250を出すときにNinja風のカウルにしないで、レーサーカウルにすればもっと売れたんですよ」
「各メーカーによって販売戦略も色々あったしなあ。スズキのガンマだって出した時は賛否両論、こんなのを公道に出して良いのか! って議論はあったんだよ」
昔話なんで私にはさっぱり解らない。しかしこいつ、なんでこんな古いバイクに詳しいんだろう? 幼年期にご両親が、子守唄代わりにバイクカタログのスペック表でも読んでいたのだろうか。絵本の代わりがバイク雑誌だったとか。
「ギアはどう思う?」
ガミさんに振られた。
「・・・四千回転からのトルクが今より太くなるのなら、スプロケットはノーマルで良いと思います。アイドルは二千五百か三千でアジャストすれば十分かと」
「うん、いい答えだ」
「あと、サスペンションなんですけど。タイヤはプロダクションで、サスを社外品に交換しないのならフロントはもう少し硬めの設定にしたいです。リアは減衰を効かせてやれば・・・。すいません、生意気言って」
「そんなことはないさ。社外品のサスはアジャスト機能が追加されているし剛性も上がっているから重量が増加しかねない。いい判断、設定だと思うよ」
あいつはじろじろ見ている。
「ふーん。お前がねえ・・・」
「お前って言わないで下さい」
「KR-1は完成度の高い市販バイクなんだ。アイドルを低く出来れば熱ダレも少しは押えられる。NSRのように追加のラジエタもファンも要らない。追加部品の重量を押さえて軽いままでそのパフォーマンスを発揮したい。真鍋君のカスタムは儂と同じ方向性だよ」
三神塾定例草レース、冬の陣。その一週間前に私はプロダクションタイヤに履き替えた。新品タイヤの皮むきを行い、浄水場での練習でタイヤのエア圧をどこまで落とすかを確認した。準備は万全だ。当日の天気は曇り、降水確率は30%。
レースには坂本兄妹と佐倉のおじさんおばさんが見に来てくれた。どうにもテンションが上がって仕方が無い。朝から自分が興奮して舞い上がっているのが判ったが、自分ではどうしようもなかった。
第一ヒートのトップは生馬さんが一分二十九秒一二、二位はガミさんが一分二十九秒六七。三位は渡辺(父)さん、一分三十秒○六。なんと一秒以内に三人がいるという大混戦。あいつは一分三十一秒四四。私は一分三十二秒六八。差は一秒ちょっと。私には聞こえなかったけど、大学生になったJDDJのマリナちゃんは興奮して泣き出したらしい。こら、プロ失格だぞ。でもタイムを見て、私も涙が溢れた。
ようやく、ようやくその背中が見えて来た。長かった。あと一秒。私は興奮し過ぎてしまい、その一秒をどうやって詰めるのか、全然イメージ出来なかった。いつもならマリナちゃん家族と一緒に食べるお昼も、佐倉さんたちと一緒だったためにコースウォークも忘れていた。
「洋子ちゃん? 皆さん、あれは何をしていらっしゃるの?」
おばさんの声で気が付いた。慌ててコースウォークを始めたが、やっぱりイメージが出来ない。頭の中で、どうすれば、の五文字だけがぐるぐる回っていた。
ちょっと先をガミさんとあいつが談笑しながら歩いていた。その後ろに坂本兄妹。私は一旦気持ちをリセットしようと坂本君に話し掛けた。
「ねえ、走ってみたくなった?」
「いやあ、無理っす! 自分、楽しく走れればそれで良いんで。B級グルメライダーですから」
B級グルメライダー? そんなの、初めて聞いたわ。
「優美ちゃんは? どう?」
「練習するのは楽しいんですけど、ガチでやるのはちょっと引きますね」
「え? 練習が楽しい?」
「楽しいですよ? バイクを自分の思うように操れるようになっていくのは。自分の意思のままに曲がったり加速したり。洋子さんは楽しくないんですか? 皆楽しそうに走っているのに・・・」
でも、今日のこれはレースだから。草レースでも皆真剣だから。本気だから。
「そりゃそうだよ、お嬢さん。バイクはね、楽しい乗り物なんだ。だから儂らは目一杯楽しんでいる。なあ浅見」
あいつは私をちらっと見て。
「勿論。ただ、ちょっとタイムを出して浮かれているヤツにはお灸が必要かな。髙―く伸びた天狗の鼻を、午後はへし折る」
カチン! 私の頭の中で大きな音が鳴った。私は! あんたのその傲慢で偉そうな態度、乱暴で命令的な言葉使い、人を馬鹿にした口調に頭に来ているんだ。今日こそぎゃふんと言わせてやる。今日をリベンジの日にしてやる。
第二ヒートは雨が降りそうな気配が濃厚で、もしかすると後発不利の展開になるかも知れなかった。そんな中、私のタイムは一分三十一秒三九。
私のフィニッシュ直後に小雨がぱらつき始め、天候も私に味方してくれる気がした。やった! 百分の五秒あいつに勝った。そう思ったのだが・・・。
総合順位は、田中さんが一位、一分二十六秒二〇、二位はガミさんが一分二十六秒七五。三位はあいつが入った。一分二十八秒○六。
愕然とした。そんな・・・。追いついた、背中が見えた、そう思ったのに。
表彰式で浮かれる人々の中、私は一人落ち込んでいた。マリナちゃんの明るく爽やかな声が耳を通り抜けるものの、何を言っているのかまるで解らない。私の横には佐倉おじさんとおばさんが寄り添うように立って、私を支えてくれていた。
ふいに会場の空気が変わったのを感じ、私は顔を上げた。表彰台二位の檀上で、ガミさんがマイクを片手にスピーチをしている。来年、モンゴル、三月、断片的な単語が、耳の奥で意味というものを取り戻す。え⁈ 何⁈ どういうこと⁈
「で、皆さんには突然の発表となりましたが、春レース、例年なら四月に行うところを三月の第二週に繰り上げます。ご協力とご参加をお願い致します」
私は表彰式が解散になるのを待ってガミさんの元へ行った。
「どういうことですか? もっと詳しく教えて下さい」
ガミさんはちょっと困った顔をした。そして内緒だぞって、前置きした上で小さな声で話し始めた。
「モンゴルにな、県の友好姉妹都市がある。そこの奥地はまだ十分なインフラが整備されていない。官民一体プロジェクトの一つで上下水管理局の整備って言うのがあってな、ま、言ってみれば青年海外協力隊、みたいなもんだ」
「それで、いつまで? その間、ここは? バイクはどうするんですか?」
「期間は来年の四月から五年間。責任者の儂がいないのならここは貸せないと教習所は言ってきているんでな、これはもう少し交渉してみようと思う。バイクはな・・・」
どうするんだろう? まさか売却するとか言わないわよね。
「最初にこの話が出たときにな、バイクに乗れない所へは出向しないって、啖呵を切っちまって。そうしたら県の予算で、そんなものいくらでも運んでやると言われてね。断る口実がヤブヘビになっちまったよ。だから全部持って行くんだ」
忘年会が終わって自宅に戻ると、疲れがどっと出た。長く、目まぐるしく、大変な一日だった。勝ったと思ったあいつの背中は遠く、あと一秒まで詰めたと思ったのに終わってみれば三秒差。坂本兄妹はモトジムやる気なし。優美ちゃんにはバイクの練習は楽しくないんですか? と問われて・・・。ああ、ここでの練習会ももうなくなってしまう。リベンジのチャンスがあと一回だけだなんて・・・。三月の第二週なんてもういくらも練習できる時間がないはずだ。今年の一月二月はほとんど練習をしていなかったと思う、イメトレだけで・・・。
色々な思考が乱れて、気が付いたら朝になっていた。キッチンに母親の姿はない。昨夜は夜勤、だからレースも見に来なかった。お母さんが見に来てくれたらあいつに勝てたかな? トーストを焼く間にゆで卵を作って、紅茶を入れる。お母さんが見に来ても、来なくても、私の速さは変わらないはずだ。私とあいつの速さの違いは何だろう? 誰かに聞きたかった。誰かに教えて欲しかった。今日、出勤してあいつに尋ねたら、あいつは答えてくれるのだろうか。カップから立つ湯気。オレンジペコの香り。冷蔵庫からチーズとハムを出してテーブルに並べる。あ、牛乳も、マーガリンも。改めて冷蔵庫を開くと同時にオーブントースターがトーストの焼き上がりを教えてくれた。一人の朝食が始まる。
「え? 俺との違い? そんなの腕に決まってるだろう」
ああ、やっぱり聞かなきゃ良かった。そんな当たり前のこと、聞いてどうするという顔で、こいつは私の入れたコーヒーを一口すすった。ムカつく。質問を変えよう。
「浅見さん、昨日のレースではトップの田中さんとは一秒八六差、こんなタイムで走れるのに何故公式の、認定レースに出ないんですか?」
「別にいいだろ? 俺はあそこで遊んでテクを磨いて、それで十分なんだよ。そういう意味じゃ、坂本たちと似てるな」
「本当は一発B級昇格を狙っているとか?」
「お前なあ。あんまり世の中舐めない方が良いぞ。中央のレースなんて、二百台からのガチ勢が目の色変えてやってんだぞ? 自分がどんなに良いタイムを出しても、トップ選手のタイムで地獄に落とされる、そんな競技なんだぞ? レース毎にタイヤを準備して、ウォーマーで熱を入れて、オイルだって当日の気温で変えるくらい気を使うんだ。セッティング、チューニングに使う時間も金も、ガミさんとこの草レースとは桁違いに違うんだ。軽々しく言うな」
「お前って言わないで下さい」
「じゃあ、お前は何であの練習場に通ってる? ガミさんに誘われて、って言ってたよな。入口はそうでも、今のお前のモチベーションはなんだ?」
あんたをぶち抜くことだよ! 初心者の、ド素人の、下手くそに抜かれた気分は如何ですかぁ? そう言ってやりたいだけだよ。でも、言葉にできない。
「わ、私のことはいいんです。浅見さんのモチベを聞いているんです。じゃあ優美ちゃんやライディングスクールに来る初心者にはすごく丁寧に指導しているのは何故ですか? 自分の練習やテクニックには関係ないのに。むしろ練習時間削られるのに」
一瞬、ほんの少しの時間、あいつの沈黙。
「そりゃあ、アレだよ。ほら、俺は紳士、ジェントルマンだから。女性や初心者には優しく接するわけよ」
嘘つき! 私には乱暴に怒鳴るくせに。ああしろこうしろ、偉そうに命令するくせに。・・・でも、今の、間は何? こいつ何か隠してる、そう感じた。
「何か隠していません? あ、そう言えばガミさんも前に言ってた。何だっけ? あ、そうだ。練習会を始めたきっかけの話だ」
少し、顔色が変わった。
「・・・ガミさんは何だって?」
「何だっけ。教習所を卒業したてのライダーにはちゃんとした練習が必要だ、とか言ってて、それで最後は不自然に会話が途切れて・・・」
「まあ、そう言うことさ。俺もその考えに賛同したんだ」
言葉を遮るようにして、一方的に切られた。
「真鍋さあん! 内線、総務から」
電話の受け答えをしている内に、誤魔化されたままにされてしまった。
年が明けて一月、雅美の月命日。仕事が終わってから私は佐倉家にお邪魔した。あの日から佐倉家には正月がない。ただ日常があるだけだ。それでも毎日の生活の繰り返しの中であの悲しみが少しでも薄れていくのなら良かったと思える。
食事の時の話題は、昨年末のレースのビデオだった。おじさんはいろんな角度で様々なビデオ撮影をしていた。私がまったく気が付かなかった画もそこにはあった。
「洋子ちゃん、真剣そのものねえ」
「そりゃあそうだろう、真剣にやらなきゃ。競技なんだし、転倒して怪我でもしたら大変だよ」
「ねえおじさん。私と浅見さんとの違い、何だと思います?」
何かヒントが欲しかった。藁にでもすがる気持ちだ。
「いいレースだったと思うよ、抜いて、抜かれて。ああ、洋子ちゃん凄く良かった。格好良かったよ」
「お父さん、洋子ちゃんは負けて悔しかったのよ? 最後に逆転されて良かったなんて、そんな言い方・・・。ほら、ここ泣いてる」
うわ。泣いているとこまで撮られてる・・・。
「うーん。一つひとつの動作? は、遜色ないと思うよ。敢えて言うなら繋ぎかなあ」
ビデオを戻して。
「ほら、ここ。ぐるっと回って、一瞬だけど次の目標物を探しているように見える。上位の選手はそういうのがないと思うよ。淀まず流れる水の如し」
コースの暗記が出来てないってことか。暗記と言うより俯瞰的なコースの把握かな。
「あと、スタートの時はすごく興奮してたみたいだ。競馬で言う入れ込み過ぎってヤツ?」
バイクのフロントを押さえ込もうとして肩に力が入っている? 違う、やたらキョロキョロして落ち着きがない。
「母さんも探してあげなさい」
「私には判りませんよ、オートバイのことなんて」
そう言って、ビデオをパラパラと早送りをして。
「でも皆楽しそうね。ほら笑ってる」
生馬さんの転倒シーンだ。遠目のギャラリーが手を叩いて笑っている。第二ヒートの終盤、あと二つ回転をすればフィニッシュできる所で転んだのだ、内心悔しかったろう。カメラはその後も生馬さんを追い掛けていた。バイクを起こして、再スタート。二回、回転をして、ゴールエリアでジャックナイフ。ヘルメットのシールドを上げて、にこり。
「ほら、この人いい笑顔! 会心の笑みよね」
「うん、楽しそうだ。楽しんでいるんだね。洋子ちゃんも楽しかったろう?」
私もフィニッシュ直後ではいい笑顔だったはず、あいつがゴールするまでは。でも生馬さんは転倒して、もう順位は上げられないことが判っていたはずなのに、こんな笑顔を見せていたのか。あれ? 私はビデオのリモコンを借りて、巻き戻して見た。私がゴールした時、皆笑ってる、喜んでくれている。あいつも。
「皆、笑ってる。楽しそうに笑ってる・・・」
走っている時は真剣そのものだ。だけど一旦マシンを降りれば、皆楽しそうに笑っている。悔しそうな顔は一瞬だけ。その後は素敵な笑顔だ。
「負けても、失敗しても、楽しいのが一番。それが草野球の一番良い所だからねえ」
「お父さん、これは草野球じゃなくてオートバイのレースですよ」
「ああ、そうか! でも同じようなものだろ? 楽しんだもの勝ちだよ。なあ洋子ちゃん」
おじさん、そう言えば昔、雅美に野球をやらせたかった、って言ってたっけ。野原の球遊び。でも私にはもう一人の声が聞こえた。
「洋子さんは楽しくないんですか? 皆楽しそうに走っているのに・・・」
優美ちゃんの声が頭の中でリフレインして、それはいつの間にか雅美の声に聞こえた。
「洋子は楽しくないの? 最初のレースを見て、慣熟走行を見て、楽しそう、面白そうって、そう思ったから始めたんじゃないの?」
そうか、私、忘れていた。バイクって、楽しいんだ。ぶるっと身震い。全身が粟立って、目から鱗、じゃないけれど、ぽろっと心の中で何かが剥がれ落ちたような気がした。仏壇の、雅美の写真に目を移した。
「そうですよねえ、楽しんだもの勝ち、ですよねえ」
初めてクイックターンを決めた日、夏の清里、紅葉の峠、走れば走るほどタイムを縮めることができた春の日も、KR-1を初めて走らせた秋の日も、皆みんな楽しかった。ジェラートも松葉蟹も釜めしもほうとうもラーメンも伊勢海老も美味しかった。生馬さんの転倒、マリナちゃんのJD、ガミさんの解説・・・。皆面白かった。なんで私はもっと楽しまなかったんだろう。手作りの草レース、手作りの練習会、いっぱい転んで助けられて、負けて泣いて落ち込んで慰められて。皆に教えて貰って支えられて、ここまで成績を伸ばせたんだ。ガミさんには秘蔵のバイクまで借りて・・・。
ああ、そうか。ガミさんの言葉、負けてもいいじゃないか、の意味が解ったような気がする。お母さんの、本質を見失って勝つことに執着するな、って言葉の意味を、今初めて理解できた。ああ。そうなんだ。私は、馬鹿だ。こんなにも楽しいことを、こんな狭い了見で縛られていたなんて。もっともっと、私自身が楽しめば良かったんだ。
「洋子ちゃん?」
気が付くと涙が溢れていた。でも良い。恥ずかしくなんかない。もっと出て来い涙。私の、けち臭い、勝つことだけに固執した卑しい心を洗い流せ。
「大丈夫。おばさん、おじさん、ありがとうございます。私、解りました。何が足りなかったか、やっと解りました。それで浅見さんに勝てるようになるかどうか判らないけど、大切なのはそこじゃないんです」
二人は顔を見合わせて、それから静かに微笑んだ。
翌日、私は一つのことを心に決めて出勤した。先ずは宣戦布告。あいつにガツンと言ってやるんだ。どんな顔をするか、その方が楽しめそうだ。
「浅見さん」
「ん、なんだ? あれ? 俺のコーヒーは?」
「コーヒーはあとで、私の分も入れて下さい。いっつもいつも、私がコーヒー入れるの、当たり前だと思っていたでしょう? 考えてみればこの準備室では、浅見さんは私の指導員じゃありませんから」
「そりゃそうだけど。いいじゃないか、コーヒーくらい。一杯入れるのも二杯入れるのも、大した違いじゃないだろう?」
「そうです。そう思ってやってきましたけど。これからは順番でやりましょう。大した手間じゃないんですから。私、浅見さんが入れて下さったコーヒーも飲んでみたいです」
「まあ、いいけどさあ」
「それから。今度の春レース、私、浅見さんに勝ちます」
「はああ?」
この宣言には相当驚いたようだ。浅見さんの、頭のてっぺんから声が聞こえた。
「ほお? 何だか知らんけど鼻息荒いなあ。お前が俺に勝つってか? はん! 十年、いや二十年早いわ。返り討ちにしてやるぜ」
「何を言うかと思えば。十年後なんて、浅見さん、四十半ばのオジンじゃないですか。体力も集中力も落ちた浅見さんに勝っても嬉しくないです。私は今の浅見さんに勝ちたいんです」
「ちょっと待て。何で十年後の俺が四十半ばなんだ? お前、足し算も出来んのか?」
「だって今、三十四、五、でしょう?」
「あほか、俺はまだ二十代だ。お前、一年以上付き合っていて、俺の歳も知らんのか」
「お前って言わないで下さい。それに付き合っていないし! 卒配の時、吉野課長が浅見は十年選手だって仰いました」
「あれはなあ、新人が安心してOJTを受けられるように、課長が誇張して言ったんだ。それくらい気付けよ。あのとき俺は五年目、今は二十九!」
「あっきれた! 男のくせに五歳もサバ読んで、貫禄付けようとして。騙してたんですか?」
「ちっがーう! 俺は騙していない、お前が勝手に勘違いしたんだろうが!」
遠くの席から森脇室長の大声。
「こらあ! 痴話げんかは外でおやりなさい。ここは職場。うるさいのは勘弁」
「痴話げんかじゃありません!」
二人でハモって返した。
午後の業務が始まって室長に来客があり、そして直ぐにあいつが呼ばれた。二十分くらいだろうか、私も呼ばれた。フロアの奥の会議室は、普通は来客には使わない。身内の会議、いや打ち合わせなのだろうか、内線を使った呼び出しに多少の疑問と古のパターンが頭に浮かんだ。あいつと私、二人が呼び出されることに良い思い出は、無い。
あいつとは会議室の前で鉢合わせた。微妙な顔をして出て来たあいつと入れ替わりで私が入室する。部屋の中には倉橋部長と吉野課長が居た。あかんやつや、私は心の中で呟いた。
「座って下さい。どうですか、準備室での業務は?」
椅子を勧められて、座る間もなく質問を受けた。私は座ってから課長を向いて背筋を伸ばした。
「一言でいうと、大変です。でも災害予防に係る、市民の生命と財産を守る大切な業務だと心得ています。そういう意味では上水整備事業と同じです」
三人はその答えに満足したのか、うんと大きく頷いた。
「四月になれば準備室は解散、そのまま対策課に編入されます。そこで一つ問題があります。君と浅見君は水道局の職員です。今は出向という形で市役所に来て貰っていますが、この先の業務を考えるといつまでも出向という訳にも行きません。そこで、なんですが」
課長の丁寧な口調は、しかしまどろっこしく感じる。
「出向期間が終わる、ということでしょうか?」
三人は顔を見合わると、倉橋部長が話始めた。
「そもそも今回の出向は、ハラスメント起訴問題の対応だったんだが、村山社長が一切合切取り下げる、そう言うんでな。処分は取消が妥当だろうと副局長も判断された」
その言葉を引き継いだのは森脇室長だ。
「でもね、今の準備室をそのまま対策課に引き上げて、業務を垂直立上げするためには二人に抜けられるのは困るの。できれば二人に残って欲しいって、市長を通じて局長と副局長にお願いをしたの。真鍋さん、解ってくれる?」
私、頼られているんだ。秋に怪我した時も期待しているって言ってもらったっけ。あれはリップサービスじゃなかったんだ。え⁈ ってことは? 私は部長の顔を見た。
「真鍋洋子。異例ではあるが、市役所管轄自然災害未然対策課への転属異動を命ずる。四月付けだ」
そうか、私は正式に市役所の職員になるのか。あいつも?
「・・・浅見さんも一緒ですか?」
「浅見は、四月から局に戻す」
何か硬いものに頭を殴られたような気がした。勿論気のせいではあるけれど。でもそれは顔に出たようで。
「何だ真鍋、浅見と一緒じゃないと寂しいのか?」
「・・・それ、セクハラですよ」
精一杯の抵抗を口にした。
日本では四月が期初というところが多い。学校も企業も、役所も。だから三月は期末、年度の区切りになっている。クラス替えや卒業、人事異動に引っ越し。そう言えば雅美が故郷を離れ東京に引っ越したのも三月だった。陽気が良くなって、パステルカラーの風が気持ち良くって、それでもセンチメンタルになってしまう季節。
色んなことに区切りを付けて、さよならをしなければいけない三月の、最初のイベントが三神塾定例草レース・春の陣だ。ガミさんは最後の、とだけは言わないでくれと懇願していた。そうよ、だって五年経てば戻って来るんですもの。
三神塾はそれまで休塾。塾生はバラバラに活動する。渡辺さん親子は県内西地区の大きな倶楽部で活動するそうだ。県外のレーシングチームに行く人もいる。だから皆、今日は最高に盛り上がろう、そう言って前日の土曜日からお祭り騒ぎだった。私もいつも以上にはしゃいでいる。そう、思いっきり楽しむんだ、このレースを。
珍しくお母さんが休みを取って見に来てくれた。たぶん中学校の運動会以来だ。佐倉家も勿論、おじさんはビデオカメラの準備に余念がない。お弁当は二人の母が作ってくれた。土手にレジャーシートを広げ、小さなテーブルに雅美の写真。少し眩しそうに、そしてはにかんだ彼女の微笑みは、春という季節が良く似合っている。
青い空に霞む白い雲。風のない穏やかな日。午前中の早い時間から気温は上がり、JDマリナは今日も絶好調。軽快なトークで会場を盛り上げ、参加者も当然ヒートアップする。
そしてレースは私の番。スタートラインに着くと、マリナちゃんの選手紹介が始まった。
「転倒したって大丈夫、パイロンタッチも怖くない、ペナルティなんてへっちゃらよ! ペナ以上のタイムを叩き出してあげるわ! さあ、真鍋洋子選手、力強いコメントでゲートイン。ツリーのカウントを待ちます」
私はシールドを下げる前にマリナちゃんにウィンクした。大きく深呼吸。不思議と落ち着いている。空の高い所で雲雀のさえずりが聞こえる。大丈夫。さあ、行くわよ!
第一ヒートが終わって、私のタイムは一分二十九秒○○、暫定四位。あいつは一分二十八秒八一で三位。トップは山岸さんで一分二十六秒六七。
昼食に戻るとお母さんが泣いていた。おじさんもおばさんも泣き笑いだ。
「やだあ、泣かないでよ! まだ終わっていないんだから」
「だって、四位よぉ、四位! 前に三人しかいないのよぉ」
私の涙腺が弱いのは、きっと遺伝だわ。二人の母が作ってくれた稲荷ずしとサンドイッチを食べて、マリナちゃんと一緒にコースウォークに向かった。少し前にガミさんとあいつ。
「ねえマリナちゃん、今度一緒にツーリング行こう。伊勢海老のすんごいお店知ってるの」
「ヨーコさん、今日は余裕ですねえ。グッドです。第二ヒートもその調子で走って下さい」
第二ヒート。続出する転倒者、でも皆楽しそうに笑っている。そう、これがこの草レースの良い所なんだ。真剣に走って本気を出して、それでもミスは笑ってしまおう。
私は、第二ヒートは集中し過ぎて何も覚えていない。気が付くとゴールエリアにいて、タイムは一分二十七秒六五。ゴールアンドスタートの入れ替わりでシグナルを待つあいつに私は言った。
「浅見さん、手を抜いたら一生恨みますよ!」
「馬鹿言え! そんなことするか! ぶっちぎってやるよ」
「私に負けたら、二度とお前なんて呼ばないで下さいね。呼ばせませんからね」
あいつはシールド越しにニコリと微笑んだ。悔しいけれど、いい笑顔だ。
「さあ、残る選手は後三人。無冠のインストラクター浅見選手、いよいよスタートです。おおっと、素晴らしいスタートを切ったぁ。センターから左右に分かれる八の字、豪快にNinjaを倒し込んでクリア、上手くスピードに乗せます」
マリナちゃんの実況を聞きながらガミさんの車の横にバイクを停めた。ヘルメットを脱ぐと爽やかな風に髪を洗われ、本当に気持ちが良い。土手の上の家族に手を振り、マリナちゃんの実況に耳を凝らした。




