私がバイクに乗る理由
ガソリンを入れて、私はキャンプ場には行かず、彼女のアトリエに向かって彼女のバイク、ヤマハWR250Rの後ろを走っていた。ディープパープリッシュブルー、その青い車体は北海道の大地とよく似合っている。そう、それは一陣の青い風だ。私の心を強く激しく揺さぶり、吹き抜けた。その風の正体も解らず、でも雅美という共有点で安心してしまった。
「あの! 大学って・・・」
「東京のね、芸術大学。七年通っていた親不孝者でさ、あたし。写真課だったんだけど、年の半分近く撮影旅行に出ちゃうから単位が取れなくて」
「カメラマン、なんですか? いえ、そうじゃなくて。芸大で、雅美と、佐倉雅美と会ったんですか?」
「え? あなた知ってるの? ビビちゃんのこと」
「ビビちゃん?」
「うん、あたしはそう呼んでた。まさみじゃないの、みやびです、って言うから、でも字面はみやびびじゃんって言って。確か、絵画課の娘だよねぇ。ねえ、合ってる? 同一人物?」
「たぶん、間違いないかと・・・。あの、その子の写真はありますか?」
「アトリエに残ってるはずだけど」
「遠いんですか? 写真、見せて貰う訳にはいきませんか? えーと・・・」
「沙織。藤村沙織って言うの、あたし。えーと、洋子ちゃん? 何洋子って言うの?」
「真鍋洋子です。ようこは太平洋のよう」
彼女、沙織さんはしばらく考え込んで何かを思い出そうとしているようだった。目が遠くの何かを思い出すように泳いで、それから。
「うん、良い名前だね。・・・アトリエは二つ。私のアトリエは富良野。親父のが札幌にあるんだ。卒業した時は一切合切実家に荷物を送ったから、そっちに混ざっていれば写真は札幌の親父のアトリエにある。あたしが仕事で持ってきた荷物に紛れていれば富良野にある。ごめんね、どっちにあるかは判らない」
「私、今日は富良野のキャンプ場に泊まる予定だったんです。不躾なお願いで申し訳なんですけど、アトリエにお邪魔して、写真見せて貰ってもいいですか?」
「うーん・・・。いいけど・・・探すって言っても大変だよ? こっちじゃないかも知れないし」
それから少し考えて、彼女はこう言った。
「取り敢えず、ガソリンを給油しよう。話はそれから、ね」
ガソリンスタンドで給油していると、彼女が囁くように言った。
「今日は、キャンプ場はキャンセルしなよ。あたしのアトリエに泊めて上げる。その方がゆっくり探せるし、あたしもあなたに興味が出て来た。少し話がしたい。ね、そうしな」
私は何のことだか解らなかったが、今はその意味を深く考えず、お礼を言ってその好意を受入れた。
私より、つまり雅美より五、六歳年上だろうか。桜の季節、新入生ってことは雅美が大学に入学したての頃だ。どうして新入生の雅美を知っているのだろう。声を掛けたって言ってた。どうしているかなあって言ってた。つまり雅美が亡くなったことは知らないんだ。飛び切りの被写体って言ってた。つまり彼女は雅美の写真を撮ってたんだ。でも、何故。
走りながら私の頭の中は疑問符で溢れていた。彼女と雅美の話をしたい、段々とその思いが強くなった。彼女は私の知らない雅美を知っているのかも知れないのだ。いや、きっと知っているに違いない。根拠もなく勝手にそう思い込んだ。私のカンがそう言っている。
彼女のアトリエに着くと、そこは普通のマンションだった。
「あたしは出張カメラマンだから、ここで十分なんだ」
3LDKの間取りは広く、リビングに荷物を置かせてもらうとすぐ、シャワーを勧められた。
「浴びている間にデータ、探しておくから」
日焼けした腕がお湯に沁みた。私は鏡に映った自分を見ながら不思議な縁を感じていた。見知らぬ土地に来て、他人の家でシャワーを浴びている自分。もし雅美の名前が出て来なかったら絶対に有りえなかったはずだ。でも不思議と恐怖心はない。
シャワーから出ると、新しいタオルがランドリーの上に用意されていた。
「シャワー、ご馳走さまでした。タオルまで貸して頂いて」
彼女はにっこりと微笑むと、玄関に近い部屋に招き通した。
「ここがあたしの作業場。写真はデジタルだからパソコンで見れる。ただねえ・・・」
彼女は段ボール箱を指さした。中にはDVD? がぎっしり詰まっていた。
「あの頃、年間で一万枚くらい写真を撮ってたんだ。これがそう。あたしのアマチュア写真家としての記録。写真はDVDに移して八十から百枚くらいあると思う。オキニの被写体はフォルダに名前を付けて振り分けてあるけどね」
その内の一枚を取り出し、パソコンのディスクトレイに乗せた。
「こうやって一枚一枚差し込んで、佐倉か雅美か、ビビって名前のフォルダを探すの。フォルダを見つけたら中の画像を開いてみて」
私がチェアーに腰掛け、マウスのクリックを始めると彼女は一旦部屋を出て、冷たいミネラルウォーターのペットボトルを持って入って来た。
「まあ、この段ボール箱がこっちにあったのはラッキーだったけどね。じゃああたしも汗、流してくるから」
改めて部屋を見渡すと、壁の棚にはものすごい量のDVDが並んでいた。パソコンデスクの横には外付けのハードディスクが数台。きっと途方もない数の写真がしまってあるのだろう。
フォルダには様々な名前が付けられていた。山岳、里山、植物、動物、海、天体、そして人の名前。興味を引く名前もあったけれど、それらを開くことなく雅美の名前を探した。
やがて何十枚目かのDVDで、私はそのフォルダを見つけた。クリックすると中には沢山の雅美がいた。大学の構内だろうか、これはスタジオ? 海辺の写真もあった。どれもこれも懐かしい、雅美だ。無邪気に笑う雅美、悲し気にうつむいている雅美、はにかみ笑顔の雅美、眩しそうに眼を細めた雅美、嬉しそうな雅美。髪の色が違っても、メイクが違っても、私には判る。雅美だ。
「みやびぃ・・・」
つい声を漏らしてしまった。涙がほほを伝わって、嬉しかった。久しぶりだね、雅美。まさか北海道で会えるなんてね。
ドアがノックされて、静かに開いた。
「一休みしてご飯にしようか。ラム、焼いたんだ」
覗き込んだ沙織さんは、
「あ、見つかったんだ。やっぱり同一人物だったんだね。・・・で、ビビちゃんは今どうしてるの? あの年、あたし冬の撮影旅行で東京に戻ったのは試験間際だったんだよねえ。戻って来たら連絡付かないし、マンションは引き払ってるし、学生課に尋ねても教えてくれないし、何か理由があって大学辞めちゃったんだろうけどさあ、何にも言ってくれないなんて、そんな子じゃないと思ってたんだけどね」
「雅美は、・・亡くなりました・・・」
押しつぶされそうな痛みを伴って私の胸は悲しみで溢れ、そして涙がこぼれた。目の前の、モニターの中の雅美はこんなにも美しく、生き生きとしているのに、現実の雅美はもう六年も前に他界しているのだ。こんなにも悲しい事実が、辛い。
私は彼女に雅美のことを話した。静かに聞いていた彼女は涙の粒を数滴流し、私は場違いにもそれを綺麗だと思ってしまった。やがて沈黙の時間を経て、彼女は静かに言った。
「そう。残念だったわね。いい娘だったのに。・・・それに、そうか、残念だわ。もうビビちゃんを撮れないなんて」
「沙織さんはどうして、雅美を被写体に選んだのですか? こう言っては何ですが、彼女より綺麗な娘、たくさんいますよね?」
「ん? ・・何ていうのかなぁ。オーラ? あたしも随分ファインダーを通して人を見てるからね。何となくだけど、その人が持ってる人かどうか、判るのよ。こうして」
カメラを待つフォームをして彼女は続けた。
「入学式の日、あたしはカメラを構えて遠目(望遠レンズ)で新入生を見定めていたんだけどね。フレームに入った瞬間、ピーンと来たのよ。あ、この子は違う、ってね。それですぐに口説き始めて。年に数回、モデルをして欲しいって頼んだの。二週間毎日頼み込んで。最後には、あなたの作品を見せて下さい、なんて言われてさ。逆にこっちが見定められちゃったよ」
ああ、雅美らしい。そういう娘なんだ、やり取りが目に浮かぶ。
「あの頃のあたしは本当に手当たり次第撮ってたからね。正直あまり人様に見せられる写真じゃなかったのだけれど、あの娘、山とか里山とかの風景写真を気に入ってくれてね。彼女の絵のモチーフと重なったのかな。あ、そうそう。ちょっと貸して」
沙織さんはパソコンを操作すると、一枚の写真をモニターに映し出した。
「この写真、あたしが大学二年の時にコンクールで準優勝したときの写真なんだけどさ、ビビちゃん、えらく気に入ってくれて、幼馴染の子に見せたい、そう言ってた。幼馴染のマナベヨーコって、あなたのことでしょう? 真鍋なんて珍しい姓だもんね」
その写真は、うっそうとした森の中で、三頭の鹿がたたずんでいる写真だった。霞みの掛かった部分と木漏れ日が神々しい雰囲気を醸し出し、まるでアニメの中のワンシーンのようで、自然の雄大さと神秘さを兼ね揃え、見る者の心に染み込んでいくかのような優しさ、魂が引き込まれてしまいそうな美しい作品だった。
「・・・これって、山の奥ですよね。お一人で入ったのですか?」
「まあね。この写真、鹿がメインと思われがちだけど、モチーフは森林の息吹なんだよね。彼女は一目で見抜いてくれてさ。シンパシーを感じたよ」
そう、雅美の描いた風景画に通じるものがあるような気がする。でもそれは同時に人が安易に触れてはいけない、俗世間とは離隔された世界感でもある。そこに立つ鹿たちが凛々しく、美しく、猛々しく、森林に溶け込んでいて、そう、鹿はこの自然の一部でしかない。
「怖くないんですか? こんな・・・」
「一見、人里離れたすごい山の中に思えるからも知れないけれど、実はそうでもないんだ。集落からは、まあちょっとは離れているけれど。村からバイクで一時間ってとこさ」
「バイク? バイクでこんな森の中へ?」
「あなたのロードバイクじゃ無理だけどね。あたしみたいなオフロードモデルならなんてことはないよ。林道の本線から支線に入って、その行き止まりは作業道だからそこから先は四駆だって入れないとこさ。でもバイクなら、作業道も獣道も入って行ける。獣道を辿って、その交差点近くにカモフラージュの迷彩柄のテントを張って、構図を考えながらシャッターチャンスをじっと待つ・・・。まあ徒歩でも良いんだけれどね。テントと水、食料、カメラ機材合わせると結構な重さだから、あたしはもっぱらバイクを使ってるよ。勿論バイクでも入って行けない所は・・・」
これが、雅美が知った世界。これを彼女は私に伝えたかったのか。徒歩かバイクでなければ届かない場所。大自然の力強さと優しさ。そして、美しさ、厳しさ。ありがとう雅美。私、受け取ったよ。雅美も、こんな絵が描きたかったんだね。解るよ、私。だって私はもう一人のあなただもの。
「・・・洋子ちゃん?」
「すみません。感動しちゃって・・・」
私は涙を拭った。
「あのお、雅美はこの写真を見て、他に何か言ってませんでしたか?」
「場所とか構図とか時間とか。この木漏れ日が月明かりならどうなるだろうか、とか。あ、あと、こんな場所に行くならバイクが必要ですね、って」
ああ、やっぱり。これが、これこそが彼女がバイクの免許を取ろうと思った原点なのだ。こんな場所に行きたくて、それが彼女のバイクに乗る理由だったんだ。
その晩、私は沙織さんと夜遅くまで話した。ラム肉とワインの食事を終えても、雅美のこと、私のこと、バイクを乗るきっかけ、沙織さんの写真の話、そして恋バナ。いつまででも話していたい高校時代の修学旅行のような夜。
「沙織さんなら、好きになった人と、好きと言ってくれた人、どっちを選びますか?」
「難しい質問だねえ。あたしなら・・・。でもさあヨーコちゃん、そんな質問をするってことは、既に答えは出てるんだよね?」
「え? 迷っているんですよ、私」
「一歩踏み出す勇気がなくて、背中を押して欲しいだけだと思うけど? 自分の気持ちに素直になりなよ。新しい道を踏み出す時には勇気が要るものさ。でもね、違うなって思ったらやり直せばいい。人生なんてそんなものさ。バイクだってそうでしょ? 自分で納得して選んだつもりでも乗ってみたらなんか違うなって、そう感じたら乗り換えるじゃん?」
男選びはバイク選びと一緒かあ。私の頭の中でFZRとYZRがぐるぐる回った。
気が付くと朝になっていた。いつ寝落ちしたのか、まったく記憶にない。カーテンの隙間から差し込む朝日が気持ちよく、目覚めて三秒で全身がフル回転した。飛び起きるように寝袋から這い出した。今日は富良野最後の日。午前中はこの辺をぶらぶらして午後からは小樽に移動するつもりだった。時計は朝の五時。短い睡眠時間の割にはとてもすっきり爽やかな気分だ。でもなんでこんなに早く目を覚ましたのだろう? 沙織さんはもう起きていた。
「おはようございます」
「あら、おはよう。早いのね、眠れなかった?」
「全然。その逆です。ぐっすり眠ってものすごく爽やかです」
「そう、良かった。じゃあ早速だけど、昨夜のお願い、頼めるかな」
あ。そうだ、私を撮りたいって、酔っぱらったワインが言ってた。冗談じゃなかったんだ。
「本当に良いんですか? 私で」
「お願い」
沙織さんはフリーのカメラマン。自然写真家を目指しているものの、今は生活費稼ぎに、温泉のポスターからチラシの写真からまで依頼があれば何でも撮る。今回の依頼は観光客向けの地元紹介の写真だ。オーダーは現在の富良野をレトロ調に、というものらしい。ノスタルジックな写真で、帰りたい故郷、を演出したいそうだ。そのモデルに私なんて。
私たちは町から、朝露に輝くトウモロコシ畑にバイクで移動した。
「埃で汚れたバイクは長年のパートナー。長旅から帰って来たって風で。向こうから40km/hくらいで走って来て」
カメラマンの指示に従い、畑の中の一本道を私はゆっくりと走った。
「目線、真っ直ぐで。もう一本下さい」
三往復で撮影は終わった。あっけないものだ。
「ありがと、助かったわ! このためにモデルの子、呼ぶのもちょっと気が引けて。クライアントの予算が厳しくてね。それになかなかバイクに乗って様になるモデルもいないし。フルフェイスのヘルメットで顔は写ってないけど、ヨーコちゃん、バイクと一緒だとフォトジェニックだから」
うーん・・・。褒められているのかどうか、なんか微妙。顔は関係ないんだ。
「ほんと、バイクが様になるっていうか、一体感、半端ないよ。カッケー。プロのカメラマンが言うんだから間違いないって。・・・それでギャラなんだけどさ」
「あ、私、公務員なんで。副業はNGですから、一宿一飯の恩義返しってことで」
「ごめんね。そう言ってもらえると助かる。じゃあ、朝ごはんにスイーツしよう」
そう言って畑の中の一本道をバイクで走り出した。まだ七時前だ。朝ごはんは解るけど、スイーツだなんて。十分も走ると、見るからに農家という感じの家に着いた。
「おはようございまーす。お母さあん! 藤村です、藤村沙織」
「あれ、どうしたの、こったらに早く。また取材かい?」
「朝一で撮影が終わったとこで。この子、モデルのヨーコちゃん」
「おはようございます」
「あら、おはようさん。おやまあ、やっぱりモデルさんは別嬪さんだねえ」
「また図々しくご馳走になりにお邪魔しましたぁ」
「いいよ、なんぼでも食べなさい。別嬪さんも。ウチのはなまら甘いからね」
そう言って、作業小屋へ私たちを招き入れてくれた。小屋の中は、ほんのり甘い香りがしている。
「ここはね、朝収穫したトウモロコシを梱包するところなの。こちらの笹原さんはトウモロコシ農家さんで、去年、私が取材と撮影をさせてもらったんだ。今日の撮影場所も、事前にちゃんと許可をいただいてあるのさ」
小屋の中は流れ作業で、茎を切って高さを揃え、発泡スチロールの箱に一本一本丁寧に仕切板で立てられて、そこに細かく砕かれた氷が満たされ、蓋をしている。私は自分の目を疑った。トウモロコシが氷漬けにされている。
「トウモロコシは鮮度が命。鮮魚と一緒さ」
「よう! 沙織センセ、来てたのか」
「もう、先生はよして下さいよ。まだ駆け出しなんですから。今シーズンのトウモロコシも甘く出来ていますね」
「おう、糖度は二十一から三だ」
年配の、とは言っても五十絡みのおじさんはとても良く陽に焼けて、笑顔が素敵だった。目の前の籠からひょいと二本つかみ取り、私たちに手渡してくれた。皮付きの、ずっしりと重さを感じるトウモロコシ。まさか、このまま齧るの? トウモロコシって、茹でるか焼くか、するものでしょう?
沙織さんは手早く皮を剥くと、漫画のようにかぶりついた。ガブっと瑞々しい音がして、甘い香りが一層強くなった。
「うん、甘い! 笹原さんとこのは最高だね」
私は見よう見真似で皮をはがした。中の粒はくっきりと大きく、色は黄色よりもっと白い。私はそれをそーと口に含み、歯を立ててかじり取った。途端に口いっぱいに広がる甘さ。なんなの、これ? 目を丸くする私を、作業場の誰もが笑った。
「トウモロコシはさ、穀物に分類されるけど、果実でもあるのさ。甘いだろ?」
ガブッ、シャキッと歯触りが心地良い。音が気持ちいい。甘さをたっぷりと含んだ水分は、まさに果物のそれだ。そして目から鱗が落ちる思いだった。生のトウモロコシがこんなにも甘い食べ物だったなんて。ん? そう言えば、以前誰かが言っていたような・・・。
「どうしたの?」
「すみません。感動のあまり言葉を失いました。・・・もう一本頂いていいですか?」
「どんだけでも食べたらいーさ。トウモロコシはもぎたてが一番美味しいからねー」
作業場はまた、笑い声に包まれた。
風の吹き抜ける小高い丘。見渡しが良く、気持ちいい。私たちは並んでその風に吹かれていた。こんなに素敵な場所が至る所にあるなんて。北海道って、ホント最高だ。
「じゃあ、あたしは次の仕事に行くよ。ヨーコちゃん、ありがとう」
「こちらこそありがとうございました。・・・あの、また遊びに来てもいいですか?」
「勿論! 秋も冬も、北海道は素敵なところだよ。美味しいものもいっぱいあるしね」
私たちは笑った。
沙織さんの笑顔を見ながら、一つだけ、気になったことがある。雅美がもし生きていたら、オフロードバイクを駆って山の中を走り回っていたのだろうか。あの景色は確かに雅美好みだとは思うけど、私の知っている雅美はそれほどアクティブではない。沙織さんからきっかけを貰ってバイクの免許を取って、その延長線上でオフロードバイクの購入し、一人で森林の奥、山の中を進んだのだろうか。夕べ聞きそびれたことを尋ねてみた。
「それはあたしにも判らないね。深淵の林は人を拒み、荘厳なる山は静かに、でも数多の生命力に溢れている。ビビちゃんがそれを絵画のテーマに求めたとしても不思議ではない、とは思うよ」
沙織さんの、ちょっと真剣な目が私を射抜くように見た。
「でもね、それはビビちゃんが見つけた世界。あなたにはあなたの見つけた、ビビちゃんの知らない世界があるんじゃない?」
「え?」
「違ったらゴメン。何となく、ヨーコちゃんがビビちゃんのために、ビビちゃんが求めた世界を探しに行くような気がしてね。でも、それは違うと思う。ビビちゃんとヨーコちゃんがとても仲良く育って、それでも将来の進路が分かれたみたいに、求める世界、進む道は違って当たり前だと思う。あなただって、ビビちゃんの知らない世界を知っているんでしょう?」
私が知っている、雅美の知らない世界・・・?
「ビビちゃんはもうこの世にはいない。だからあなたが見たことを感じたことを、そしてその感動を彼女に伝えるんだ。佐倉雅美が知らない世界を、あなたが教えてあげるのさ。それがいいと思う」
私を真正面から見つめるその目。真剣な、それでいて慈愛に満ちている。その目が眩しくて、私は視線を外し、遠く北海道を回し見て、TZRに辿り着いた。そうだ、この大地さえも彼女は知らずに逝ってしまったのだ。素晴らしい景色を、美味しい食べ物を、そしてオートバイという素敵な乗り物がくれる世界を、私はもっと知りたい。雅美に伝えたい。
走ろう。単純にそう思った。私は走れる。このバイクで、きっとどこまでも走れる。
デスクの上には一枚の写真。まだこれを超える写真はない。
夏の北海道から地元に戻って、その後、何本ものツーリングを走った。浅見さんとも坂本君とも、そしてモトジムの仲間たちともツーリングに出掛け、風景を楽しみ、地場の食べ物を楽しみ、バイクの走りを楽しみ、そしてその都度色んな写真を撮ったり撮ってもらったりしたけれど、やっぱりこの写真が一番好きだ。富良野で沙織さんが撮ってくれた、トウモロコシ畑の中を疾走する私。輝く光の洪水の中で、そしてヘルメットに隠れて私の顔は見えないけれど、この写真のライダーは間違いなく私だ。
詩織さんのアトリエで雅美の写真を見つけたとき、私はその写真をねだった。プロの写真にいくらの値が付くのか、まったく非常識なお願いにもかかわらず、彼女はビビと書かれたフォルダーの全ての写真を譲ってくれた。
「これはまだアマチュア時代の写真だからね。お金は取れないよ」
そう言って、DVD二枚の写真を送ってくれた。そして、そのDVDの中に一枚、私の写真が紛れていた。それは間違いなく、プロの写真だ。以来私のデスクに飾ってある。
季節は流れ、新緑の春になった。まだ冬用のジャケットは脱げないけれど、春の陽射しはパステルカラーに輝き、オートバイが乗りやすい季節になった。
去年はガミさんの送別会からこっち、ちょっぴりブルーで。FZRを売りに行こうとしてTZRに出会って。雅美って彫られたタンクプレートに運命を感じて。なんだか今思うと目まぐるしい四月だった。そして・・・。
今年、私の横には新人がいる。小さくて可愛い子。身長は154cmって言ってたから私と丁度10cm違う。細くて華奢で、愛くるしい目をしている。大学を卒業したばかりの、社会人一年生。
「先輩、今日は何をするんですか?」
ものすごく熱心で、何にでも興味を示し、いつも私を質問攻めにする。
「ねえ夏海ちゃん。その、先輩って呼び方、止めようよ。ここには貴女にとっては先輩しかいないんだし、私のことは・・・、そうねえ、下の名前でいいわ」
「洋子さん? ですか?」
「うん、それでいいわ。今日はね、有事の時の連携先についてレクチャーするわね。去年ホットラインが設置されたから、ボタン一つで緊急情報が共有されるシステムになったの」
私の説明を、メモを取りながら一生懸命だ。素直で、礼儀正しく、明るく、真面目。彼女の彼氏はきっと幸せ者だ。
「あのお、仕事の事じゃないんですけど」
お昼を食堂で一緒に食べている時に彼女は言った。
「なにかしら」
「洋子さんのデスクの写真、素敵ですよね。あれ、彼氏さんですか?」
「え?」
「ごめんなさい、すっごく気になってて。聞いていいものかどうか、迷ったんですけど」
「あれはね。私なの。知り合いの、ううん、友達のフォトグラファーに撮ってもらったの」
ちょっぴり誇張して言った。でもあれからメールとか電話とか、何度もやり取りしてるし、こっちに出て来た時は一緒にご飯も食べて、もう友達って呼んでもいいわよね。
彼女はクリっとした目を丸くして。
「洋子さんって、オートバイに乗る人、だったんですか?」
「うん。私の趣味。夏海ちゃんも乗るの?」
「いえ、私は・・・。あの、彼がオートバイに乗っていて、ホンダのロクダボって変な名前のオートバイなんですけど、後ろに乗せて貰ったことがあるんです」
私はゆっくり頷いた。タンデムかぁ、私は経験なかったなあ。厳しく怒鳴るヤツがいっつも側にいたけれど。あ、彼氏がいるんだ、この子。さらっと言ってくれちゃって。
「以前は時々乗せてくれてたんですけどね、危ないからって、最近は乗せてくれなくなっちゃって。それでもオートバイは面白い、楽しいって、子供みたいに無邪気に話すんです。私それが悔しくて。私だって、もう少し背があったら、オートバイの免許取れると思うんですけど・・・」
「あら、154cmだっけ? 全然平気よお。興味があるなら教習所に行ってみたらいいのに。私は学生時代に合宿免許で取ったのだけれど、確か夏海ちゃんくらいの背の子、いたわよ」
「ほんとですかあ?」
「本当よ。免許取って、彼氏とペアツーリングなんて素敵じゃない。応援するわ」
「ありがとうございます。じゃあ、思い切ってチャレンジしてみようかなあ」
「うん、頑張ってみれば? 免許取ってバイクを買ったら、一緒に走ろうよ。私、結構いい場所知ってるわよ。映え写真のスポットとか、格安激うまのご飯屋さんとか」
「洋子さんの彼氏さんもオートバイに乗っているんですか?」
私はそれには答えなかった。バイクに乗るきっかけがあいつだったことは間違いない、けどね。
「・・・ごめんなさい」
「あら謝らないで。そんなんじゃないから」
「あの・・・」
「なあに?」
「オートバイの面白さ、楽しさって、どこが、どんな風に楽しいのかなって。彼に聞いても、走ったことのない奴には口で言っても伝わらないよ、って言われて・・・」
うーん・・・。確かにそうなんだけど、私なら何て言う? どう説明する?
「えーと。真夏の高原で緑の風になり、紅葉の峠で朱い風に染まる。冬の北陸で甘い蟹を食べ、春の海岸でウニと伊勢海老を頬張る。かな? あ、あと、北の大地で碧き風に包まれて人生を知る。とか」
「それ、詩、ですか?」
「いや、説明・・・」
「ごめんなさい。ちょっと解らないです」
「彼氏の言う通り、乗って走り出せば解ると思うけどね」
「乗り始めるのに動機づけが・・・。彼を追い掛けたくて、なんて女として終わっているというか、不純というか・・・」
健気だねえ。それで良いじゃん。終わってないし、不純なんかじゃないよ。
「バイクを始める理由なんて、何でもいいんじゃない? 面白そう、楽しそう、で十分だと思うけど」
「じゃあ、洋子さんがオートバイに乗っている理由って、何なのですか?」
私はちょっと考え、
「B級グルメハンターがいて、C級テクニックハンターがいて・・・。そうねえ、私はA級ランドスケープハンター、かな」
「・・・ごめんなさい。ちょっと意味が解らないです」
だよね。
「自分の未知なる世界に踏み出すきっかけが、私の場合バイクだったの。素晴らしい景色を、美味しい食べ物を、そしてオートバイという素敵な乗り物がくれる世界を感じる時、胸がドキドキするの。快感ってヤツ? もう病みつきね」
彼女の不思議そうな顔が、でも次第に頬が緩んで笑った。
「結局、楽しいってこと、ですよね?」
「ま、簡単にいうとね」
私はにっこりと微笑んだ。




