24.僕だけを見ていて
その日、華里大学正門前の本屋は、女性客で賑わっていた。彼の有名人も時々来店するという噂がある本屋に、ファン達は淡い期待を滲ませて訪れる。
「ほら見て見て、一之瀬夏君の新しい写真集!今度はニューカレドニアで撮影したんだって。綺麗な海に青い空、これは買わなきゃ損でしょ!」
女子高校生2人が顔を突き合わせて、棚に並び、更に隙間なく積み重ねられている写真集を興奮した様子で見る。一冊、また一冊と客の手に渡っていく。制服のスカートをはためかせ、女子高校生2人も写真集を手にとってレジに向かう。そのうちの1人が、思い出したように話しだした。
「これって2ndフォトブックだよね?1stのタイトルは確か──」
〈今女性達の間で最も話題の恋愛映画“Smile&Love”にヒロインの弟役で出演している、モデルの一之瀬夏さんですが、俳優として初めての活動にも関わらず、姉思いの心優しい弟を見事に表現し、多くの観客を虜にしています。私も観ましたが、あの笑顔は反則です!〉
〈そ、そうですか〉
興奮気味に語る女子アナウンサーに押される男性司会者。まあ、そうなるだろ。司会者は気を取り直し、番組の進行をする。
〈一之瀬夏さんと言えば、本業のモデルでも大活躍されているようですね〉
〈はい、そうなんです。一之瀬夏さんの2nd写真集“マナツノコト”が今日全国で発売開始。今回はニューカレドニアでのオールロケで、南国の素晴らしい景色も楽しめ、まさに目の保養にぴったりですね〉
〈凄いですねぇ。2nd写真集ということですが、映画の影響で注目を集め、1stの写真集も予約が殺到、続々と重版されています。これは2年前に出たもので──〉
プツン。
テレビの電源を切り、真っ黒になった画面と向かい合う。そこに映っていたのは、サイズの全く合っていない襟付きの白いシャツを一枚羽織っているだけの真だった。ワンピースのようにして着ているため素足が惜しげもなく晒されている。
しばらくそのままぼうっとしていた真は、キッチンに足を向け、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出し、コップに注いだ。一気に飲み干し、コップを水洗いして戻す。続いてホーロー製のオレンジ色のヤカンを取り、水を汲んで火にかける。
「ふぁ、眠い……」
欠伸をひとつして赤いソファに腰を下ろし、猫脚の机の上に置かれていたものを手にとって、めくった。
エッフェル塔、パリの凱旋門、カフェのテラス席、メトロ、ホテル。
ふと、あるページに目を留めた。
クリスタルで飾られたシャンデリアの輝きのもとに佇む、黒のタキシードに身を包んだ一之瀬。
誰かを待っているのか、有名ブランドの腕時計を見ている。
髪はワックスで固められ、形の良い左耳が見えるアングルだ。それはまるで見せることを意識しているかのようなポージング。左耳に佇むシルバーのリングピアスを。
「この時は、大変だったな……」
「何が大変だったんですか?」
背後から突然掛けられた声に、真は驚くこともなく振り返った。ソファの背もたれに寄りかかって真を覗き込んでいるのは、この写真と同じ人物。
下は黒のスラックスを履いているが、上には何も身につけていない。
「おはようございます、真」
挨拶とともに頬に軽いキスが落とされた。長い腕が後ろから回され、裸の胸に頭を預ける格好になっても、真は動じることなく、写真集をめくる手を止めない。
「おはよう。夏もコーヒー飲む?今ヤカンでお湯沸かしてるとこだけど」
そろそろかな、と立ち上がりかけると、一之瀬は腕にぎゅっと力を込めて真の動きを阻んだ。
「僕が淹れてきますから座っていて下さい。ああ、昨夜は無理をさせてしまいましたが、体調は問題ありませんか?」
気遣わしげに顔を近づけてくる一之瀬を、真は赤面しながら片手で押しやる。
「何ともないっ!気にしなくていいからっ!」
語調を強めて言い、そばにあったクッションで顔を隠してしまったが、一之瀬は面白そうに笑ってキッチンに向かっていった。
真の部屋の勝手を知り尽くしている一之瀬が慣れたようにインスタントコーヒーの瓶をカントリー調の棚から出し、ティースプーンで二つのマグカップに入れる。ちょうど沸いたお湯を注ぎ、赤色のマグカップには角砂糖3つとミルクを。黄色のマグカップには何も入れず、ブラックで。
空きっ腹にコーヒーは良くない。冷蔵庫にあるアップルパイを二切れ皿に取り分け、フォークも用意し、まとめてトレイに載せて運ぶ。
テーブルに置いて赤色のマグカップを真に手渡し、一之瀬は黄色のマグカップを持って隣に腰かける。
「また見てたんですか、それ」
一之瀬の視線の先は真の膝の上に置かれている写真集。日焼けしないように透明なカバーを施されていて、見る度に、この部屋を訪れて初めて目にした時、顔を真っ赤にさせて恥ずかしそうに俯いていた彼女の姿が脳内で蘇り、口元が緩むのを抑えられなくなる。
「うん。なんか懐かしくなってさ」
写真集を見ている真の瞳は、楽しかった思い出を振り返る温かさに満ちていた。
そんな彼女をじっと見つめていた一之瀬が、不意に、にやりと口の端を上げて話し始めた。
「ええ、確かに大変でしたよね。1ヶ月も会えないなんて嫌だと僕が駄々をこねた所為で真までパリに同行することになって。これで一緒にいられるから安心だと思ったけれど、真がエロ親父──ブランドのオーナーに男だと間違われてタキシードを着せられた挙句、えらく気に入られてお持ち帰りされそうになったり、招待されたパーティーで目を離した隙にナンパ野郎──若手のデザイナーに口説かれてセクハラされたり、などなど。あの時は本気で首輪をつけようかと思いました」
「あ、あはは。そんなこともあったっけなー……」
真は引き笑いしかできない。
「そうですよ。永守さんとスタイリストさんが調子に乗って用意した、あの胸元と背中が大きく開いた黒のドレスを着た真に、誰もが釘づけになっていました。僕がどれだけ気を揉んで、くどく注意しても、あなたは蝶のようにふらふらとあちこち飛び回って。本気で籠に閉じ込めようかと思いました」
妖しげに微笑み、さらっと言ってのけた言葉に、真の口元が引きつる。
「首輪に籠って……。さっきから言ってること物騒過ぎるだろ」
「だって、そうでもしないと、あなたが僕のものだって分からないでしょう?」
「だからって本気でやったら怒るからな!一生口聞かないぞ!」
「分かってますよ。そんなこと、絶対しませんから」
すんなりと引き下がった一之瀬に対し、アップルパイを頬張っていた真はコーヒーで林檎の酸味とカスタードクリームの甘味を流して、口を開いた。
「あたしは夏のものだよ、ずっと。だからそんなこと言うな」
真剣な声で言った真に、一之瀬は目を丸くし、嬉しそうに笑った。
「はい。僕も真だけのものです、ずっと」
「分かったならよろしい」
少し伸びた髪を引っ張りながら再び写真集を開く。だが、すかさず一之瀬が手を伸ばし、閉じて奪い取った。
「写真ばっかり見ていないで、僕を見てください」
「おいおい。自分の写真にまで嫉妬するのか?」
呆れている真の細い手首を掴み、ソファに押し倒して縫いつける。
「今、この瞳に写すのは僕だけにしてください。週明けから、また会えなくなるんですから」
前髪が目にかかるのか、鬱陶しそうに払いのけた。髪を切る時間も無いほど忙しいんだな、と真は思い、手で撫でつけてやると握られた。
一之瀬は握った手の甲に唇を押し当て、柔らかな手を自分の首もとに触れさせる。真が彼の、流れる線を描く綺麗な鎖骨に目を遣ると、そこには薄い色をした花びらが散っていた。
沈黙を保ち、視線を泳がせていた真の肩が震える。大きな手に太股を撫で上げられ、一之瀬の手をぴしゃりと叩いて睨みつけても、彼は笑い続けている。
「Regarde-moi seulement」
そう耳元で囁かれたかと思えば、首筋をざらりとした感触が這う。何度も吸いつく音に昨晩の情事の熱がぶり返し、思わず顔を背けてしまう。
目に入ったのは机の上に閉じて置かれている写真集だった。その表紙を飾るのは、白いシーツが敷かれたベッドの上で寝転がりながら片方の目を手で覆い、無邪気な笑顔を見せる一之瀬だ。パリと東京で撮影した写真を盛りだくさん収めた1st写真集。
一之瀬自身が考案し、採用されたというタイトルは──
「真」
名前を呼ばれるのと同時、両頬を掌で包み込まれ、ぐいっと顔を天井に向かせられた。とはいっても天井よりも前に一之瀬の顔がある。
「余所見は許しませんよ」
独占欲を滲ませる、噛みつくようなキスに酔いしれながら、溺れてしまわないかと心もとなくなって、真は広い背中に手を回してしがみついた。
〈現役学生の人気モデル、一之瀬夏。もう誰も、彼から目が離せない〉
そんなアオリを考えたのは誰だか知らないが、ひとつだけ間違っていると僕は思う。
現役学生は間違っていない。この頃は大学2年生だった。モデルの仕事も、今は本業にして続けている。最近はドラマや映画にも呼ばれている。
じゃあ間違いなんてないじゃないかって?
いや、ある。
誰も僕から目が離せない、なんて、これを見た神城たちは大爆笑していた。
ひとりだけ首を傾げていたのは彼女だけだ。そう、ひとりだけ。
余所見をしないでと何度も言っているのに、警戒することを覚えないから冷や冷やすることは度々。外国に行くと尚更だ。普通は逆だろうとホテルのベッドの上で膝を詰めて説教したこともあった。
目が離せないのは僕の方。
僕は、いつだって彼女から目を離すことができない。
これが本当の僕。
彼女だけの、僕。
〈1st写真集 マコトノナツ〉
fin.
『Regarde-moi seulement.』 訳)僕だけを見ていて
マコトノナツ、完結です。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。




