薄氷色の残響──ヴェールで覆った瞳の行方
── 十年前、ルカが走り去ったあとのノルズランド王国、王宮貴賓室にて。
筆頭公爵コンラート・ランカスターは、先ほどまで薄氷色の瞳を持つ青年が座っていた椅子を、ただ見つめていた。
手に持ったティーカップは、とっくに空になっている。だが彼はそれを置くことさえ忘れ、彫刻のように微動だにしない。
部屋の隅で控える王宮の給仕係は、国政を担う重鎮のただならぬ様子に、額の汗を拭うことさえ叶わず、ただその場に立ち尽くしていた。
※※※
二十年ほど前、コンラート・ランカスターは王都守備騎士団の治安維持部隊に、隊長として着任していた。
まだ公爵位を継承する前。次期公爵として、そして将来の宰相候補として、実戦と実務の双方で辣腕を振るう若き隊長であった。
あるとき、大規模な人身売買組織の情報が入る。
コンラートは数ヶ月に及ぶ緻密な内偵により、組織の動脈を完璧に炙り出した。
その上で、一切の猶予を与えぬ迅速な掃討作戦を敢行。関与した者たちを末端に至るまで一斉に摘発し、容赦なく根絶やしにした。
組織の拠点となっていた屋敷には、とある高位貴族との繋がりが疑われていたため、コンラートは自ら現場の検分に立ち会った。その際、地下牢に繋がれた複数の幼い子供たちが発見された。
「直ちに救助し、保護施設へ移送せよ」
事務的に命じ、部下たちを先に行かせた。
だが、彼自身が地下牢の最奥へと足を踏み入れた際、現場に漂う妙な居心地の悪さに眉をひそめることになる。
先行していた隊員たちは、確かに救助活動を行っていた。しかし、動きにどこか精彩を欠き、視線は不自然に泳いでいたのだ。
職務に忠実で、凄惨な現場を幾度も踏み越えてきた精鋭たちが、明らかに調子を狂わせている。
その視線の先に、少女がいた。
十二歳ほどの幼さだろうか。
松明の炎に照らし出されたその顔立ちは、あまりにも整い、あまりに清冽であった。
職務に私情を挟まぬはずの男たちが、無意識に呼吸を詰め、その造形に圧倒されている。
(危ないな)
咄嗟にそう思ったコンラートが抱いたのは、統治者としての本能的な危機感だった。
「仕事に戻れ!」
短い一喝。
弾かれたように隊員たちが動き出し、慌てて他の子供たちの移送作業に戻っていった。
コンラートは一人残された少女を見下ろした。
憐れみがなかったかと言えば嘘になるが、それ以上に強く感じたのは、この圧倒的な美貌への懸念だった。
あと数年もすれば少女自身に、そして周囲に、破滅をもたらすには充分に思えた。
ここで救い出したところで、後ろ盾のない身分では遅かれ早かれ、同じことの繰り返しになるのは目に見えている。
───ならば、いっそ。
若さゆえの驕りか、それとも過信か。
蜘蛛の糸に捕らえられた美しい蝶を、虫籠で生かしてやる程度にしか考えていなかった。
膝を突き、視線を合わせる。
「逃げたいか?」
尋ねると、少女はその薄氷色の瞳に怯えを滲ませながらも、小さく、しかし明確に頷いた。
「ならば、その顔。隠して生きていけるな?」
コンラートは無造作に、自身の口元を覆っていた防塵ストールを引き抜くと、少女の頭にぱさりと落とした。
後日、コンラートは極秘裏に準備を整え、国境沿いにあるフェリテ公国の修道院に向かうよう手配した。
私財から捻出した金と、修道院長宛ての紹介状。
そして、少女宛てに一通の小さな封筒───それらを最も信頼できる腹心の部下に託し、少女を送らせた。
手紙には、ノルズランドに古くから伝わる叙事詩の一節を記した。
現代ではほとんど使われることのない、古来から伝わる古語。
祈りを込めたつもりだった。
少女の未来のためか、あるいは自身の行いの正当性を願うためか、今となってはもうわからない。
最初の数年は定期的に届いていた報告も、四年が過ぎる頃には、平穏を知らせる単なる事務作業のひとつに成り下がっていた。
だが、火急の事態が重なり、一度だけ訪れた市街地で、彼女が姿をくらませたと報告を受けたのはいつだったか。
逃げたか、あるいは攫われたか。深追いしリスクを冒すほどの感情も責任も、当時の私には持てなかった。
思い出すたび、自身の傲慢な正義感に反吐が出そうになる。
少女の名は、マリカといった。
※※※
貴賓室の重厚な革張りの椅子に深く座り直したランカスター公爵は、豪奢な天井を見上げながら長い息を吐いた。
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