蒼眼の雫──すべてを青に染めて
静寂を切り裂く地鳴りのような咆哮と、鼻を突く火薬の匂い。
「……来たか」
ルカ・ガレリアは、静かに窓の外を見つめた。
離れの入り口には、人手不足で駆り出されただけのハンスが立っている。
彼は、ルカを王子として敬うわけではなかったが、ここ数ヶ月、風変わりで愉快な話し相手であった。特に、彼が語るカイルの逸話がひどく滑稽で、ルカはハンスの前で『無能の仮面』を被ることをすっかり失念していたのだった。
椅子から立ち上がったルカは、窓際にあったサリナールブルーの陶器を手に取ると、慣れた手つきで窓枠を外した。そこから庭に下り、ハンスの背後から音もなく歩み寄る。
「ハンス」
「どわっ!で、殿下……!? 勝手に出てきたら危ないってば……!今あっちで、大きな音が……」
狼狽するハンスに、ルカが手を差し出す。
「これを持っていきなよ」
ルカは有無を言わさぬ手つきで、ハンスの掌に銀の装飾脚がついた重みのある陶器を押し付けた。
独自の面取り、蓋にまで及ぶ深く透き通るような青。
かつてアーサーの母、ベアトリスが、ルカの乳母を務めていた頃に置いていった、塩を入れるためだけの陶器。
「え、あ、あんた……何を……。これは確かあんたの大切な人の……!」
ハンスは慌てて着ていた上着の裾をまくり上げ、その大切な「青」を包み込むようにして胸に抱き寄せた。 むき出しのままでは、戦火の中ではあまりに目立ちすぎる。
「君なら、大切にしてくれるだろう? ……それより、ハンス。王宮の北側の塀に、崩れかけた古い通用門がある。カイルもよく使っていた。そこを通れ」
ルカはハンスの背を、穏やかな、しかし拒絶を許さない力で押した。
「反乱軍の末端にまで、サリナールの息吹が浸透しているかは賭けなんだけど……さあ。行って。君まで道連れにするつもりはないんだ。これは……命令だよ」
ルカは自身が生まれて初めて命令という言葉を発したことに苦笑した。
(……アーサーであってくれたら、話が早いんだが)
胸元でずっしりと重い陶器の感触を確かめながら、ハンスがルカを見つめる。
「で、殿下も一緒に……」
「それは出来ないよ。僕は、この国の王子だからね」
ハンスの言葉を遮るように、ルカが口を開いた。
「……いつかカイルに会うことがあったら……いや、なんでもないな。……ハンス。急げ」
後ろ髪を引かれるように、ハンスが暗がりに消える。ルカはその背中を見届けると、再び離れの中に戻った。
「カイルの友人だと思うと、調子狂うな……」
頼りなく響く小さな声が、闇に溶けていく。
ルカは震える「無能な王子」の仮面を、今一度深く被り直した。
※※※
朝日が王宮の尖塔をなぞり、夜の帳を強引に引き剥がしていく。
その黎明の光を切り裂くように、重厚な破壊音が響き渡った。
「放て!」
ノルズランド軍、軍務卿クラウスの冷徹な号令。
巨大な破城槌が正門を粉砕し、白銀の甲冑が朝日にぎらりと輝く。凍てつく嵐のようなノルズランドの精鋭たちが、ガレリア王宮へと雪崩れ込んだ。
「ノルズランドだ! 敵襲!迎え撃て、一歩も引くな!」
守衛たちが槍を揃え、盾を組み、死に物狂いの応戦を見せる。
ガレリアの誇る武の意地。そのぶつかり合いは熾烈を極め、王宮前は鉄と血の匂いに包まれた。
だが、防衛線が最も硬く結ばれたその瞬間、異変は内側から起きた。
「……がっ!? き、貴様……何を……っ!」
絶叫が上がった。
最前線で槍を振るっていた近衛兵の一人が、背中から深々と貫かれたのだ。振り返るとそこには、味方であるはずのガレリアの赤い鎧。
「裏切りだ! 内部反乱だッ!」
混乱は瞬く間に伝播した。昨日まで共に王への忠誠を誓い合っていたはずの男たちが、無言のまま隣接する仲間に刃を突き立てていく。
混乱し、疑心暗鬼に陥るガレリア兵たち。その中で、背信の刃を振るった者たちは、まるで儀式のように一斉にその腕に青い布を巻き付けた。
「──今だ。我らの『青』を掲げろ」
戦火を割り、静かに、しかし絶対的な存在感を放つ声。
アーサー・ベルマンが、王宮を見下ろす高台から悠然と姿を現した。
旧サリナールの難民、不当に虐げられてきた下層民。そして、力こそが全てというヴァルハルトの暴政に絶望し、静かに牙を研ぎ続けてきた虐げられし者の意志。
「……奪われたものを取り返す」
アーサーの背後には、青い布を纏った無数の影。
外からの圧倒的な白銀と、内側から噴き出した積年の青。
逃げ場を失ったガレリアの黄金時代は、朝日の中で見る影もなく崩壊していった。
※※※
王宮を望む本陣。戦況を凝視していたアーサー・ベルマンの元へ、一人の伝令が困惑した面持ちで駆け寄った。
「報告! 北門付近で不審なガレリア兵を拘束。武器は持たず、これを……」
差し出されたのは、土埃に汚れながらも鮮烈な色彩を失わない、サリナールブルーの陶器だった。
「……ッ」
アーサーはその器を一瞥し、弾けるように手に取った。指先に伝わる面取りの感触。
「ああっ! 返せ! それに触るな!」
後方で兵士たちに連れられてきた男──ハンスが叫んでいる。
「指の脂がつくだろうが! それがどれだけ貴重か…… 旧サリナール時代の、希少な釉薬だぞ! 」
アーサーは何も言わず、陶器の蓋を静かに開けた。そこにはかつて母が満たした塩の代わりに、一枚の小さく折りたたまれた紙片が収まっている。
『見極める目を持つ男、ハンス』
カイルを通して見慣れた筆跡。アーサーの脳裏を数年前の記憶がよぎった。
完璧だったはずの塩の密輸。木箱の僅かな歪みを『贋作』だと言い放ち、カイルを介してルカ・ガレリアとアーサーを引き合わせた、始まりの男。
アーサーは兵士を制し、ハンスの近くへ歩み寄る。ハンスは組み伏せられながらも、アーサーの手元にある陶器だけを血走った目で見つめていた。
アーサーはフッと口角を緩めると、蓋を閉め、その陶器をハンスの腕の中に返した。
「あ……?」
ハンスは呆然としながらも、慌ててそれを抱え込み、汚れを拭おうと必死に袖で擦る。
「……サリナール第三十四代王朝時代、技巧の陶工カレルの手によって焼かれた『蒼眼の雫』だ」
アーサーの言葉に、ハンスが目を丸くした。
「あ、あんた……すげえな。カレルは夭折して、当時から作品も数点しか残ってなかったんだぜ?」
「……我が家に伝わる、家宝の一つだったからな」
「『蒼き塩の守護者』ベルマン家……」
「母上が失くしたと……、おかしいと思ってはいたが……殿下の元へ残していたのだな……」
アーサーは今一度、母ベアトリスの意思に想いを馳せる。
亡国の苦しみの中でも、この小さな器に一族の誇りとサリナールの青を託し、それを幼いルカの「護符」として持たせた母の、静かな、けれど激しい祈りを。
ハンスが震える手で、アーサーに陶器を差し出す。
「これは、あんたが持っていた方がいい」
「しかし──」
「この器は、きっとそう望んでる。あんたの手に戻るのを待ってたんだ。それに、殿下も……」
ハンスの真剣な眼差しに、アーサーがふっと笑った。
「……感謝する。では、君にはこれを」
傍らに控えていた兵へ短く顎で示すと、兵は即座に予備の「青い布」を捧げ持った。アーサーはそれを受け取り、ハンスの細い腕に力強く括り付ける。
「どうか安全な場所へ。それがあれば、我らの兵は誰も君を傷つけない」
ハンスは呆然と、自分の腕に巻かれた鮮烈な青を見つめて「あ……で、殿下を……!」とアーサーの顔を見上げる。
アーサーはそのまま翻り、王宮の深奥、離れのある方角を見据えた。
「我らが……我らが必ず殿下をお守りする」




