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「あなたの手は取らない」と突き放したあの夜這いから十年、女王となった私に執着騎士と無能王子が膝を折るまで  作者: 中田かすり
十年がかりの献身──君の隣で笑って生きていく

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死線の使者と前公爵──報いに応えるべく進め






深夜の城内。執務室からもほど近い、厚い石壁に囲まれた特別客室に重い足音が響く。

扉の前、警備兵二名が敏速に道を開けると、コンラート・ランカスターは暖かな空気の漂う室内へと足を踏み入れた。


寝台の上で横たわる男は、泥と血を洗い流され、真っ白なシーツに身を預けてなお、死の淵を歩んできた凄絶な気配を纏っている。


傍らに控える軍医が、近づくコンラートへ声を潜めて告げた。



「……深刻な状態です。左脚の凍傷は骨まで達し、内臓の衰弱も極限……。予断を許しません」



コンラートは無言で頷き、その視線を男の顔よりも先に、枕元に置かれた二つの品へと向けた。


革紐に繋がれた、サリナール・ブルーの結晶。

そして、無数の折り皺が刻まれた羊皮紙。


コンラートは吸い寄せられるように、その羊皮紙を手に取った。


記された『サリュート聖母修道院』という古語の筆致。それが何を意味するのか、この老残の身を置いて他に知る者はいない。



十年前、開戦直前の不毛な交渉期間の中で、自らが複数の書簡に散りばめた暗号の一部。



(……正しく、読み解いている。第二王子殿下。……そして、この男は……)



「……っ……」



不意に、寝台の上の男──カイルが、肺の底から絞り出すような音を立てて瞳をゆっくりと開いた。


視界は定まっていない。だが、目の前に立つ人物の輪郭を捉えようと、血走った眼球が激しく動く。



「……目を、覚まされましたかな。……騎士殿」



コンラートの静かな問いに、カイルは身を起こそうとして、激痛に顔を歪めた。もはや自力で上半身を支える筋力すら残っていない。



「……動かない方がいい。軍医からは、今死んでもおかしくないと言われている」



「……ランカスター……閣下……」



掠れた、砂を噛むような声だった。

カイルは震える指先で、コンラートが持つ羊皮紙を指そうとしたが、その手はシーツの上を力なく滑った。



「……十年前、第二王子殿下が我が国を訪問された際、お会いしていますな。……主君の傍らで、一刻も休まず周囲を警戒していた、あの青年騎士だ」



「……はい……カイルと、申します」



「我が国の古語を読み解き、主君のため、その身を顧みず地獄を越えてきた使者、カイル殿よ。……今暫く、意識を繋ぎ止めていただけるか。……貴殿の運んできた筋書きと、ここまでの……十年の、答え合わせをいたしましょう」



カイルは、白濁し始めた瞳を懸命にコンラートへ向けた。



「……無論、です……。そのために、……参りました」



カイルは途切れ途切れに、だが、明確な意志を持って言葉を紡ぎ始める。

テオを通してアーサーと約した、ひと月後の決行日。ノルズランドにはどうしても、その日に合わせてガレリア国内へ進軍してもらう必要があった。

そして──何よりも伝えねばならない、主君ルカの真意について。



「……あの方は……手を、貸して、こられた……。ガレリアを……内から、壊すために……」



「……やはり、そうですか」



「……ですが、……逃げる、つもりは……ない。……王家と共に……滅びるつもり……。……どうか、……あの方を、……っ……」



一気に言葉を絞り出したカイルの喉から、ヒュッ、と不気味な音が漏れた。


必要な情報のすべて。ルカが十年かけて積み上げた綻びと、その最期に自らも殉じることを静かに受容しているという事実。

それをコンラートの脳裏に刻みつけた瞬間に、カイルを支えていた最後の一本の糸が切れた。



「……カイル殿?」



返事はない。

握りしめていたシーツから指先が離れ、カイルは深い、死のような昏睡へと沈んでいった。



「応援を呼びます。すぐに医局の処置室へ……」



慌ただしく部屋を辞した軍医の足音が遠ざかる。



夜半。ノルズランドの冷たい風が窓を叩いていた。


静寂が戻った特別客室で、コンラートの指先が、手元の羊皮紙を、もう一度確かめるようになぞった。




『サリュート聖母修道院』




三十年前、他ならぬコンラートが、マリカを送り届けた場所。

あの人外の美しさが災いをもたらさぬよう、世間から遠ざけた。それが彼女を救う、唯一の方法だと信じていた。


だが、現実はどうだ。


マリカがガレリアに略取され、その果てに生まれたルカ。彼もまた、母と同じく、あまりに危うい美貌を宿した。


カイルが半死半生の身で、途切れ途切れに紡いだ言葉。それを一つずつ繋ぎ合わせるだけで、ルカが歩んできた壮絶な半生を察するに余りある。


母の言いつけを守り、顔を隠し、あるいは無能を装うことで、自分に向けられる醜悪な欲から必死に逃げ続けてきた。

誰の手も届かぬ場所で、ただ独り、自分という存在を殺し続けてきた。


神は、彼らに何を背負わせようとしたのか。

マリカ、そしてルカも。

彼らは一度でもひととして扱われただろうか。

ただ美しく生まれた。

ただ、それだけのことだというのに。



「……いや。……耐え難き業を背負わせてしまったのは私、か……」



コンラートがマリカの頭にストールを落としたその瞬間から、すべては始まっていたのだ。


無知な少女に与えた救いが、巡り巡ってルカを追い詰め、空虚な獣道を歩かせることになった。


今、ルカは彼自身と共にガレリアを葬ろうとしている。その静かで頑なな受容こそが、皮肉にもこのノルズランドを救う、最大の要因となっていたのだ。



「……報いに、応えねばなるまい」



彼にだけは、ルカ・ガレリアにだけは、幕を引かせてはならない。


コンラートは、昏睡したカイルに一度だけ視線を落とし、翻って執務室へと歩き出した。


空が白み始めた頃、女王リーゼロッテ並びに宰相アルベルトによって、ガレリア国内への進軍が決定した。


ひと月後に迫る決行日、王宮へと続く旧道の詳細、そして同日、ガレリア国内で計画されている反乱軍の蜂起。それら全ての情報が議会及び軍上層部へと叩きつけられた。


夜明けと共に、北部の戦地を統べる軍務卿クラウス・ランカスターに向けて伝令の犬ぞりが放たれた。


議会室の玉座には女王リーゼロッテ。

傍らには、名実ともに筆頭公爵家であるランカスター家当主、アルベルト・ランカスター宰相。


そして、女王の斜め後ろ。影のように控える椅子には、既に退いたはずの前宰相コンラート・ランカスターが佇んでいた。


若き日から先王時代のすべてを差配し、冷徹なまでの手腕でこの国を導いた、その全盛期を彷彿とさせる鋭い眼光を携えて。










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