少年が託した蒼晶─思い通りに死ねると思うな
雪はすべてを奪う。
音も、色も、そして人の正気さえも。
ノルズランド北西、峻険な岩壁にへばりつくように拓かれたかつての「塩の道」。
五十年前、サリナール王国が地図から消えたと共に歴史の闇に埋もれたはずのその旧街道を、一人の男が這い進んでいた。
カイルの意識は、すでに自分の肉体を離れ、上空から惨めな肉塊を見下ろしているような錯覚に陥っている。
一歩、膝を突き、雪を噛む。
喉が焼けるように乾き、内臓が凍りつく。
「……まだだ」
裂けた唇から漏れたのは、祈りではなく執念だった。動かなくなった指先を震わせ、凍てついた胸元を探る。
厚い外套の内側、心臓の鼓動を直接受けていたその場所に、テオの手で渡された「それ」があった。
指先に触れる、硬質な感触。
カイルは残された力を振り絞り、革紐に繋がれた塩の結晶を引っ張り出した。
透明な立方体。その上下を、サリナール・ブルーと呼ばれる深い海の色を写した陶器玉が挟み込んでいる。
カイルは前歯で結晶の角をわずかに削り、その破片を舌の上に乗せた。
(……苦いほどに、濃い)
爆発的な塩分が、死に体だったカイルの脳を強引に覚醒させる。
フェリテ公国、サリュート聖母修道院。
そこで待っていたテオを見て、カイルはわずかに眉を寄せた。工房で見かけていた頃は、アーサーの影に隠れる大人しい息子だと思っていた。だが、目の前の少年は、すぐにノルズランドへ向かいたいというカイルに対して、迷いのない手つきで首飾りを差し出してきた。
『どうしてもその道(塩の道)を使うというなら、これを持って行ってください。我が家に代々伝わるものです。……サリナールの民なら、必ず……』
それは、ガレリアに国を奪われてから五十年、ベルマンがベルマンであるために、命懸けで隠し通し、受け継いできた当主の証だった。
父の背中を静かに見つめていた少年が、今、自らの采配でその一族の証をカイルへと差し出している。
テオの瞳に宿る、確かな覚悟。
機が満ちたのだ。
彼らが五十年もの間、虎視眈々と待っていた機が。
カイルはその小さな結晶の重さを、ぶるりと一度身震いしたのち首にかけた。
感覚の消えた足を、無理やり雪に叩きつける。
視界が再び白く濁り始めた。カイルは、もう一度結晶を強く噛み砕く。
強烈な塩の刺激が、不意に、何度も通ったアーサーの工房を包んでいた独特の香気と重なる。すべてを見透かしながらもどこか穏やかな、アーサーの眼差しが浮かんだ。
それは、ルカを逃すため、二人で練り上げた命懸けの筋書きだった。
火葬場の遺体を運び込み、工房を焼き、ベルマン一家は全滅したと思わせる。ガレリアの監視を潜り抜け、主君を安全なフェリテへ運ぶ手筈だった。
(……それを、あの野郎、台無しにしやがって)
ついに膝が折れる。
左の足先は恐らく、もう使い物になるまい。
雪の中に顔が埋まる。
最後の一欠片を飲み込んだ瞬間、脳裏に最も忌々しく、最も鮮烈な光景が弾けた。
あの日、船から突き飛ばされた衝撃。
『世界を見たいんだろう?』
遠ざかる岸壁で見えなくなった主君は、これまでのどの瞬間より、美しく笑った。
「……舐められたもんだな」
絶望ではない。憐れみでもない。
煮えくり返るような怒りが、凍りついた心臓を無理やり動かす。
「思い通りに、死なせてなんかやるもんかよ……!」
怒りだけで指を雪に突き立てた時、前方で松明の火が揺れた。
カイルは最後の力を振り絞り、月の光に「蒼き結晶」を掲げる。
暗闇に、鮮やかなサリナール・ブルーが透け、槍を構えた男たちが息を呑む気配のあと、カイルの意識はふつりと途絶えた。
その数刻後、ノルズランド城を包んでいた静寂を切り裂いて、伝令がリーゼロッテとアルバートのいる執務室へと駆け込む。
関所の役人から届けられた報告書には、サリナールの一族が『使者殿が到着した』と口を揃えていること、そして所持品の蒼き結晶と、古語でフェリテ公国にある修道院を記した羊皮紙の詳細が綴られていた。
「陛下……」
アルバートがリーゼロッテと顔を合わせる。
「……コンラートを呼んで。……ゆっくりさせてあげられなくて、申し訳ないわね」
「いえ。父も……本望かと」
女王と宰相の裁可により、事態は遭難者の保護から国家最優先の機密収容へと切り替わった。
カイルの身柄は軍部の目を盗むようにして城内へ運び込まれ、女王直轄の管理下にある一室へと隔離される。
アルバートは、泥と血に汚れたまま眠り続ける男の枕元に、彼が握りしめていた結晶の首飾りと羊皮紙を静かに置いた。
吹き荒れる雪の中、ついにノルズランドとガレリアを繋ぐ鍵が、女王の城へと届けられた。




