予期せぬ援軍──白き獣の咆哮、青い釉薬を押しやって
「……あと三日もすれば、食いもんが底をついちまう」
焚き火の端で、一人のノルズランド兵が凍えた指を丸めながら呟いた。
国境の断崖にそびえるこの砦へと続く補給路は、三か月前の雪崩とガレリアの執拗な工作によって完全に断たれている。
ノルズランド最南端の砦は、白銀の海に浮かぶ、逃げ場のない孤島と化していた。
「なあ、ランカスター。あんたの惚れた女王は、俺たちを使い潰すつもりらしいぜ」
新兵時代、共に辛酸を舐めてきた同期の男が、空になったスープの器を投げ捨て、持ち場に戻る。
軍の再編に伴い今やクラウスの副官の立場にいる男の言葉には遠慮がない。
補給の代わりに届くのは『一歩も退くな。民を守れ』という厳命のみ。
「冷酷な女王」
王都からの救援の兆しはなく、吹雪よりも冷たい絶望が、防壁を打つ雪とともに兵たちの心を凍らせていた。
「……閣下、南壁にまた奴らが取り付きました! 背に火薬を括り付けて……!」
悲鳴のような報告が響く。
眼下では、ガレリア軍が捨て身の戦術を繰り広げていた。
重い火薬を背負わされた歩兵たちが、断崖を這い上がる。その後方では、味方を射抜くためだけに構えられた督戦隊の銃口が並んでいた。
「……あれが軍隊だと?……狂ってやがる」
砦の壁に指がかかった瞬間、後方の督戦隊が冷酷に引き金を引く。背負わされた火薬を撃ち抜かれた兵士は、断末魔を上げる暇もなく、生身の爆弾となって防壁を削り取っていく。
自軍の兵を「弾丸」として消費し、その骸を足場に次の一陣を送り込む。その光景は、戦いと呼ぶにはあまりに醜悪だった。
だがその時、絶壁の向こうから、あり得ない速度で白銀を蹴立てる影が現れた。
「な、なんだ、あの生き物は……!?」
ガレリアの陣営から動揺した叫びが上がる。
絶壁の向こう、吹き荒れる白銀を真っ向から引き裂いて現れたのは、二つの巨大な白影だった。
かつて渓谷の細道を軍用犬たちを従えて踏破したあの守護獣──「雪塊」が、今度は二頭のみでこの死地へと舞い戻ったのだ。
彼らが強靭な体躯に物資を直に括り付けたその姿は、補給部隊というよりは、獲物を狙う精悍な捕食者のそれだった。
ガレリア兵が放つ矢や火薬の礫を、雪塊の番は重力を嘲笑うような俊敏さで紙一重に避けていく。
一歩も止まることなく、垂直に近い砦の壁を爪で掴み、弾丸のような速さで駆け上がると、息一つ乱さずクラウスの目前へと着地した。
「……嘘だろ。補給のために……二頭揃って、ここまで?」
副官が、信じられないものを見る目で絶句する。
その沈黙こそが、この援軍が単なる物資の到着ではなく、女王リーゼロッテが己の半身を削ってこの砦へ差し向けたという、何よりの証だった。
着地した雪塊の雄が、真っ直ぐにクラウスを見据えた。その荒い吐息は白く、だが王者の威厳を失っていない。
クラウスが一歩踏み出し、巨躯の胸元へと手を伸ばす。
そこには物資を固定する革帯とは別に、王都の封印が施された頑丈な銀の筒が、毛並みに埋もれるようにしてしっかりと固定されていた。
凍てついた指先で筒を外し、中の書面を取り出す。
そこには見紛うはずもない、リーゼロッテの凛とした筆致。そして軍務卿への拝命を記した公式の印章が現れた。
「……終わらせるぞ」
短く、だが地を這うような低い声が響く。
クラウスは黙したまま、その書簡を胸当ての裏、心臓に最も近い場所へ叩き込んだ。
二頭の巨犬が示し合わせたようにクラウスの両隣に並び立ち、天を突くような咆哮を上げた。
「総員、武器を取れ!」
左右に従えた守護者とともに、クラウスは防壁の端へと踏み出した。
「よく見ろ、奴らの手元を! 刃は欠け、槍は錆びついている。まともに手入れもできぬ素人ばかりだ。我らには『奇跡』が届いた。だが、奴らにはもう、自軍の背中を撃つ弾丸以外、何も残っていない!」
クラウスは自ら弓を手に取り、殺気を凝らして引き絞った。
「怯えるな! 奴らが民を火薬に変えるなら、我々はそれを防ぐ楯となれ。我々の女王は、我々を見捨ててなどいない。雪塊が、その証だ!」
号令とともに、二頭の巨犬が防壁から白銀の斜面を滑り降り、弾丸のような速さで敵陣へ突っ込んだ。
彼らが真っ先に狙うのは、安全な後方から自軍の背を撃ち抜いて起爆させている督戦隊だ。
狂ったように喚き、自国民を薪にくべる指揮官の喉笛を、雪を纏った牙が次々と食いちぎっていく。
「放て!」
クラウスが放った一矢が、逃げ惑うガレリア副官の胸を正確に貫いた。
後ろから自分たちを撃っていた上官が、白銀の獣と戦鬼の矢によって消されていく。それを目の当たりにした最前線のガレリア兵たちは、震える手から錆びた槍を落とした。
指揮を執る者を失い、恐怖の鎖が解けたガレリア軍は、もはや軍隊の体をなしていなかった。
※※※
「全滅だと……? 」
ガレリア本宮の政務室に、ヴァルハルトの狂ったような咆哮が響き渡る。
床には、報告書を届けた伝令が震えながら伏していた。王の足元には、叩きつけられた銀の装飾品が無惨に歪んで転がっている。
「言い訳は聞き飽きた! どいつもこいつも能無し共めが!」
王が聞きたいのは勝利の報告のみだった。
三か月前、ノルズランドの補給路を断った時、彼は勝利を確信していた。だが、届くのは減り続ける自軍の数ばかり。
王の怒りは、もはや軍事的な理性を失い、政務室を破壊し尽くした。
その狂気は冷え切った廊下を伝い、王宮の最果てにある古びた離れをも震わせる。
王の咆哮が遠のくにつれ、城内を支配するのは重苦しい沈黙だけとなった。
「……相変わらず、賑やかなことで」
窓を叩く怒号を遠くに聞きながら、ルカがそっと本を閉じた。
ふと視線をやった窓の外、厩舎の裏手で男が蹲っている。
(見ない顔だな)
最近は王宮の顔ぶれが激しく入れ替わる。
(それにしても、何をして……)
ルカの視線に気が付いたかのように突然顔を上げた男が、目を見開く。
「……あ、あ、あ……まさか……」
窓の外で、泥だらけの男が震えていた。
掃除も監視も放り出して、泥のついた手で窓枠を掴み、身を乗り出してくる。
ルカが咄嗟に身を隠そうとしたその時。
窓際に置いていた陶器を指さしてその男が叫んだ。
「あんた!それ!その容器!旧サリナールの釉薬だろうが!このブルー、独自の面取り、どこで手に入れた!?本物か!?触らせろ、いや、光に透かさせろ!」
止まらない。 溢れ出す知識。唾飛ばんばかりの熱量。確かにそれは、かつて乳母をしていたベアトリスの置き土産ではあったが……ルカはその異様な気迫に、思わず椅子ごと後ずさった。
……既視感しかない。
ルカは、引いた顔のまま、こめかみを押さえて呟いた。
「……お前、ハンスだろ」
「な、なぜ俺の名を……! っは!まさか俺の手掛けた東方の再現陶器が、こんな王宮の片隅にまで轟いて──」
「もういい。それ以上喋るな」
ルカは手のひらを向けて、男の言葉を遮った。
ああ、こいつだ。間違いない。
カイルが「古本屋の隅で釉薬の解読書を読みながらボロボロ泣いてた」と言っていた、あのハンスだ。
「……カイルが、言っていたんだ」
「カイル! あいつ、今どこにいるんだ! 最近ちっとも顔を見せねえじゃねえか、元気なのか?」
泥だらけの手を振り回すハンスに、ルカは深く、深く溜息をついた。
海を渡らせた親友が、残していった縁が、これか。
カイル、君はどこまで僕を疲れさせれば気が済むんだ。
ルカは呆れ果てながらも、窓際に置いた青い器を、ほんの少しだけハンスの方へ押しやった。
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