遠ざかる船影──君がいるべき、光の方へ
頬の熱は、とうに引いていた。
薄暗い離れ。母、マリカの部屋だった床に寝そべり、窓から冬の月を眺める。
ヴァルハルトから投げ付けられた通知を思い出す。
ルカの身柄の引き渡し。
かつて、母を救ったあの狸公爵の仕業だろうか。
母だけでなく、その子、ルカまで拾い上げるつもりか。
──だが、何のために。
ルカは生まれてから今まで、自身がこの世に存在する意味など見出したことはない。
父に掠奪された母。
その心を死ぬまで繋ぎ止めていたのは、公爵の残したあの一節だけだった。
『永久の雪に閉ざされようとも、光は死なず』
「オレは光なんかじゃない」
ルカの小さな声が、月明かりの中に落ちた。
かつては顔を隠せと言われ、その通りにした。
顔を晒した後も、自ら「無能」という仮面を被り続けた。
ルカはなぜここに存在しているのか、いや、存在していいのかすらわからない。
ルカ自身が、この国が積み上げた汚辱の結晶だというのに。
(……ノルズランド。母様の祖国。……本当はゆっくり過ごしてみたかったな……)
ルカは、ガレリアを完全に終わらせるため、最後までここに居座り、奴らの足首を掴み続けるつもりだった。
父である王も、兄も、この腐り果てた国も。
自分という呪いを抱かせたまま、沈める。
自分諸共この国を完全に消し去るまで、この腕を離すつもりはない。
(オレも、この国も、一緒に消えればいい。……だが)
道連れに、この命が必要なら、喜んで差し出すけれど。
ただ、一つ。心残りがあるとすれば。
(……カイル。あいつはオレと同じじゃない)
ルカをルカとして唯一見てくれる、柔和な目元の友人。
難解な本ばかり好み、口が悪く、それでいて案外涙脆い。
伝えたことはないけれど、彼こそがただ一人の友人であり、兄であった。
彼だけは、この沈みゆく泥舟から放り出さなきゃいけない。
冷えた床に頬を押し当て、ゆっくりと目を閉じる。
遠くで、蹄の音が聞こえた気がした。
──統制された、暴力的な響き。
十、二十……。
(……多いな。まさか、もう工房へ……)
ルカが薄く目を開けたのと同時だった。
格子の嵌まった窓の向こう、夜の帳を不自然な橙色が染め上げる。
「……あの方角は……」
扉が跳ね飛ぶ衝撃音が打ち砕いた。
「──殿下! 逃げるぞ!」
闇を裂いて飛び込んできたのは、肩で息をするカイルだった。
なりふり構わずルカの腕を掴み、強引に引き立たせる。
「カイル、アーサーが……! あの火は……」
「いいから走れ!」
カイルが叫び、ルカの肩を抱いて裏庭へ駆け出した。
待機させていた一頭の馬に、ルカを放り上げ、自身も背後に飛び乗る。
「しっかり掴まっていろ!」
腹を蹴られた馬が、夜の静寂を切り裂いて疾走を始める。
背後で、爆発音が響いた。
※※※
港には、埃にまみれた作業員の格好に扮したルカとカイルの姿があった。
今ごろ王宮では、行方のわからなくなった第二王子についての報告が、ヴァルハルトの元へ届けられている頃だろう。
だが、混乱の最中、誰もこの煤けた作業員がその王子だとは気づかない。
「殿下、行くぞ」
先に船に飛び乗ったカイルが、こちらへ向かって力強く手を伸ばす。
つい先ほどまで周囲を射抜くようだった鋭い眼差しは、今はもう、いつもの穏やかなそれに立ち戻っていた。
その手さえ掴めば、すべてが終わる。
地獄のようなガレリアも、欺瞞に満ちた無能の演目も、すべてを過去にできると確信した瞳。
船は真っ直ぐ、フェリテ公国を目指す。
カイルが、ルカの伸ばした指先を掴もうとした、その瞬間。
カイルの胸に、容赦のない衝撃が走った。
全力で突き飛ばされ、彼は甲板に尻もちをつく。
かつて、厩舎で初めて出会った十歳のルカが、自身の孤独という聖域を守るためにそうしたように。
その掌は、救いを求めるためのものではなく、他者を拒絶し、遠ざけるためにこそ、これ以上ないほど冷徹に振るわれた。
船は、その拒絶の重さに急かされるように、岸壁を離れ始める。
ルカが深く被っていた帽子を脱ぐと、月光の下、人外と謳われたその美貌が露わになった。
「君は世界を見たいんだろ?」
カイルがかつて、唯一の共犯者として語った夢を、ルカが静かに口にする。
飛び起きたカイルが、引き裂かれるような声で叫んだ。
「殿下! おい! 何してんだあんた!」
カイルの必死な声が、潮騒に混じって響く。
「おい! あんたはどうするんだよ! おい!」
ルカの声は、もうカイルには届かない。
背後からは、逃走を察知した兵たちが、抜剣の音を響かせてルカを包囲し始めていた。
カイルは船縁から身を乗り出し、視界から消えていく主君へ向かって叫び続ける。
「やめろ! ……殿下! おい、嘘だろ……これじゃ、何の意味もないじゃないか!」
最後に振り絞った叫びは、夜の海へと吸い込まれていった。
立ち尽くすルカを発見した兵たちは、侮蔑と安堵の混じった声で告げる。
「第二王子殿下、即刻王宮へお戻りください。ヴァルハルト陛下がお待ちです」
ルカは何も答えず、ただ遠ざかる海を見つめていた。 船の影は闇に溶け、完全に見えなくなっていた。
※※※
ヴァルハルトの前に突き出された途端、ルカの膝が折れた。
彼は床に額を擦り付け、子供のように肩を震わせながら、あろうことか「密告」を始めたのだ。
「……ずっと、あの男から言い寄られていたんです。一緒に暮らそうって……。愛してるって……。なのに、なのに……っ! ボクの全財産を持ったまま、あの男は一人で船に……!」
震える声と、身悶えするような醜態。
ヴァルハルトの眉が不快に跳ね上がり、床に激しく唾を吐き捨てた。
「……気色の悪い……!」
周囲を取り囲む兵士たちも、顔を見合わせて困惑に包まれる。 勇猛な騎士が、戦時下にまさか主君とそんな関係にあり、挙句に金を奪って逃げたなどという痴態……。あまりに低俗な話に、その場の空気は一気に冷え切った。
「……お前。……『ベルマン商会』を知っているな?」
冷徹な追求に対し、ルカは涙に濡れた顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべた。
「……ベル、マン……? もしかして、カイルがボクにお菓子を買ってくれてたとこかな? また食べたいなあ。あはは、あのお菓子、美味しかったんだ」
「っち……!」
舌打ちをしたヴァルハルトの元へ、兵が駆け寄る。
ベルマン商会の工房が全焼し、証拠はすべて灰になったこと。そして焼け跡から、会長一家と思われる数躯の遺体が発見されたこと。
「裏切り者は、死をもって清算したか……。身の程知らずどもめ」
ルカの喉の奥で、ひゅっと乾いた音が鳴った。
「動ける奴は、一人残らず戦地に叩き込め。剣を握れぬなら、死体になっても壁になれ。……ガレリアのすべてを注ぎ込み、あの雪国を叩き潰す」
ヴァルハルトは、足元で蹲るルカには目もくれず、周囲の兵たちに顎で示した。
「それを連れて行け。監視を増やせ。二度と、俺の視界を汚させるな」
そして振り返ることなく、ヴァルハルトは王の政務室へと歩みを早めた。
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