白銀の侵食──誰がために、鬼となるのか
「……重い……寒い……痛い……」
ガレリア兵の青年は、荒い息を吐きながら自分の腕を見下ろした。
大陸随一の洗練を誇るはずの防寒軍装。だが、行軍の汗と雪解け水を吸い込んだそれは、今や水を絞ることもできぬほど凍りつき、鉛の重石と化して彼の肩におし乗っていた。
一歩、足を上げるたびに、底なしの雪が体力を根こそぎ奪っていく。精鋭と謳われた同僚たちも、今はただ重くなった四肢を引きずり、死人のような足取りで雪原を這い進むことしかできなかった。
ようやく辿り着いた補給拠点の灯火に、部隊の誰もが安堵の息を漏らした、その時だ。
背後にそびえる垂直の雪壁。その頂で、小さな火花が散った。 直後、凄まじい爆発音が鼓膜を突き破り、冬の静寂を粉砕する。
もたらされた数秒の空白。次の瞬間、地を揺らす轟音と共に、目前の視界を覆っていたはずの壁が、意志を持ったように動き出した。
「雪崩だァァァッ!!」
逃げ場のない谷底へ、火薬の黒煙を伴って、白い塊がなだれ込む。
拠点は瞬時に圧殺され、仲間の叫びは地響きにかき消された。
爆発の黒煙と、雪崩の白煙。
視界を閉ざす混沌の中、青年は咳き込みながら必死に銃へ手を伸ばした。だが、引き金は凍りついたようにびくともしない。
「なっ……!う、動かない……!」
刹那、煙の向こう側から、氷を削り取る硬質な音が迫る。
雪崩によって剥き出しになった垂直の氷壁。そこへ鉄爪を突き立て、摩擦の火花を撒き散らしながら、重力そのものとなって滑走してくる白い一団が煙を切り裂いていく。
先頭を駆ける男が、雪煙の中から躍り出た瞬間、加速のすべてを乗せた一閃を放つ。
青年の守るべき指揮官の脳門が、すぐ隣で鋼の剣ごと叩き割られた。
「ひっ、あ、お、鬼……!」
返り血で赤く染まったクラウスが、冷徹な月光に照らされた。
指揮官の絶叫は、無言で振り抜かれた剣によって止んだ。
青年兵は、恐怖に腰を抜かし、ただその光景を見上げることしかできなかった。
クラウスの瞳が、静かに青年を射抜く。 そこには憎悪も、憐憫もない。ただ、この地と同じ、凍てつく寒さがあるだけだった。
クラウスが、背後に立つ部下へ小さく頷く。瞬く間に、青年の首元を銀色の光がなぞった。
青年の意識は、そこで途絶えた。
抵抗も、慈悲を乞う時間すら与えられず、ガレリアの兵たちが雪原を赤く染める。
谷底を再び包む静寂。
血の臭いと火薬の残滓が漂う中、クラウスは自らの剣を雪で拭った。
ふと、視界の端に転がった木箱の破片が映る。
その荒い木目に、自分の脳裏に焼き付く、あの底板の傷が重なった。
前線へ届いた、およそ六十箱の塩。
検分の際、一箱だけ底板が外された形跡があり、警戒しながら解体した。その底に刻まれていたのは、一見ただの傷に見える模様の羅列。
当初、クラウスはそれをガレリアの罠だと疑った。だが、それが公爵家の家庭教師から叩き込まれた古語だと気づいた時、指先が僅かに強張った。
そこに記されていたのは、文脈も指示もない、ただの地名の羅列だった。
クラウスは地図を広げ、荒い木目に刻まれた文字を、指で一つずつ辿っていく。
流れの急な渡河点。断崖に挟まれた狭隘な谷。
軍事的な要衝をことごとく外れた、その歪な連なりが、地図上の地形と重なった瞬間。
そこには、誰かが、自分にこの景色を見せようとする意図が、ただ静かに横たわっていた。
クラウスは自らの喉が、異様に乾いていくのを感じていた。
「……まさか……」
半信半疑のまま、地名が指し示す座標に伏兵を置いた。それが今日、この凄惨な勝利として結実した。
誰が、何のために送ったのかはわからない。
だが。
「……次は、ノルズ・ヴァーサの峡谷だ」
クラウスが呟くと、周囲を囲む精鋭たちの空気が変わる。
それ以来、北の大地には不自然な「白」が混じるようになった。
雪を溶かし、泥濘を作り、あるいは岩壁を鏡のような氷の道へと変える塩。
ガレリア軍の重量ある火器や重装騎兵は、その細工によって足元から崩れ、身動きの取れぬまま氷壁から降り注ぐノルズランド兵の餌食となった。
クラウスは古語の地名をなぞりながら、地形を支配する術を完璧に掌握していった。
例えこの地が今後数十年、不毛の地になろうとも、すべてをガレリアに奪われるくらいなら造作もないことだった。
ガレリアの補給路は、その「白い呪い」によって、数箇所、また数箇所と、音を立てて断たれていった。
ノルズランドの不屈を象徴する総本陣、凍土の巨壁。
ガレリアの猛攻を一度として許さず、国境の最南端に不落を誇るその砦の片隅には、古語の刻まれた底板のほか、役目を終えた空の木箱が数箱残されていた。
「副隊長、あの木箱もそろそろ薪にしちまっていいっすか?」
「あー…ありゃまだ置いとけ」
「ええ……?もう空っすよ?」
「……あれ運んでくれたの、王女様の雪塊だろ?……だから……」
「え!?王女様って、まさか隊長、まだ……」
「しっ!死にてえのか!」
隊員たちが慌てて口を閉ざした。
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