手のひらの結晶──その断崖を越えてゆけ
コンラートが告げた通り、フェリテを通して送られた配給品は、無事にノルズランドへ到着した。
各部隊へ配給された塩漬け肉の反応は劇的だった。
だが、続々と届く称賛と感謝の報告書の中に、異質な空気を纏った紙面が二通、混じっていた。
一通は、ある歩兵部隊からのものだ。
『配給された肉を手に、嗚咽を漏らす者が続出。中には一塊をひとかじりずつ、宝物のように削って口にする者や、常に懐に忍ばせて守る者まで現れている。兵たちの執着は、もはや信仰に近く、その士気はこれまでにない高まりを見せている──』
リーゼロッテはその一文を瞳の奥に刻み、静かに次の紙面へと指をかけた。
もう一通。
『──上等で強い酒。分厚い肉。美女の慰問』
最前線で砦を守る荒くれ者たちが、面白がって書き連ねたような無頼な羅列。
だが、その賑やかな欲望が途切れた最下段の余白。
紙を突き破らんばかりの筆圧で、場違いな一文が、行を無視して乱暴にねじ込まれていた。
『──供給路を広げたのであれば、保存食とは別に、塩単体での供給を乞う。質は問わない。量は多ければ多いほど良い』
明らかに誰か別の人間が、書き殴った追記。
議会では当然、ふざけているのかと怒号が飛び交った。
兵の腹の足しにならない塩をなぜ求めるのか。ただでさえ困難な雪中の補給において、その負担がどれほどか理解しているのか。
戦略的合理性を欠いたその要求に、居並ぶ重鎮たちが顔を赤くして嘲笑する。
だが、その追記を静かに見つめていたリーゼロッテの一声が、全てを塵とした。
「承認」
──議会が閉会し、城内の宰相執務室に運ばれたばかりの書類の束。
その一番上には、リーゼロッテの承認印が押されたクラウスの報告書があった。
宰相補佐としてそれを受け取ったのは、ランカスター公爵家長男、アルベルト・ランカスター。
アルベルトは、副隊長のふざけた注文と、その末尾に割り込んだ弟の乱暴な筆跡を見ると、束の間、その表情を和らげた。
「あいつ……無茶苦茶だな」
コンラートは机の向こうから、短く告げる。
「……任せる」
「御意。……まずは国内の旧サリナール難民の子孫を当たります」
アルベルトは瞬時に感情を読み取らせない顔で頷き、書類を整理する手つき一つ乱さぬまま、音もなく部屋を去った。
その無駄のない所作、迷いのない息子の背中を、コンラートはしばし無言で見つめていた。
「……そろそろ、ゆっくりできそうだ」
漏れ出た独白は、重厚な本棚に囲まれた室内に溶けて消えた。
かくして、アルベルトによって手繰り寄せられた「見えない糸」は、確実にガレリア国内のベルマン商会へと伸びていった。
※※※
ノルズランド最南端。ガレリア軍の北上を阻む、険峻なる断崖の砦。
岩肌が顔を出すのはわずかな期間しかなく、一年のほとんどを深い雪に閉ざされていた。
深夜、凍てつく風が渓谷を噛み、雪が全てを飲み込む静寂の中で、夜の見張り番を務めていた兵士が、ふと指先を剣の柄にかけた。
渓谷の向こう、氷の鳴る音とは違う「何か」が、雪煙を割って近づいてくる気配を、鋭い感覚が捉えていた。
「……敵襲か?」
低く呟き、雪を被った眉を寄せ、暗闇に目を凝らす。
だが、現れたのはガレリアの軍装ではない。
吹雪の中に浮かび上がったのは、雪よりもなお冷たく輝く、巨大な「白」だった。
二重底の木箱。
その見かけに見合わぬ異常な重量を孕んだ箱が、ノルズランド城の深奥にのみその姿を現す、純白の巨犬──「雪塊」の番、その二頭を先頭と最後尾に配した犬列によって運び込まれた。
渓谷の切り立った断崖。馬ならば一歩で滑落し、通常のソリならば揺さぶられて谷底へ叩きつけられるその氷の細道を、三十頭に及ぶ軍用犬たちは、特製の革帯で左右に一箱ずつ木箱を固定し、一頭一頭が独立した「歩く貨物」となって踏破した。
通常、犬ぞりを引く彼らが、そりも引かずに死の断崖へ足を踏み入れることなど有り得ない。だが、先頭で吹雪を割る一頭と、最後尾で群れを睨むもう一頭。その、この世のものとは思えぬほど巨大で静謐な「白」に挟まれ、軍用犬たちはただ沈黙を守り、岩肌を掴む鋭い爪の音だけを響かせる。
朝を待たずして、雪に埋もれながら守備を固めていた荒くれ者たちは、その異様な光景に、驚きを隠せずどよめいた。
「おい、見ろよ……ありゃあ、城の奥にいるっていう『雪塊』じゃねえか! 二頭揃って出てきやがったぞ」
「あいつらがケツを叩いてやがるのか。道理で、この断崖をただの軍用犬が越えてくるわけだぜ」
兵たちは、吐く息を白く凍らせながら、不遜な笑みを浮かべてその列を眺めた。それは、自分たちと同じように過酷な道を這いずり、任務を完遂しに来た仲間への、粗野な歓迎だった。
その強靭な四肢が運び込んだ、精製前の、泥混じりの湿った塩。
ベルマン商会が自国ガレリアに「廃棄物」として申請を通し、第三国を転々と、さらにフェリテを経由してようやく辿り着いた、濁った結晶。
届いた木箱を検めたクラウスは、しばし絶句した。
「……隊長、なんて頼んだらこんな量が届くんすか。嫌がらせっすかね」
呆れたような副隊長の言葉をよそに、クラウスは一掴みの結晶を、足下の雪に落とした。
冷たい空気に晒され、決して溶けることのない硬い雪。
だが、そこに混じった灰色の粒は、凝縮された不純物の重みで雪の層を穿ち、じわじわと侵食するように馴染んでいく。それは、この山の上では滅多に拝めない「春の汚れ(雪解けの泥)」の姿を作り出していた。
「……敵わないな」
あの「雪塊」の番まで駆り出して、これほどの量を送りつけてくるとは。
クラウスが低く呟き、ほんの少し口角を上げた。
(……隊長が、笑った……!?)
副隊長は翌朝、興奮気味に部下たちへ語って聞かせたが、信じる者は一人もいなかった。
春に始まったガレリアとの戦いは、二度の冬を越え、三年目を迎えた。
※※※
「……独立小隊への補給、完了いたしました。……しかし殿下。あの塩漬け肉を求めた兵士も、今ごろは喜んでいるでしょう」
報告を終えたコンラートの、安堵の混じった独白に、リーゼロッテのペンが、ぴたりと止まった。
「『あの兵士』ではないわ。第二歩兵小隊所属、上等兵オットー。実家は肉屋だったそうよ。……先月、戦死したわ」
書斎の温度が、数度下がった。
「殿下、すべての兵士の名を、覚えておいでで……?」
「全部ではない。でも、出来うる限りは。私が彼らを死線に送っている、張本人だもの」
リーゼロッテは再び、翡翠の瞳を書類に落とした。
コンラートは、若き王女の抱える孤独の重みに、背筋を凍らせるような衝撃を覚えた。
その横顔を仰ぐことすら畏れ多く、彼は言葉を奪われたまま、祈るように深く、深く一礼した。
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