翡翠の王女──塩漬け肉に導かれるように
翡翠の瞳の中に、薄暗い書斎を照らす蝋燭の炎が、静かに揺らめいている。
ガレリアの爛漫たる春の予感とは無縁の、凍土の国ノルズランド。その最奥で、第一王女リーゼロッテは、音もなくペンを走らせていた。
「……陛下のご様子は」
沈黙を破ったのは傍らに控える宰相、コンラート・ランカスターだった。深く刻まれた眉間の皺は、国の行く末を案じる忠臣の、拭えぬ苦悩そのものだ。
「相変わらずよ。……もう、お父様に無理強いはしたくないの」
ペンを置いたリーゼロッテが顔を上げる。その視線は父王に代わり、この極寒の国の全責任を背負う、為政者のそれだった。
コンラートの顔が、苦しげに歪む。
「……陛下は、昔から心がお優しく……」
「公爵。いいのよ、わかっているわ。王宮内で『お人好し陛下』と揶揄されていることも」
「……不徳の致すところです」
「許します。今後は、私に」
短い言葉に、退路はない。
リーゼロッテは椅子に深く背を預け、冷え切った紅茶を一口だけ含んだ。
「……ところで。フェリテからの荷が届くのは、あと二日だったかしら」
「はい。届いた補給品はその後すぐに配給部隊が各部隊へ」
「皆の士気が上がることを願うわ」
リーゼロッテがなにかを思い出すように呟いた。
※※※
それは開戦から二度目の冬を目前に控えた、ある視察の日のことだ。
一人の兵士が、警護を振り切ってリーゼロッテの前に跪いた。
「王女殿下! お願いします。あの塩漬け肉を、また送ってください! あれがあれば、俺たち……俺、また戦えます!」
すぐさま取り押さえられてもなお、兵士は訴え続ける。
「あの肉……他と違う!あの肉を食えるんなら……ひと月だって野営してみせる!」
リーゼロッテはその言葉に思わず足を止めた。
片手を上げ警護兵に拘束を解かせ、その兵士に一瞥を向ける。兵士の顔には疲れこそ見えたが、焦燥や諦念はない。ただ、戦意と高揚に満ちている。
「検討する」
冷徹に告げ、兵士を下げたものの、リーゼロッテは確かめずにはいられなかった。
不敬を犯してまで叫ばせた、それが何であったかを。
後日、補給本部に取り寄せさせた肉を、リーゼロッテはコンラートの前で口にした。
咀嚼するほどに、翡翠の瞳に鋭い光が宿る。
「……公爵。これ、ただの軍用食ではないわ」
促されたコンラートがその肉を噛み締めた瞬間、ふいに蘇る記憶。
父である前公爵が、特別な日の夕食に決まって求めた味がある。
表面を強火で焼き上げ、中に赤さを残した肉に、その塩をひと振りする。ただそれだけの料理が、父の何よりの大好物であった。
「──閣下、申し訳ございません。これが最後の一本でございます」
料理長が深く頭を下げ、買い溜めていた在庫の底を突いたことを告げた夜。
父は屋敷中の使用人たちまで呼び集め、その最後のひと瓶で味つけた肉を、全員に振る舞った。
皆が美味そうに頬張る姿を満足げに見つめていた父が、ふと、隣に座るコンラートへ真剣な眼差しを向けたのを覚えている。
「コンラート、よく見ておけ。伝統とは、人の営みが積み上げる至宝だが、壊れるときは一瞬だ。……そして一度失われれば、二度とこの舌には戻らぬ」
ゆっくりと瞼を上げながら、コンラート・ランカスター公爵はリーゼロッテに目を向ける。
「……サリナール。サリナールの塩です……」
コンラートの声が、戦慄で低く震える。
サリナール。五十年前、ガレリア初代王によって地図から無慈悲に塗り潰された、亡国の名だ。
峻険な山々に囲まれ、一年の半分以上を雪に支配されるノルズランド。
その白銀の閉塞感に対し、南に位置したサリナールは果てしない海岸線を抱き、陽光を弾く波飛沫に彩られた『海の国』であった。
かつて、両国の間には商いを通じた強固な絆があった。
長く深い冬を耐え忍ぶノルズランドにとって、サリナールの商人が運ぶ物産品は、眩しい糧であった。
だが、その恩恵の記憶も、国境を越えて結ばれた賑わいも、今やガレリアという巨大な影に塗り潰され、知る者は数えるほどしか残っていない。
「……間違いありません。父が執着していた、あの塩です」
コンラートの声は、ひどく、乾いていた。
「……五十年前、サリナールがガレリアに蹂躙され始めたとき。先王陛下と私の父は、難民を受け入れるべく、国境の峠をすべて開放したといいます。逃れてきた民を国を挙げて保護し、救援と後方支援のため、サリナールへ精鋭部隊を走らせた──」
コンラートは一度言葉を切り、苦い砂を噛むように喉を鳴らした。
「……そこに襲ったのが、我が国にとって未曾有の雪害でした」
リーゼロッテが静かに言葉を落とした。
「『死白の悲劇』ね……」
「……仰る通りです。救おうとしたサリナールの民と共に、我が軍の部隊は一瞬にして雪崩の底へと消えた。行方不明となった兵たちの多くは、いまだ山の一部となったままだと聞き及んでおります。……私が生まれるより前の出来事ではありますが、父は、彼らを救い出せなかった自分を、生涯許さなかった。サリナールの味も、歴史も、ただの一粒すら守れなかった無念を、私は父の背中に見て育ちました。……あの食卓での塩の味は、父なりの弔いだったのかもしれません」
書斎を、重苦しい沈黙が満たす。
リーゼロッテはゆっくりと顔を上げ、冷え切った紅茶のカップを置いた。
「……そのサリナールの塩が、なぜ今、フェリテ経由の補給品に……」
五十年前、救おうとして叶わなかった国。
地図から消され、すべてはガレリアに奪われたはずだった。
今、化け物の腹の中で、何かが音もなく蠢き始めている。
その不気味な気配が、皿の上の肉片を通じて、この書斎を包もうとしていた。
二人の視線が、音もなく交錯した。
「フェリテ……確か、貴方がガレリア第二王子のお母様を送り届けたのも……。……フェリテに伝手があるのね、公爵?」
「……はい」
「……貴方が送った秘密の伝言への反応は?」
「……まだ、何も……」
「……そう……わかったわ。そうね、まずはこの味の持ち主を探して」
リーゼロッテは再びペンを取り、羊皮紙に鋭い筆致で名を刻んだ。
「兵士の士気に関わるなら……極秘に仕入れて各部隊に送りましょう。……予算は……政務費から充てて頂戴」
「御意に」
コンラートが慇懃に腰を折り、書斎を去った。
※※※
「……百年ぶりの戦争ともなれば、初陣の若者ばかり。彼らの士気が肉一塊に左右されるというのも、情けない話ですが……それが戦場の真実なのでしょう」
コンラートの自嘲を孕んだ静かな声が、リーゼロッテを深い記憶の底から引き戻した。
リーゼロッテは、厳しい表情を崩さない、目の前の男に視線を向ける。
彼女が父王の代わりを過不足なくやれているのも、この男──父王の旧友であり、比類なき辣腕を振るう、宰相コンラート・ランカスターがいればこそである。
事実、わずかな手掛かりから数日のうちにフェリテの商流を掴んでみせた。その仕事の速さは、冷徹なまでの有能さの証左でもある。
「ええ。……情けないけれど、私の鼓舞よりよっぽど効果があるのは確かだわ」
唇の端の苦い笑みは、吐き出した白い息と共に消えた。
退出していく背中を見送ると、書斎に再び静寂が訪れる。
リーゼロッテは瞬き一つせず、手元にある冷え切った紅茶を、今度は一気に飲み干した。
舌に残った渋みと、記憶の中にあるあの肉の塩気が、喉の奥に熱く沈んでいく。
まだ勝機は見えていない。
亡国の味を、兵を繋ぎ止める糧に変える。
翡翠の瞳が一度だけ、揺れる蝋燭の炎を捉えた。
逃げ場のない沈黙の中、リーゼロッテは再びペンを握った。
羊皮紙に刻まれる硬い筆音が、祈りのように、暗い部屋に響き始めた。
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