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「あなたの手は取らない」と突き放したあの夜這いから十年、女王となった私に執着騎士と無能王子が膝を折るまで  作者: 中田かすり
十年がかりの献身──君の隣で笑って生きていく

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綻びの予兆──風変わりな愛好家と偽りの木箱






「行軍部隊がまた進めぬだと?」



軍事室に漂うのは、爆発するような怒号ではない。低く、湿り気を帯びた、不穏な沈黙だった。


ガレリア王は椅子に深く背を預け、目の前に広げられた北方戦域の地図を、まるで理解不能な化け物でも見るかのように睨みつけている。


二年前、この戦争はガレリアの独壇場になるはずだった。

百年もの間戦い方を忘れた、脆弱な北の小国を嘲笑い、肥沃な土地と資源を奪うだけの、一方的な蹂躙。


だが、現実はどうだ。


送り込んだ精鋭たちは、ノルズランドの深い雪と、音もなく迫る白い影に翻弄されている。



「……陛下。後方からの補給部隊が、またもや雪崩による寸断を……」



側近の報告に、王の指が肘掛けを苛立たしげに叩く。



「雪、雪、雪か。この国には冬しかないのか」



まだ「勝てない」とは思っていない。ただ、計算が合わない。


その僅かな狂いが、ガレリアという巨大な歯車を少しずつ、確実に削り取っていることに、まだ誰も気づいていなかった。


回廊の陰、冷えた空気が淀む場所で、ルカは政務室の窓を眺めていた。


二年の歳月はルカの背を伸ばし、その瞳からは幼さを完全に拭い去っている。

だが、その鋭利な光は、誰かと視線が合う瞬間に磨き上げた愚鈍の奥へ、巧みに隠匿されていた。



「……王のあんな顔、初めてじゃないですか?」



外出先から戻ったカイルが、少し息を乱しながらルカの隣に立った。



「殿下。俺がいない時に一人でふらふら出歩くなって言ったよな……?」



「平気さ。こんな状況でヘラヘラ笑いながら歩いている無能王子なんて、みんな敢えて視線に入れないようにしているみたいだよ。……まあ、たまに罵倒されるけど」



「それを心配してるんだろが! 」



カイルの小声の叱責を、ルカは視線だけで軽く受け流して尋ねる。



「……それで。今日の市中の様子は?」



「……ったく。……実は、少し気になることがありましてね」



カイルが、鋭く周囲に目を走らせた。



「部屋に戻るか」



ルカの短い促しに、二人は澱んだ空気の回廊を後にした。


自室の重い扉を閉め、ようやく「城内の目」を遮断する。カイルはすぐさま懐から数枚の書類を取り出し、机に置いた。



「納品台帳の写し……?」



ルカが差し出された紙を覗き込む。その横顔には、もはや少年の面影はなく、一人の男としての精悍さが浮かんでいた。



「ああ。商工組合のハンスに、最近いつもと変わったことあったか、って聞いたんだ。そしたら……」


「……ま、待て。まずハンスって誰だ」


「あ、言ってなかったか?商工組合の備品整理担当で、骨董愛好家のハンス」


「え、ほんとに誰」


「だから、骨董への愛が高じて、最近東方に伝わる陶器を再現するために、自宅の裏庭の土をこね始めた、ハンス」


「……もういい……それで、そのハンスが何だって……?」



頭を抱えたルカがカイルを促す。



「この商会の木箱と、中の伝票の数字に違和感があるんだと。少し前に軍の規定が変わっただろ?そのとき木箱の規格も新しくなっている。だから今の時期、旧規格の箱が混じるのは珍しくないんだが……ここの箱、一見使い古された旧規格なんだが……ハンスが『偽物だ』ってさ」


「偽物?」


「ああ……使われてる板が新しすぎるんだと。ハンスに言わせれば『数年前の旧規格なら、板がもっと締まってなきゃおかしい。これは最近切り出された新しい木を使って、わざわざ旧規格の形に組み上げた、出来の悪い贋作だ』だと」



「……新しい木で、旧規格を? 何のために……」



「旧規格の方が、中身の『隙間』が多いんだろ。……おまけに、ハンスが担いでみたら、その新しい板の軽さに反して、底が妙に重かったらしい」



「……なるほどな。わざわざ旧型を模造してまで、詰め込む隙間が欲しかったわけか。よく気が付いたな、ハンス」



「ハンスの『目』、あれは相当ヤバい」



「……お前らどこで知り合ったんだ」


「お互い馴染みの古本屋が同じでな。あいつ、棚の隅で『完全解読! 失われた古王朝の釉薬ゆうやく処方箋:焼成温度が導く化学反応の真実』を読みながら、ボロボロ泣いてたんだ」



「……泣いてた?」



「ああ。俺も以前それを読んだことがあってな。『あそこの、鉄分が酸化して発色する瞬間の描写……たまらないよな』って話しかけたら、そのまま意気投合して今に至る」



「え、なに。もうやだ……聞かなきゃよかった」



ルカは大きく溜息をつくと、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。その指先が机の上の書類に触れた瞬間、先程までの呆れ顔は消え、凍りつくような冷ややかさが瞳に宿る。



「……ベルマン商会……」



「気になると思って少し調べてきた」



カイルが商工組合登録名簿の写しを取り出す。



「ベルマン商会。創業は七年前。生業は諸国交易および糧食受託加工。代表者、アーサー・ベルマン」



「……アーサー・ベルマン……どこかで……」



カイルが試すような目でルカを見ている。



「……ベアか」



「ご名答。彼女の長男だ」



ベアことベアトリスは、ルカにとって最も懐かしく、そして信頼に値する女性だった。


かつての乳母であり、初代王に侵略された海岸沿いの国で繁栄した商家をルーツに持っていた。王宮で、唯一ルカの母、マリカの孤独に寄り添った人だ。

ルカが乳飲み子ではなくなってからも、週に一度、王宮に通ってきてくれていた。



「ベア……久しく会っていない。……今は?」



「去年、亡くなったそうだ」



「……そうか……」



静寂が部屋を包む。ルカがその薄氷色の瞳をそっと閉じたのを見て、それに倣った後、束の間の弔いの沈黙を破るように、カイルがこほんと咳払いを落とす。



「……ベアトリスの息子、アーサーが立ち上げたこのベルマン商会なんだが……少し特殊でな。自前の塩をわざわざ国外へ送り、そこの工房で加工させてから戻している」



「ガレリアの工房を使わないのか?」



「使いたくても、既存の御用商人たちが国内の工房を既権益としてガチガチに固めているのさ。新参のアーサーには、肉を焼く煙突一本立てるスペースも与えられなかった。……だから彼は、奴らが『管理が面倒だ』と切り捨てていた国外のボロい工房を買い叩き、そこを拠点にしたんだ。御用商人たちにしてみれば、面倒な実務を目の届かない場所で勝手にやってくれるアーサーは、都合のいい小間使いだったんだろうな」



ルカは広げられたベルマン商会の納品台帳に、再びゆっくりと目を通す。



「軍用糧食……開戦以降、急激に増えている……七年前にできたばかりの商会が、よく軍の喉元に入り込めたな」



ルカの問いに、カイルがわずかに肩を竦めた。



「他の商人たちが、手間のかかる工程を嫌った隙を突いたようだ。アーサーは彼らの下請けとして泥臭い実務をすべて引き受け、実績を作った。今や軍に納品される塩漬け肉の四割が、彼の加工場を通っている」



ルカが品目の中の一行に、その細い指先を立てた。



「……塩か」



ベアの生家は、代々塩を扱ってきた商家だったはずだ。その扱いを知り尽くした一族が、今や軍の糧食を支配し始めている。



「ああ」



「現在のベルマン商会は『塩の差配権』を手に入れたも同然だ。しかも耄碌商人どもに中抜きさせて鼻薬を嗅がせつつ、実利までとっている……見事な手口だ」



「ま、ハンスの『目』は誤魔化されませんでしたけどね」



「ああ。……アーサーか……カイル、接触できるか?」



「仰せのままに」



カイルが胸に手を当て、大袈裟に腰を折ってみせた。














最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



もし少しでも続きが気になる、と思っていただけましたら、下部の【評価★】やブックマークをいただけますと幸いです。


皆様の応援が、物語を最後まで描き切るための何よりの原動力です。



次回もよろしくお願いいたします。


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