おうじさまの鎮魂──今はただ、安らかに
カイルが戻るまでの半刻ほど。
ルカは一人、窓の外を睨んでいた。
遠くで開戦の準備を進める軍靴の響きが、自室の扉を震わせる。
ランカスター公爵は、その洞察力で、ガレリア国の体質を聡く見抜いた。武力第一で教養を疎かにするこの国で、紋章のインクの重なりまで目を凝らして精査する人間などいないだろうと、賭けに出たのだ。
気がつくとすればただ一人、ルカであると。
背後の扉が、音もなく開く。
埃っぽい匂いと、重い紙束の擦れる音。
「……殿下。お待たせしました。誰も見向きもしない、初代王様の、見栄の残骸です」
分厚い冊子と資料を机に叩きつけたカイルの瞳は、いつもと変わらぬ、けれど確かな共犯者の色を湛えていた。
「……始めよう」
蝋燭の芯が爆ぜる。
母の手紙の文末、紋章の歪み、そしてカイルが持ち込んだ古びた冊子。
三つの断片を突き合わせ、迷宮の奥へと指を這わせる。
数時間が経過した。
部屋に満ちる、猛烈な熱。
ルカの指先が、ある文字の上でぴたりと止まり、掠れた声で呟く。
「これ、『修道院』じゃないか?」
「……なるほど。一字一字が何らかの音になっているものと、単語を表しているもの、混在しているってことか……」
「……マ……マ…マリ、…マリカ?母様の名前だ!」
ルカの声が震える。
「マリ、カ……サ……サリュ……?」
その言葉をルカが言い終わらないうちに、カイルは分厚い冊子を素早くめくる。
「フェリテ公国の中立地帯にある、サリュート聖母修道院ですね。……その後は……日付ですかね?」
「そうだな……ってお前なんだその本」
「え、周辺諸国の施設所在地一覧集。あっ!……言っとくけど、これだけは私物だからな!」
「そんなの愛読書にするやつ、お前ぐらいだろ」
「いやあ……そんな……」
「褒めてねえ」
カイルを呆れた顔で見たあと、再び紋章に視線を落とす。
解読作業はその後、七日間に渡った。
七日目の夜明け前。
窓の外から多くの軍列の喧騒が聞こえる。
ルカは、たった今解読した文章に指を這わせた。
『マリカ、サリュート聖母修道院にて保護。
解氷の月二十四日、以降所在不明。
少女の瞳、薄氷色なり』
「……これ……だけ……?」
カイルがぽつりと呟いた。
日記の一節を抜き出したような、なんの感情も感じられない文章だった。
それはおそらく、ランカスター公爵にとっての最後の母の記録。
(やはり、ランカスター公爵が母様を……)
幼い少女だった頃の母を思う。
汚い大人たちから、物のような扱いを受けた美しい少女。
暗闇から自分を助け出してくれた貴族の若者が、どんなに眩しく見えただろう。
身を守ることのできる場所を与えられ、どれほど嬉しかっただろう。
叶わないと知りながら、死ぬ間際まで、その手で抱いた手紙が、母にとって唯一の救いであったのだ。
(母様。忘れられてなんか、なかったんだよ)
膝を抱えながら震える小さな少女が、ほんの少しだけ報われたような気がした。
瞼を閉じて口を閉ざすルカを、心配そうにカイルが見つめる。
「殿下?」
「……いや、いいんだ……これだけで。……十分なんだ……」
そう言った途端、ルカの意識がぷつんと途切れた。
張り詰めていた糸が切れた人形のように、ルカの体が机から滑り落ちる。
「……殿下? ……おーい、寝ちゃいました?」
カイルの静かな呼びかけに、返る声はない。
カイルはルカの細い体を、壊れ物を扱うような手つきで抱え上げた。
七日間、まともな食事も摂らずに、執念を燃やし続けた体は、驚くほど軽い。
ベッドへ横たえたルカの、無防備な寝顔をカイルは見つめた。
「……随分、信用してくれるようになったもんだ」
出会った当初、毛を逆立てた子猫のようだったルカを思い出す。
触れようとした瞬間逃走し、拒絶し、怯えた瞳で睨んでいた。
母の教え通り、己の身を隠し、醜い手から逃れようと必死だった頃と、無能王子の仮面を被り、周囲を欺く今。
結局のところ、何も変わっていないのだ。
母親が修道院から所在不明になった理由など、考えずとも分かる。
この国の王が、あの他国で見つけた美しい女を放っておくはずがない。
中立地帯という境界など、あの男の前では紙屑に等しかったはずだ。
カイルは、胃の底からせり上がるどす黒い嫌悪感を、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
ランカスター公爵からの暗号。
密かに期待していたのは、カイルの方だったのかもしれない。
(これを使って、こいつを逃がせるんじゃないか、ってさ……)
だが、もたらされたのはたった数行の、死者の足跡のような記録だけ。
「……そう簡単には、いかないよな」
まだ薄明かりの窓の外、軍列の足音が、奈落へ誘うように響いている。
カイルはルカの枕元に立ち、静かに剣の柄を握り直した。
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