第343話・帰還する物語。
スッ……パタリ。
スッ……パタリ。
彼女はよみ終えた本を次々と積み重ねていた。
僕は遥か昔の世界のゲーブルトである、ゲーダントの死に直面し、その核心へと迫っていた。
『顔の無い病状の少女』の結末。
僕は既に滅んでいる世界に対して、何かをする事は出来なかったけれど、その世界の支持者であるアギカの言葉が引っかかり続けていた。
僕は巨大な記憶の図書館の中で機械のように本を読み続ける、零極さんの様な管理人風の女性へと声をかけた。
「あの……支持者の残骸について……なにか知ってないっすか?」
この空間の彼女は本を読むのにずっと集中しており、話しかけてもマトモな応答は返ってこない。それを分かった上で、他に相談する人もいなかったので、藁にもすがる思いの一言だった。
すると彼女は青い髪を緩やかに揺らして、僕の顔を見あげ、初めて僕と視線を合わせた。
「おめでとうございます。よく見つけてこられましたね」
その表情は幸福に包まれていた。
瞳を潤ませ、白い歯を見せた、満面の笑みだった。
そして彼女は一冊だけヒザの上で温めるようにして確保していた、紙束をホッチキスで止めただけの白い表紙の薄い本を手に取り、僕へと差し出してきた。
「絶望の物語……。スゴミ君、君は誰よりも絶望する事が出来ますよ」
僕は顔をしかめながら、その紙束を手にとった。
「なんすか、僕の絶望って……」
本というには余りに粗末な白い紙束。その表紙を見て、僕は心の奥底から気持ちが燃え上がるのを感じた。
安っぽいクレヨンで綴られたその本のタイトルの名は『アトラスと天使』だった。
『アトラスと天使』の文字の下に素人の大人が描いたのであろう、ポコポコした筋肉の戦士と、青い縁取りに赤い目が印象的な天使の絵が描かれている。
「これ、アトラスと天使……っ!! なんでこの本がここに……っ!?」
それは僕の五歳の記憶の中で、病院の控え室で一度だけ読んで、僕をその世界に引きずり込んだ物語だ。僕を夢中にさせて、そして、それから一度も見る事の無かった本だった。
零極さん風の女性は、一冊の分厚い本を胸に当てた。
「バラバラだった物語が、しおりのように本に挟まっていました。私がしたのは、その紙片を集めて復元したことだけです」
彼女の背中には、山のように本が積み重なっていた。
いったい何十年、本を読み続けたらこの量を読破出来るのか、そんな計算をする事すら嫌気がさすような、圧倒的な量だった。
「ずっと……コレを探してくれてたんすか……」
彼女はそっと微笑んで片腕を伸ばし、アトラスと天使の冊子を僕の胸へと押し当てた。
「わたしが君に出来る貢献は、それくらいですから……」
その手を、トンッと軽く突いて押した。
「行ってらっしゃい。君が帰る為の物語へ……」
強くも悲しみに触れるようなその表情が印象に残った。
彼女の姿は白い闇の中へと溶けて消え、僕は一度だけ瞬きをした。
身体がフラッと揺れて戻ると、記憶の図書館の落ち着いた空気は無くなっており、身体中を一気に冷やしに来る空気が肌を包んだ。
気づけば僕は、白い廊下に立っていた。
天井に埋め込まれた蛍光灯の長い光が廊下を照らし、天井に埋め込まれた正方形の業務用エアコンから出てくる冷風が、僕の髪を揺らしていた。
「……病院?」
僕は周囲を見渡していた。
小綺麗で新しめの病院だった。壁も白く、通路に置かれたソファのベンチも、皮がツヤツヤしていて、へたりもほつれも無い。
一方で僕の服はボロボロで、歩き続けた靴からは指がはみ出し、背中はネオルの爆発でやられた火傷が、未だ生々しい痛みを伝え続けていた。
そして、そんな困惑に飲まれかけていた僕の耳に、やかましい子供の声が飛び込んできた。
「ねぇねぇ!! アトラスは何と戦ってたの!?」
僕は廊下の先を見た。
そこに居たのは、僕だった。
と言っても、今の僕の腰ほどの身長の、小さい僕だ。
彼は小さなその手に、紙の束をつかんでぶら下げていた。
それは今の僕が零極さんに渡されたのと同じ『アトラスと天使』の手作りの絵本だった。
そして幼少の僕がそんな事を聞いていると言う事は、聞いている相手がいるハズだ。
相手は僕のいる位置からでは廊下の壁に隠れて見えなかったので、僕は壁へと手を付きながら身体を前へと引きずって行った。
姿が見える前に、廊下の影から反応が返ってくる。
「戦い……? 何の話だ、君、お母さんは?」
その声を聞いて、僕はハッとして駆け出していた。
妙に落ち着いたようであり、心底の気怠さが表に出たような口調……。
まさにゲーブルトの声だった。
廊下の角から、彼の姿が覗いた。
白衣姿の体格の大きな中年の医師がそこにいた。ゲーブルトのような赤髪とまでは行かないが、白髪染めのブラウンが明るめで、蛍光灯の光が透けて当たると赤みを持って燃え上がってるようにも見える。
幼少の僕はゲーブルト風の医者の白衣を掴んで、背を伸ばしていた。
「僕ね、カタカナ、読めるんだよ!!」
言いながら、アトラスと天使の冊子の表紙を、医師の顔へと向けて伸ばした。
「アトラスって読むんでしょ! ここの病院もアトラスでしょ!! アトラスはね、天使を守るんだよ!!」
それは完全に、絵本の妄想の世界に取り憑かれた子供の妄言だった。
僕は壁伝いに歩く左手に、ポスターが触れたのに気づいた。
チラリと視線を送る。
【あなたの健康を支えていたい】
【内科・アトラス医院】
【院長・丸山 啓人】
僕の口から、言葉が滑り出る。
「マルヤマ……ケイト? ケイト……ゲーブルト?」
語感としてはゲーダントよりも遠いが、子供の僕が声をかけている相手は、やはりこの世界のゲーブルトのようだった。
「僕は……。ゲーブルトに会ってたのか……」
無論、そんな記憶など僕には無かった。
病院で見た絵本、その世界観に夢中になった事だけを強く記憶して、残りのことなど忘れ去っていたのだ。
僕がそう思考していると、丸山院長は幼い僕が掴む白衣を強引に引っ張って僕の手を引き剥がし、アトラスと天使の冊子を手の裏で弾いた。
「よせ、私は忙しいのだ」
そして声を大きくして人を呼ぶ。
「おいっ! 子供が迷子だ、控え室に連れて行ってくれ!!」
それに反応して、即座に廊下の奥から、女性の声が響いて届く。
「はいっ、すみませぇーん!!」
それもまた聞き覚えのある声だった。廊下の左奥から、髪の長い看護婦がトタトタと駆けてきて、身をかがめて幼い僕の肩へと触れた。
「あらぁ、カタカナ読めるのねぇ、えらいわねぇ!!」
その姿は髪が黒いだけで、完全にサザナさんだった。
カイの辿った46世界の物語でも、ゲーブルトを追った物語の旅でも一度も見なかった彼女の姿が、当たり前のようにそこにあった。
僕は思わず言葉を漏らしてしまう。
「サ、サザナさん……!?」
僕の声に反応して、女性は即座にこちらを見た。自分の名を呼ばれた者の反応速度だ。続けて丸山院長と幼い僕も、僕を見る。
そして丸山院長が指を立てて僕をさし、怒鳴り声をあげた。
「君、勝手に入って来ないで貰えるか!! その格好、事故にでも遭ったのならば、内科ではなく外科に行きたまえ!!」
威圧的な物言いに、僕の身がすくむ。
たしかに僕は事故に遭った以上のボロボロさではあったが、初見対応にしてはあまりにも冷たい物言いだった。
しかしそれをサザナさん似の女性が止める。
「すみませぇん、見て無くって、私がこの子と一緒に連れて行きますからぁ!!」
「ったく……」
院長は舌打ちをすると、白衣を揺らして廊下の奥へと進んで行った。
それにも構わず、サザナさんのような彼女はしゃがみ、幼い僕の顔と今の僕の顔を見比べながら目を細めていた。
「似てるねぇ、お兄さん?」
「えっ、いや……。僕はその……」
向いた視線に、僕は思わず後頭部に手を当てて顔を逸らしていた。兄というか僕自身なのだが、幼い僕が僕を認識したら、過去になんの影響が出るのだろうか、そんなことすらも分からないままに、不用意に発言することは出来ない。
すると幼い僕はアトラスと天使の冊子を胸に抱いて、目を輝かせながら僕の方へと駆けてきた。
「もしかして、君がアトラス……!? 戦ってたの!?」
僕は思わず一歩下がった。
「いや、戦ってたって言うか……」
戦ってはいた。
ただし目の前の男、丸山院長の別の世界の姿、ゲーブルトとだ。
僕が何も説明出来ないでいると、幼い僕は僕の手を指さして高い声をあげた。
「その本、アトラスと天使でしょ!! 僕もさっき、読んでた!!」
僕は冷えた体に汗ばみを感じ始めていた。
手に握られていた、その紙の束を持ち上げて見つめた。
零極さんが纏めてくれたこの本を世界に持ち込んだ事で、個人制作の絵本が二つある。
それを幼い僕の後ろからカツカツと靴の音を鳴らして近寄るサザナさん似の女性が見て、不思議そうに口を隠した。
「おかしいな、なぜそれが二つもある……?」
僕は慌てて本を腰の後ろに隠した。今更無意味な抵抗だ。
そんな滑稽な僕の姿を見て、サザナさん似の女性は楽しそうに微笑んでいた。
「ああ別に、構わんよ。その子が気にいったから、コピーしたんだろう?」
勝手な解釈、とはいえ整合性のある解釈をした彼女に対して、僕は姿勢を直した。
「あ、そう……っ!! そんな感じっすかねぇ!!」
彼女は柔らかい笑顔を残したまま、姿勢を立たせた。
「ふふ……。別にそれはもう使わんからな、言ってくれればあげたのに」
その一言に、僕の目の前の僕は、目を輝かせて振り向いた。
「ほんと!? 貰ってもいいの……!?」
僕はその光景を見て、目を細めていた。
僕は『アトラスと天使』を持ち帰った記憶なんて全くないし、家で見た記憶もない。
もしかしたら僕が過去に干渉することで、何か大きな枠が変わってしまっているのかもしれない。
しかし僕は、彼女へと恐る恐る質問した。
「あの……この本って……」
「……ん? ああ、私が描いたのさ。患者を励ますつもりでな」
そして照れたように頬をかき、視線を逸らした。
「でも当人には不評でな、その戦士の絵が、逆に怖かったらしい……」
僕は言われて本の表紙を見た。
それは銀のヘルメットにT字の黒いスリット、上半身裸の丸い筋肉にメスを振り回している戦士の絵だった。
『怖い』と言うには程遠いが、改めて見ると正義の味方ってよりは、RPGに出てくる敵モンスターのように見える。
「コレを……サザナさんが……」
僕が呟くと、女性は首にかけていた赤い紐を引いて、胸ポケットから名札を取り出した。
「漣って言うんだけど、どこかで会ったかしら?」
名札に書かれていた名前は『漣 響子』サザナさんのこの世界バージョンである事は疑いようもない。
そんな彼女が僕の幼少の頃にハマった絵本の作者であり、僕と短いながらも関わりも持っていたなど、僕には知る由もなかった。
そして僕は再び絵本の表紙へと目を落とす。
アトラスの横でメソメソと漫画風の大きな涙を流す、水色の線と赤い瞳で描かれた、羽の生えた天使の絵。
その天使の胸に描かれた、赤いアスタリスクのマークが目に焼き付いていた。
「あの……。その患者さんって、もしかして、心臓の病なんすか……」
聞くしかない。
ゲーブルトも心臓の病の少女を診療していたという。
もしそれが顔のない少女であり、ゲーブルトの核心なのだとしたら。
この天使として絵本に描かれた少女の正体を知る事こそが、僕がドグマの物語の海を抜け出す為の決定打になるのではないかと、僕の期待が膨らんでいたのだ。
そしてなにより、その天使のイラストは、幼い僕が心の中に初めて明確に『好き』と言う感情を抱き、初恋にも等しい感情で愛した、初めての二次元のキャラクターだったんだ。




