第341話・踏み越えられた一線。
僕が数多の記憶の中からこの世界を選び出して入って来たその時に、僕はゲーブルトを見失って農家の納屋の中から出現した。
この世界は中世よりも昔のようで、一面小麦畑が広がり、山という山も遠い、開けた平地の国だった。
ゲーブルトは見つからなかったので、僕を最初に発見した農家のおばさんから、この世界の事を聞いた。
この世界には、魔術と呪術というものがあるらしい。
それらはその時代よりもはるか昔に現れた賢者が作った遺物『アギカの祝杯』を起源としていると言うこと。
白い盃の形をしたそれは、持ち主を選ぶという。
より強い意思に、より強い目的に引かれ、不適切な者の元からは去っていく。
そんな伝説があり、そしてその余波だけで魔術使いと呪術使いは、必ず権威に至るという。
その『アギカの祝杯』を、今まさに懐に隠し持っていたのがゲーダントだった。
この世界に置ける『魔術』というのは、祝杯が遺した魔素というものを、自身のイメージの中で固めることで、センスのある者だけが使えるらしい。
一方で呪術は違った。
呪術と言うのは、儀式さえ通せばだれでも使えるらしい。
ただしその燃料は意思ではなくて、生命。
故にその殆どは国単位で使用を禁止するという『禁術』として、使うことを禁止されていた。
ゲーダントは渇いた願望に潤いを求めるがごとく、城一面を囲む男達の前へと、テラスから身を乗り出した。
外で鳴り止まなかった「メリーアンコール」は、ゲーダントが姿を出した事で一時ただの歓声へと変わった。誰でもいい、メリーアンが結婚相手探しから引っ込んで、僕が城へと乗り込んでから、外で待たされている者たちは、ただそこに変化があったと言うだけで歓喜の渦に飲まれていた。
ゲーダントはその民衆へと向かって『アギカの祝杯』を掲げた。
ネオルが即座に駆け出そうとしていた。
「……何をする気だ!!」
ゲーダントが大声をあげる。
「鎮まれぇーい!!」
その一言と共に、湧き上がっていた歓声が、電源を落としたかのごとくピタリと止まった。昼の高い日差しが差し込むテラスで、アギカの祝杯は一層の輝きを放ち始めた。
「姫様の夫となる者を決定するっ!!」
メリーアンがふと顔をあげる。
「私の……?」
ゲーダントの独断専行は止まらなかった。
「この杯をこれから投げる!! コレを奪い合い、最後に手にしていた者を夫とし、次代の国王として迎える事を、ここに宣言するっ!!」
メリーアンが目を大きく開いてテラスへと歩き出そうとしていた。
「な、何を言っているの……!?」
その瞬間、ネオルは顔を真っ青にしてコチラを向く。
「間に合わねぇ、見るなっ!! 目を伏せろっ!!」
いいながらメリーアンを巻き込んで、僕が拘束されている兵士の元までかけて来た。
その向こうで、大歓声が沸き上がり、広場に集まった男達が両手をあげて祝杯を受け取ろうと構えはじめる。
そこに、ゲーダントは唱えた。
「666のひとつに向かう意思を触媒とし、アギカの魂よ、意思の力を叶えたまえ……ドゥーム ネクロクティーシス!! その名はシラバ アニス……!!」
僕たちはネオルが押し込んで来た廊下の壁で団子のように折り重なっていた。
聞こえていたのはゲーダントと民衆の声だけだった。
数百人が一斉に上げていた歓声は、突如として悲鳴へと変わった。
「うわぁぁ!!」
「あ、ああああー!!」
さっきまで一つに重なっていた声が、一人一人の悲鳴として聞き分けられる。
広場から、人の声だけが飛び交っていた。
メリーアンが顔をあげる。
「一体何が起きてるって言うの……?」
ネオルはメリーアンの肩に腕を回しながら唇を噛み締めていた。
「ドゥーム ネクロクティーシス……666人の注目した者の命を犠牲にして、一人の命を完全な状態で現世に呼び起こす……禁術だ」
メリーアンが首を振りながら、目を大きく見開いた。
「な……なんて!?」
「戦争時代の大量殺戮呪術として使われた事があると、言葉だけは聞いた事あったけどな……」
ネオルの顔が、悲鳴のする方向を向いた。
「ゲーダントが祝杯を持ってて、しかも自国民に使うなんて……思っていなかった」
僕はそれを聞いて、重なる兵士たちの重い甲冑の中から、片腕を伸ばしていた。
許せない。
そう言えば、確かにそうだ。
ゲーダントは、ゲーブルトと同じ事をやっている。
自分の目的のためなら、自国民すら犠牲にする。
あの男は、許せない。
だけど。
僕はそこで、アギカの祝杯の事を考えていた。
この世界では、魔術も呪術も、あの杯から生まれた。
そして、このアギカの祝杯は、間違いなく『ドグマ』だ。
ドグマは本来、世界でたった一人、シグマの物語の走者に選ばれた者しか扱えないはずの物だ。
それなのに、ゲーダントは何の資格もなくそれを持ち歩き、使っている。
ならば、この祝杯を作った走者は。
その力を、一般人でも使えるように設定したということになる。
僕は鎧の間から突き出した手に、白い球体のドグマを生成して掴みこんだ。
「僕のドグマは、ここにある」
ネオルが目を見開いて飛び起きた。
「お前その力……アギかの祝杯か!?」
僕は目を細めた。
「違います、これは僕の……僕だけの物語。僕のドグマです」
ドグマが淡い光を放ちだす。
「そしてココは過ぎてしまった物語、あのアギカの祝杯というドグマはきっと、今も僕のドグマの中にある」
僕の脇を固めていた兵士男性が、呆れたような声を漏らす。
「な、何を言ってんだ……あんたは一体……」
何を言っているのか、それは僕にも厳密には分かっていない。ただ、今の僕の中にある思いは、ゲーダントにドグマを持たせていてはいけないと言うことだけだ。
「僕のドグマはここにある。それが僕の一部として今を生きているドグマなのならば、それは僕のドグマとしてここにある」
ネオルが小さく構える。
「呪術か……っ!?」
たしかに、意味不明で呪文に聞こえるかも知れない。
だが僕が言ってるのは詠唱でもなんでもなく、ただの事象の確認だ。それを成すことで意思は確信へと変わり、ドグマは僕に答えてくれる。
直後、ゲーダントの持っていたアギカの祝杯が、車輪のように転がって、僕たちの前へと向かってきた。
僕の両脇を押さえていた兵士達は、それを見つけると即座に僕への拘束を解いて離れた。
「うわっ!来るぞ、こっちに!!」
こっちに来るのは当然だ、僕がドグマ回収をしている。
アギカの祝杯は部屋の出口付近まで来ると、床を蹴って飛び上がり、僕のドグマの白球へと真っ直ぐにぶつかって溶けるように吸収された。
ネオルは他の兵士と共に後退りを始め、僕の前に兵士を割った道を作っていた。
「祝杯を吸収……!? 本当に、お前はなんなんだよ……!!」
僕は背中の火傷に体力を奪われて痺れの残る身体で、その道を前へと進み始めた。
「僕がだれかなんて、どうでもいいんすよ。僕はゲーダントを止めに来て……止められなかったヤツです……」
ネオルも兵士も、息を飲むばかりで僕の歩みを止めようとはしなかった。
僕が部屋の入口をくぐり、ゲーダントの居るテラスへと視線を送ると、ゲーダントはその場にへたり込んでブツブツとうわ言のように呟いていた。
「どうしてだ、ネクロクティーシスは、完全再生じゃ……無いのか……魂は、呪術の力は……」
僕はその光景を見て、熱い背中に氷水をかけられたような、耐え難い寒気に襲われた。
座り込むゲーダントの腕の中には、痙攣する少女の身体が横たわっていた。
異様な光景だった。
少女の首は自身の爪で何度も引っ掻いた跡がついており、そして何より、体は完全に揃っているというのに、マネキンのように顔面と頭髪が存在していなかった。
少女が痙攣している理由はすぐに分かった。
鼻も口も無い。
その身体では、呼吸が出来ないからだ。
僕はそこへと駆け寄った。
「なにをやってんすか、お前は……っ!!」
顔のない少女は、痙攣る力すらも失っていき、僕が目の前に行った時には既に事切れていた。
ゲーダントがその少女の身体を抱き上げて抱きしめながら、僕へと視線を持ち上げた。
その顔は身体中の水分が抜かれて骨が皮から張り出しており、先程までの威厳のある赤髪中年男性の姿から、シワだらけの白髪の老人の姿へと変わっていた。
その皮が張り付いただけの目玉を震わせながら、彼は僕を見あげていた。
「お前が……急がせたからだ。俺は王となり、全てを支配してから、完全に準備をしてから挑むつもりだった……」
口を開けると、歯がボロボロとこぼれ落ちてきた。
「奪われし者の病症は……アギカの祝杯の完全蘇生でも、治せなかった……」
「奪われし者の……病症……?」
僕はゲーダントのその一言を聞いた瞬間に、記憶をたどっていた。ノリノのいた世界で、ジャスティンの部屋に病気の子供がいた。ゲーブルトが最悪の能力『チャイルドオファー』を獲得する事になった発端になったという、心臓の病の子供だった。
『病気の子供』
ゲーブルトに関わる世界で、毎回出てくるその僕の知らない存在が、この男の核心に根付いているのでは無いのか。
そんな直感だった。
そしてひとつ考え、至る。
しかし少女は十歳程の身体だった。
鼻と口無しのその身体で、この子は一体、どうやってこの年齢まで育ったのだろうか。
そんな理由はひとつしかない、普通に育ってから、ある日突然、顔を奪われたんだ。
「呪術っすか……その症状……」
手遅れの少女を目の前にした僕は、自分でも残酷だと思えるほどに、ただその先を問うていた。
ゲーダントの皮膚が黒く変色していく。
「呪術、ならば……!! その根源はアギカの祝杯っ!ー!! アギカの子たる呪術ごときの一介が、666の魂を吸った本物の祝杯の効果を打ち消すはずがない!!」
ゲーダントは骨のような手足で立ち上がった。その頭から白髪が一斉に抜け落ちる。よろめく足で僕へと迫ってくる。
「祝杯を、返せっ!! 貴様、貴様が奪った、私から、私の全て……!!」
僕は一歩、下がっていた。
立つのもやっとやせ細った手足だと言うのに、彼が少女の遺体を抱き続けていたからだった。
僕は言い訳を捻り出すように口を動かす。
「コレはドグマ……!! 祝杯を作ったやつの事は知らないっすけど、コレは物語を走る走者だけが使える……」
ゲーダントは少女の遺体を突き出してきた。
「だったならば、貴様が治せ!! この奪われし者の病をっ!!」
言いながら、ゲーダントの皮膚がますます黒くなり、ひび割れていった。テラスと室内を隔てる窓枠、そのレールを踏んだ瞬間、彼の足が木炭のように高い音を立てて折れると、ゲーダントは少女の遺体を最後の力で僕へと投げあげた。
「奪ったのだ、貴様、貴様が……奪った……俺の」
そしてゲーダントは石の床に黒い身体を叩きつけ、ガラスのように砕け散った。




