第337話・誰の力が誰を成す。12
ノリノは思い詰めたように僕の抱擁から身を解いた。
殴られた跡に破けたシャツと、腕に残るロープのきつい締め付けが残した赤みが、僕が離れた僅かな間の彼女の苦痛を訴えていた。
彼女は僕と目を合わせて素早い瞬きを繰り返しながら、頬をかいた。
「ウチってさ、海賊の子に生まれてから、ずっと海賊してきたけどさ、船員の男衆がどんな目でウチを見てるかってのは、分かってたんだよね……」
彼女が破れたシャツの中を隠すように内側に寄せると、寄った胸に縦筋の谷間がくっきりと浮き出し、僕は思わず目を背けた。
「オヤジも分かってたんだよ。いつかはこうなる日が来るって……。死んだ母さんみたいに、海賊してたら、いずれは身が持たなくなる……って」
「なんの話っすか、いきなり……」
「オヤジはさぁ! モクズ君の才能に気づいてたんだよ!!」
そして顔を赤くして僕に迫る。
「好きにしろって言ってたんでしょ、つまりそれって、娘の事は持ってけドロボー!!って事じゃないのぉ!?」
その突然の接近と下着一枚という強烈な姿に、僕は視線を戻すことはできなかった。
「海賊がドロボーされるってのも皮肉な話っすけども……」
しかし、概ね思い出した今なら分かる。彼女がこの世界のノリコのポジションだと言うのなら、ノリコがこうしてテンションを上げている時は、隠したい感情がある時ってことだ。
僕は今にも抱きついてきそうな彼女の肩を掴み、そっと離した。
「すみませんっす、でも僕は……帰らないといけないんすよ」
ノリノは困惑するような、期待を込めたような顔をして下がった。
「帰るって……何か思い出したの? モクズ君……」
僕は民衆に囲まれて、ぐちゃぐちゃの肉片になるまで叩き潰された、ウミノの方を見つめた。
「今は……そうっすね。僕といた赤髪の男がゲーブルトって名前で、僕の敵だったって事っすかね……」
ノリノは口に指を当てて、僕の視線を追った。
「なにそれ、ウミノの本当の名前?」
そしてその瞬間、町民達がざわめき出した。
「こいつ、生きてるぞ!?」「こんな姿なのに……!?」
僕の視界に映る、町民達の足の間のその向こうで、血溜まりに浮いた彼の手が、ピクピクと何かを求めるように蠢き出していた。
僕は立ち上がり、ノリノの手の中にエメラルドの指輪を握りこませた。
「僕……また、旅に出ないと行けないんすよ、多分……。だからこれは、ノリノさんが持っててください」
ノリノは村の炎で反射する、指輪に嵌め込まれた緑色の輝きを瞳に写していた。
「旅に出るって、帰るんじゃないの……?」
「帰るために行くんすよ。僕にとってこれは、最初から帰り道の途中の物語なんですから……」
そう言うと、ノリノは僕の腕に腕を絡めて顔を寄せてきた。
「なにそれなにそれ、良くわからんけど、ウチもついてって良い!? オヤジに置いてかれてさぁ、身寄りの無いこのノリノちゃんを!!」
僕は震える手で腕からそっと彼女を引き剥がし、指輪を持たせた手のひらの上へと手を重ねた。あまりにノリコであり過ぎるこの子の温もりが、僕にとってはとてつもなく尊いものに感じてしまう。
「すみません……。僕がこれから行く所……危ないって言うか、無理って言うか……」
声が震えだしていた。
この世界はドグマの中に記録された世界。既に滅んだアルハの世界だ。終わった物語の最後にfinと書かれてピリオドの打たれた世界から、僕が命を持ち出すことはできない。
震えた声を絞り出した僕の顔を見て、ノリノはゆっくりと指輪を掴む手を下ろした。
「そっかあ、なら仕方ないけどさぁ……」
そして、反対の手で身を乗り出し、僕の鼻をピンとつついた。
「君って嘘が下手っぴだよねっ!!」
「嘘……っすか?」
「うんっ! 君が何考えてんのかは知らないけどさ、嘘ついてんのだけは分かる!! でも良いよ、ウチの為に言ってくれてるのだけは分かるし、君は命の恩人だからねぇ!!」
そう言うとノリノは僕に背を向けて、手の中の指輪を摘み、虫眼鏡でも見るかのように目の前に持ってきて見つめた。
「コレ売ったら一ヶ月くらいは生きていけるっしょ!! って訳、まずはおパンツから隠さないとなぁ!!」
言いながらノリノは、破かれて下着だけになった自身の尻をパンと叩いた。
その急変ぶりに僕は唖然として、彼女の背中をただ黙って見つめていた。
するとノリノは振り向かないままで声を震わせ、言い放った。
「いつまで人の尻見てんのさ!! 行く所があんだろ? さっさと行っちまいなよ……!!」
「す、すみません……」
僕は慌てて顔を逸らし、再生するウミノの身体へと向けて、歩き出した。
そしてその背中に、ノリノからの言葉が届いた。
「ウチがアンタを気に入ったのってさ、ウチの船の事をさ、帰る家だって、言ってくれたからなんだよね」
それが僕が聞いた、彼女の最後の言葉だった。
僕が振り向いた時、そこには誰もいなくなっていた。
「ノリノ……さん」
僕はポツリと呟く。
すると青髪のアルハはチャクラムを掴んだ腕で街の奥を指し示した。
「追わないの? そこの死体が敵だって言うなら、私とソグマンで殺しとくけど」
僕は不遜で感情のない顔をする、そのアルハへと視線をずらした。
「いや、ノリノさんも気を使ってくれたと思うんで……。ってか、支持者なのに、やけに親切じゃないっすか……」
アルハはチャクラムをすっと下ろして鎖を鳴らした。
「既にソグマンの物語が終わってると確定したから、どうでも良くなったのよ。ソグマンのドグマが巡り巡ってあなたの手の中にあると言うのならば、私は支持者として、その物語を見つめるだけ」
僕はそれを聞いて、右手の平の中へと球体のドグマを掴んだ。
「そうっすか、じゃあ見ててください。ちなみにっすけど、君の名前は……?」
僕がそう尋ねると、アルハは不機嫌そうに顔を歪めた。
「『ロゥファ』とソグマンは名付けられたけれど。支持者に個体差なんて無いわ。そんな事聞いて、終わった世界だって見下してるわけ?」
「違うっすよ、僕が覚えていたいからです。それにこの物語は、僕は結構好きでしたから……」
するとアルハはチャクラムを腰元のカバーへとカチャリとしまい、足を休めた。
「あっそう、勝手にしなさい」
僕はその言葉に押し出されて、民衆がざわめく中で立ち上がろうとするウミノ……こと、ゲーブルトの前へと迫った。
ゲーブルトは自身の身体が再生したことについて、理解が追いつかないようで、自分の両手を見つめることに必死だった。
「私の身体が、再生していく……死なない、コレは、不死の権能!?」
僕はそこへと民衆の間を割って入り込んでいった。
「あ、あのすみません……ちょ、ちょっと前いいっすか……? すみません……すみませぇん」
僕がほぼ再生を終えた彼の前へと立つと、彼は両腕を広げて口角を吊り上げ、僕へと迫った。
「おお、モクズ君……!! 無事だったか!! 私もどうやら無事なんだが、我々が海賊の言いなりだった経緯の、証人になってくれんか!!」
僕は民衆にもみくちゃにされた髪を軽く持ち上げると、彼を見上げてドグマを突き出しながら回答した。
「僕は、僕が誰なのか分かったっすよ」
「……ん? なんの話だね?」
「あんたはまだ、なんで自分がここに居るのか分かってないんすか……」
ゲーブルトは周囲をチラチラと見ながら、腰を屈めて僕へと近寄ってきた。
「な、何を言っているんだモクズ君。私たちは共に海を漂流し、海賊に捕まっていたんじゃないか」
彼は口元に手を当て、内緒話のように顔を近づけてくる。
僕は引かずに睨み上げていた。
「死なない体だって分かったのに、何をそんなに怯えてるんすか」
するとゲーブルトは周囲を気にする目をゆっくりと僕一点へと向けて、低い声で言い放った。
「なんだ、怒っているのか? 私にはなんで君が、そこまで敵愾心を剥き出しにしているのか、分からないのだが……?」
それに対して僕は手のひらで光る球体のドグマを、ヤツの顔の前へと突き出した。
「お前が僕を奪ったからですよ。お前が僕を奪った。だからお前はここにいる」
ゲーブルトは目を細め、僕のドグマの上に軽く手を重ねた。
「哲学的トンチはやめてくれ。今は状況が状況だと言うことを……」
その言いかけを、即座に潰して言い返す。
「僕は思い出したんすよ。ゲーブルト・ヴァングリフ。それがお前の名前で……」
僕が言い返すと、それをさらに被せるようにゲーブルトの顔が迫った。
「だから分からんと言ってるだろう!! 本名がなんだ、今必要なのか、それはっ!?」
僕は迫るその顔へとドグマの白球を押し当てた。
「お前を殺せないから、僕はお前を精神世界の迷宮に連れ込んだんすよ。ドグマが記憶した物語、その途方もない記憶の海。それが僕たちの今いる世界なんすよ!!」
それを聞くとゲーブルトは額に指を当てて、腰を引いて起き上がった。
「やれやれ……コイツは相当、頭に来てるな……」
それと共に囁きが重なり合って、周囲の民衆のざわめく声が聞こえていた。それは明らかに、僕が意味不明な事を叫んでいる、頭のおかしい奴だという声だった。
だが、そんな事は分かっている。
実際のところ僕にだってこの状況は意味が分からないに等しく、この先の事など見えてはいない。
この男の死は、現実世界では意味をなさない。チャイルド オファーという、自身の子供を自身が乗っ取る能力によって、この男はいくらでも逃げ続けることができるからだ。
だから僕は不死身のゲーブルトを、このドグマの無数の記憶の中へと引きずり込んだ。5000兆という途方もない物語が渦巻く世界の中で、僕は今戦っている。
僕が自分だけの物語を見つけて、現実へと帰ること。
ゲーブルトが自分を見つけることができずに、帰れないこと。
その二つを同時に成すことでしか、僕はこの男にカタをつけることはできない。
だから逃げるならば、この男の方向だ。
「そう、分からないんすよね、自分自身が誰なのかも……」
「そうだ、記憶喪失っ!! 医学的にも認められ、数多くの実例がある、脳のショックによる一時的な疾患だっ!!」
僕は再びゲーブルトの胸元へと、ドグマを押し付けた。
その瞬間、僕たちの頭上に白い布が広がった。
ソグマンのドグマ能力による、意思があって広がる布だ。
「何を言い争っているのかは分からないが、まずは確保する……っ!!」
ソグマンの英雄たる立ち振る舞いに、周囲の民衆の期待は、ソグマン一人に集まっていた。そんな中で、ロゥファだけが僕に向かって身を乗り出していた。
「どうする気なの!? スゴミ……!!」
僕はロゥファへと軽く視線を送り、一言を呟いた。
「ありがとうっすよ、ロゥファさん。君とソグマンが来なければ、僕は後ろへと、進めませんでしたから……」
それと共に僕らの頭の上を布が覆い、周囲の視界のすべてが遮られ、僕とゲーブルトの二人だけの密室が完成した。
その空間が形成される中で、僕は唱えた。
「お前の名前はゲーブルト。あんたの核心はどこにある」
「核心……っ!? 何、なんの話を……っ!!」
ドグマが強く光を発して、白布に包まれた暗闇が逆に全周囲真っ白に反射する、光の中の空間のようになった。
そして意識は溶けていく。
ドグマの記憶の渦の中で、次の物語を求めて。
この記憶の海の放浪自体が正に、僕のこの男との最終決戦のフィールドだった。




