第333話・誰の力が誰を成す。8
遠く果てない朱の空から、一生代わり映えのしない渡り鳥の鳴き声が、どこか現実離れした響きとなって落ちてくる。
クワァ! クワァ!
絶望的に単調なその鳴き声に合わせるように、冷たい海面が、サパン、サパンと、無限に続く音を立てて僕の身体を絶えず揺すっていた。東も西も、南も北も、視界を埋め尽くすのは終わりのない黄昏の海だけだ。その水深すら計り知れない大洋のど真ん中で、僕はただ一本の、空っぽの木樽にしがみついていた。
「うーみーは、広いーけど、なんにーもー無ーい」
喉の渇きでひび割れた唇から、乾いた声が漏れる。腹の底からは飢えを告げる鈍痛が這い上がってきたが、期待する小魚の一匹すら寄ってこない。上空を旋回するカモメの白い翼は、どこまでも遠かった。
「やかましい、無駄に吠えるな……」
僕がしがみつく樽の反対側から、低い声が降ってきた。
赤い髪を総てオールバックに纏め上げた、どこか神経質で、そして言いようのない苛立ちを覚えさせるオッサンだ。彼はクソ真面目に、そしてこの世の終わりとでも言いたげな陰気臭い顔で樽にしがみついていた。
「海で浮いてたら、サメとかすぐ来るのかと思ったんすけど、案外平和なもんすね」
「だからどうした、どの道このままでは、死は免れない……」
僕らはいつの間に海に投げ出されたのか。記憶の糸はプツリと断ち切られていた。海から這い上がったはずの太陽が、今やじりじりと熱を奪いながら、再び海の底へと沈み込もうとしている。僕もオッサンも、自分がなぜここにいるのか、その理由を一欠片も思い出せなかった。
「はあ……もう帰って良いっすか」
「帰れたら、苦労はせん。夜が来る、寝たら……終いか」
オッサンは樽の表面に額を痛々しく押し付け、僕はといえば仰向けに浮かんで、その丸い木肌を不本意な枕代わりにするしかなかった。その時、微かに周囲の温度が下がった気がした。
それは、夕闇の訪れによるものではなかった。
ズシリと重苦しい巨大な影が、僕達の頭上を覆い隠したのだ。見上げれば、漆黒の木造戦艦が、その巨体で夕日を遮りながら威圧的に佇んでいた。
赤髪のオッサンはその黒い巨影を認めるやいなや、必死の形相で樽にしがみついたまま、喉の奥から絞り出すような大声を張り上げた。
「おおーい!! 助けてくれぇ!! ここだ、漂流しているんだー!!」
その凄まじい勢いに気圧され、僕は弾かれたように頭を樽から滑り落とし、頭のてっぺんまで冷たい海水へと沈み込んだ。
「ゴボ、ガボボォ!! いきなり、動かないでくださいっすよぉ!!」
─────水浸しのまま引き揚げられた僕達を待ち受けていたのは、お世辞にも温かい救助とは言えない光景だった。
見上げるほどに太いマストの先端には、潮風に煽られながら、異様な威厳を放つ真っ黒な旗が翻っている。その中央には不気味に笑うドクロのマーク。甲板を歩く船員たちは、片目を眼帯で覆い、あるいは腕の代わりに鉤爪を嵌めた者ばかりで、一癖も二癖もあるどころの騒ぎではなかった。
ドス黒いヒゲを無造作に三つ編みへと束ねた巨漢が、刃こぼれしたサーベルを肩に担ぎ、ギラつく金歯を剥き出しにして僕達の顔へと顔を近づけてきた。鼻を突くのは、火薬と安酒、そして錆びた鉄の匂いだ。
「おめぇら、良いもん着てるなぁ? どこの領家のもんだぁ? ああ?」
皮膚が粟立つような恐怖が全身の毛穴を逆立て、僕は肺に残った空気をすべて奪われたように呼吸を詰まらせた。
「あ、あのひゅ……僕、その……記憶喪失的な、えっと、どこに帰れば、良いんすかねぇ〜?」
対照的に、赤髪の男は冷や汗が滴る濡れた髪をかき上げ、必死の身振り手振りでその場を取り繕おうとしていた。
「今は全て失ってて、何も無いんです、だが、礼だってなんだってする……!! ど、どうかしばらく、ここに置いてはくれないか!!」
その必死すぎるやり取りの横で、僕は船の手すりから身を乗り出し、眼下に広がる黒々とした海面を覗き込んだ。
コイツらと居るくらいなら、あの樽に戻りたい。
本気でそう思い、海に浮かぶはずの木樽を目で探し求めた。
だが、黒ひげの巨漢は容赦なくサーベルを甲板の木目に叩きつけた。硬質な衝撃音が耳を刺す。
「聞きてぇ答えじゃねぇなあ!! 人質の価値もねぇなら、身ぐるみ剥いで海へ逆戻りだぞっ!!」
その威嚇に同調するように、背後を固める海賊どもが下卑た笑い声を上げる。焦点の定まらない瞳、溶けて黒ずんだ歯。誰もが常軌を逸した狂気を纏いながら、シャツの布地をパツパツに引き裂かんばかりの隆々とした筋肉は、彼らのうち誰一人として、僕が敵う相手ではないことを残酷なまでに証明していた。
恐怖に支配された僕は、反射的に上着のジャンバーに手をかけた。
「えっと、脱いだら海に戻っていい感じっすかね!?」
赤髪の男は両膝を甲板に激しく打ち付け、その額を床に擦り付けながら絶叫した。
「どうか、どうか勘弁してくれ、俺は必ず役に立つ……!!」
そして、藁をもすがる思いで顔を上げ、一筋の希望に満ちた目を輝かせた。
「そうだっ!! 君らは海賊なのだろう、怪我人や病人はいないか……。俺は医者なんだ、治療が出来る……!!」
その必死の自己アピールを見下ろしながら、黒ひげはサーベルを垂直に持ち替え、次々と甲板の木床へ突き刺し始めた。乾いた木片が飛び散り、真新しい傷跡が無数に刻まれていく。
「ヘイヘイヘイ!! 俺たちゃ命知らず、泣く子も黙らすホーネット海賊団よっ!! 俺たちゃ生きたいように生き、弱わい奴から死んでいくのさぁ!!」
僕は既に濡れた上着を脱ぎ終わり、ズボンに手をかけた中途半端な姿勢だったが、眼前の暴力と壊されていく床を交互に見つめ、思わずぽつりと呟いた。
「ええと、なんで自分の家に、傷付けてんすかねぇ……」
完全に独り言のつもりだったその言葉は、奇妙な静けさの中、黒ひげの鋭敏な聴覚を正確に捉えられていた。
「ああ!? ほざいたな、聞こえたぞテメェ!!」
「ひぃい!!」怒号と共に振り上げられたサーベルを目の前にし、僕は脱ぎかけのズボンに足をとられて派手にひっくり返った。その瞬間、船体に激しい波が打ち付け、甲板が大きく傾ぐ。
ガキィン!
サーベルは僕がほんのコンマ秒前までいた床を容赦なくへし折った。
吹き抜ける潮風の中で、僕は手すりから身体を半分投げ出した格好のまま、足先だけで辛うじてバランスを保っていた。
「ひぎっ! うおぇえ……」
極度の緊張と身体の激しい揺れにより、空っぽだったはずの胃から酸っぱい胃液が逆流し、暗い海原へと無残に吐き出された。
黒ひげが甲板からサーベルを引き抜き、さらに殺気匂わせる。
「このガキ……つ!!」
トドメの一撃を放とうと踏み出す黒ひげの足音が甲板を揺らしたその時、群がる海賊たちの分厚い壁の向こうから、軽やかな若い女性の声が響き渡った。
「あっはー!! あんたらウチに内緒で、中々面白い事してんじゃないの!!」
どこか耳に残り、奇妙な懐かしさを伴うその声に、僕は手すりにしがみついたまま上半身をねじらせた。
そこに立っていたのは、群青色のパッツン髪を潮風になびかせ、鮮やかな貴族風の赤いコートを羽織った、いかにも一船の『キャプテン』らしい風格を漂わせる若い女性だった。彼女は肩にマスケット銃を担ぎ、高い柵の上に片足を乗せて不敵に微笑んでいた。
僕はその姿を見上げた瞬間、口をただパクパクと動かすことしかできなかった。
「の……ノノノ……ノリコちゃん!? って、アレ?」
突然の叫びに、甲板の空気が凍りついたように静まり返る。僕は反射的に「ノリコ」と口走ったが、自分の脳裏にある記憶のどこを引っ掻いても、その名前の正体は見つからなかった。
女キャプテンも一瞬だけ動きを止め、目を丸くして口を開けていたが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべると、担いでいたマスケット銃を天に向けて引き金を引いた。
ズドンッ!!
実戦用の銃とは思えない、まるでお祭りの花火のような豪快な轟音が海空を震わせ、先ほどまで僕に集中していたすべての視線が、一瞬にして彼女へと奪われた。
「ウチは七つの海をお股にかける大海賊、ノリノ・ホーネット!! ウチのルールでは捕虜はフィフティフィフティだ!! そうだろ野郎共ーっ!!」
その威勢の良い掛け声に、海賊たちは一気に熱狂を取り戻し、「うおお! ノリノ嬢ー!!」「そうだ、フィフティフィフティだぁ!!」と歓声を上げながら彼女の足元へと押し寄せた。
……もっとも、彼女が高い柵の上でスカートのまま片足を高く上げていたため、その下を覗き込もうと真下に殺到している輩が大半であることは、誰の目にも明らかだったが。
しかし、その熱狂の輪の中で、ただ一人だけ頑なに冷めた視線を崩さない男がいた。黒ひげだった。
「おいおい、お嬢ーっ!! コイツらただの漂流者だ! 捕虜ですらねぇ!!」
ノリノは面倒臭そうに足を下ろし、手すりにマスケット銃の銃身をカンカンと叩きつけた。
「黙らっしゃい!! って言うか、この船、あたしん家なんだからね!! その床ちゃーんと直しときなさいよ!!」
僕の視線の角度からだけ見えた黒ひげの顔は、奥歯が砕けんばかりに歪み、怒りと屈辱に満ちた目でノリノを睨みつけていた。
やがてノリノの銃口が、甲板に這いつくばる赤髪の男へと向けられた。
「おまえ、医者って言ったよね!! 名前覚えてないってなら、お前は今から『ウミノ』と名乗りなっ!!」
さらに、銃口はすっかり腰を抜かしている僕へとスライドする。
「そっちは『モクズ』だ!! 良いね!!」
僕は向けられた銃口から身を隠すように無意味な手のひらでシールドを作り、身体を小さく丸めた。
「ひぇ……っ!! は、はいっす!!」
さらにノリノは、船室の暗がりへと銃口を軽くあしらうように向けた。
「病人が居るんだよ、お前らちょっとついてきなっ!!」
その指示を受けると、たった今『ウミノ』という名前を与えられた赤髪の男は、潮水でぐっしょりと濡れた白衣の裾を不器用に整えながら、すっと立ち上がった。
「はいっ! わたくしウミノが参りますっ!!」
こうして、僕もまたその後に続かざるを得なくなった。
僕は何をやっているのだろう。
何も覚えていないというのに、忘れたことがとてつもなく大きかったんじゃ無いか。そんな不安がただ渦を巻き続ける中、日の暮れた船内へと足を進めるのであった。




