第304話・僕の原点の罪。
喉の奥が詰まるような、生乾きの米糊のような匂いがする。
コンクリートの匂いだ。僕は今、ドラキールの路上のひんやりとしたコンクリートに背をつけている。
小学校の頃、タルのような米糊が配られて「米だから大丈夫!!」とか言って食ってるくだらない馬鹿が居た。どうでもいい思い出だ。
そして同時に、食パンに塗ったイチゴジャムのような甘酸っぱい香りがする。食パンの酵母の匂いと混ざり合う甘みに、プチプチとした小さな種の食感が重なって、忘れがたい給食という幼い頃の小さな楽しみを想起させる。
これはデフィーナの香りだ。彼女は僕を抱きしめるように、上に被さっている。聖典さんの贖罪の光の射程から僕を助け出そうとして自滅し、僕を地面へと押さえつけている。
そんな哀愁の溢れる匂いの混合に鼻腔をくすぐられながら、僕の意識は光に落ちていた。
そして、感じる匂いの質が変わっていく。
気づけば感じるのは、塩素の匂いだった。
食塩の状態では無臭でしょっぱいだけなのに、塩素になると途端にツンとした匂いに毒を帯びるという、僕にとっては納得のいかない、混ぜると危険な匂いだ。まあ、どうでも良いけれど。
塩素の匂いだとハッキリ分かるのは、プールの匂いだ。
プールから出て身体を拭いたあとのタオルの匂い、みんなの生乾きの髪が教室に独特な空気感を作り出す、あの匂い。
そしてひんやりしていた背中はジンジンと暑くなり始め、地下都市に居たはずの僕の耳に、聞こえるはずの無いセミの声がジィジィジクジクと、やかましい音域をねじ込んで来る。
僕は気付けば、小学校の廊下に立っていた。
窓の外は木の枝に緑の葉があり、フェンスの上端が見えるという二階の景色。セミの声が近いのはこのせいだろう。
見上げるクラスの表札は『2-3』。僕の小学二年生の時の教室だった。
「なんで、学校……」
僕は一人、ポツリと呟いていた。
すると僕の背中からデフィーナの声がする。
「共感覚の効果かしら。聖典の贖罪の光が、罪の在り処へ連れてきて居るのね」
「罪の在り処……」
僕はデフィーナへと振り向いた。
「デフィーナさんの罪って、なんだったんすか?」
デフィーナは眉を跳ねて腕を組んだ。
「知らないわよ。私別に悪いことしてないでしょ」
「そういう認識だったんすね……」
あの毒舌で、最初は僕を殺そうとまでした彼女が、罪の意識を一切持ってないと言うのも図々しい話だ。
「でもデフィーナさん、頭光ってましたけど……」
「さあ、知らないわ。コレ、あなたの記憶なんでしょ? エリオットみたいに罪を認めなければ、贖罪の光は無効化出来るんじゃないの?」
「出来れば、良いんすけど……」
僕がそう呟いた瞬間だった。教室の中から、女子生徒の悲鳴が聞こえてきた。
「いやっ! 触らないでよっ!!」
僕とデフィーナは、記憶の再生が始まったのだと気づき、廊下から教室内を覗ける窓へと近寄った。
教室の中は水泳の授業の準備中の休み時間のようで、男女生徒が分け隔てなく自分の机で体にポンチョ型のタオルを巻いて着替えをしている所だった。
そして、事件が起きていたのは教室の中で一番日陰側となる、廊下のすぐ側の最前列の女子生徒の席だった。
他の生徒が女子も含めて着替えている中、その席の女子だけは席に着いたまま、黒いパーカーにフードを被っている。
その女子の机の前と横に、海パン一枚に水泳帽とタオルをマントのように巻いた、海賊の如き二人が群がっていた。
その片方の顔はぼやけたのっぺらぼうと化していたが、もう一人の顔に僕もデフィーナも目を見開いていた。
「シゲルじゃないの!? コイツ……!!」
デフィーナは声を荒げて教室窓へと拳を叩きつける。窓は揺れたが生徒達はコチラには一切気付いていない。記憶に干渉など出来はしないという事だ。
僕は眉を寄せて呟いた。
「居たんすよ……小二の春から、同じクラスで、いじめっ子だったシゲルってやつが……」
「そんな事って……」
デフィーナは僕を見て教室を見ると、力なく指を窓枠へと滑らせた。
小二のシゲルは、パーカー女子の顔を覗き込んでいた。
「なあ、お前、前の体育も水泳サボってたよなぁ!! ずりぃなあ、そんなにサボって良いのかよぉ!!」
パーカー女子は何も答えず、顔を逸らしてパーカーのフードをつまみ、深く顔を隠した。その態度にシゲルは怒りを爆発させる。
「おい聞いてんかコラッ!! てめぇこのクソあちぃのに長袖着ててよぉ!! 見てるこっちも暑苦しいっつうんだよ!!」
シゲルは女子のフードを乱暴に掴むと、皮をむくようにして女子の顔をさらけ出させた。
顔を出したのは、黒髪のショートに赤い瞳をした女の子、僕の物語に一番最初に登場したアルハだった。
「アルハさん……!?」
僕には小学生の時にアルハと同じクラスだった記憶など無い。支持者としてのアルハに出会ったのも、ドグマを掴んで天使さんが降りて来た『物語の始まりの日』が初めてのはずだった。
だが前に死にかけた時に、教室の空間で見た記憶を思い出していた。
僕の7歳の誕生日の朝に、教室の黒板に書かれていた相合傘。僕の隣に添えられていた名前『白羽 歩波』。読んでそのまま、シロハネ・アルハ。
「僕って、もしかして、忘れてるだけで、アルハさんが幼なじみだったんすかね!?」
僕の記憶の中の出来事だ。僕以外に分かりようの無い事だが、僕はデフィーナへと縋るように問いかけていた。
デフィーナは黒髪のアルハを見つめながら、驚愕に染まった顔で瞳を震わせている。彼女はアルハと全く同じ顔立ちの、金色の瞳で僕の事を見上げて眉を寄せた。
「コイツ、支持者じゃないわよ? アルハの目の記憶に、コイツの記憶は残って無いもの」
「いや、どう見てもアルハ……」
僕はシゲルに掴まれて薄く目を細める赤い瞳を見つめていた。
「僕たぶん、この子の事、好きだったんすよ……。この出来事の後、忘れちゃうんすけど……」
デフィーナは僕の発言を信じられないという顔をしながらも、教室の中を再び覗き込んだ。
シゲルは黒髪女子のフードを引っ張り上げて、座席から立たせていた。
「おいっ! サボり魔ァ!! 水着は持って来てんのかぁ!? サボらせねぇからな!! 着替えるの手伝ってやるよ!! ギャハハハ!!」
「いやっ! やめて、やめてよ!!」
黒髪女子は必死に暴れているが、周囲の生徒よりも頭一つ身長の高いシゲルからの吊り下げに、抵抗する力など持っていなかった。
そしてシゲルは、隣の席で大人しく着替えていた男子生徒の尻を思い切り蹴とばした。
「おい、テメェも手伝えよっ!!」
ズボンの上からでも高い音が鳴り響き、男子生徒は黒板の前までよろけて倒れ込む。男子生徒の顔もまたボヤけたのっぺらぼうだったが、彼は酷くおびえた様子で体勢を立て直すと、頭を落として無言でシゲルに従った。
シゲルが黒髪女子の腕を引っ張って広げ、パーカーの正面のチャックを乱暴に引き下ろした。パーカーの下は薄手の黒いTシャツで、汗を吸ってジトリと垂れ下がっている。
シゲルの目配せに、顔無しの相棒男子が女子のもう片腕を取って、両腕を広げさせた。
その光景にクラスの全員が、見てみぬふりをして声を潜めていた。
「おらっ! お前がめくれ!! 押さえてるからよぉ!!」
シゲルが弱気男子に命令すると、彼はノソノソと進んで、目を逸らしながら女子のTシャツを捲り上げた。
女子はアゴを上げて泣き顔で、息を殺して耐えるのみだった。
僕の横でその情景を見ていたデフィーナは、歯ぎしりをしながら窓へと拳を押し付けていた。僕もそのあまりの酷さに目を細めていた。
だが、弱気男子が女子のシャツを胸元辺りまで持ちあげた瞬間に、左腕をおさえていた相棒男子の声が裏返った。
「う、うわぁ!!」
相棒男子は女子の腕を解放して後ろへと倒れ、後ろの席の机を巻き込んですっ転んだ。
その反応に、シゲルが怒鳴りつける。
「おいっ! なに離して……うああ!!」
だが、シゲルも声を裏返して女子の腕を放し、黒板まで引き下がってドンと背中を打った。
「バ、バケモノ……!!」
シゲルの言い返しはそこまでだった。
マントのように羽織った着替え用のタオルで自身の正面を隠し、目を逸らして顔を青くしていた。
そして、その瞬間に、廊下から僕が現れた。
小学二年生の頃の、幼い僕の姿だった。
幼い僕の表情は怒りに燃えており、教室の扉を勢いよく開くと、拳を硬く握りしめて、振り上げていた。
「お前ら!! なにやってんだ、それってイジメじゃないのかよ!!」
そして僕は、真っ先に弱気男子の顔を殴りつけに行った。弱気男子は鼻血を出して吹き飛び、教卓へと背中を打って倒れ込んだ。
僕が真っ先に弱気男子を殴ったのは、教室に入ってきた時点で、ソイツが女子のTシャツを持ち上げたまま、固まっていたからだ。
弱気男子の手が離れた事で完全に自由になった女子は、すぐさま自分の正面を隠して、机へと頭を擦り付けるようにうずくまった。
そして、それに機を得たりと言った所か、シゲルが 再び威勢を取り戻していた。
「なんだテメェ!! 邪魔しようってのかよ!!」
シゲルは介入した僕の腕を捻り上げるように掴んだ。そのあまりの腕力に、僕は一気に体勢を崩す。
「テメェ、俺の邪魔したよなぁ!! シメてやるから、ツラ貸せや!!」
言いながら、シゲルは僕の腕を無理矢理に引っ張り、教室を出ようとした。
結論から言えば、シゲルの行為は中止と言う形で既に終了済みだった。しかし『邪魔されたから失敗した』にした方が、自分の失敗を無かった事に出来る。そんな浅はかな取り繕いに、誰もが気付いていたが、口には出さなかった。
そこでシゲルは、戸惑い続ける相棒男子へと一喝を下す。
「ボケッとしてんな、お前も来るんだよ!!」
そして嵐のような教室でのひと悶着は過ぎ去り、僕を引っ張ったシゲルは廊下の奥のトイレの中へと消えていった。
僕はその光景を見て息を飲んでいたが、デフィーナへと説明するように呟いた。
「僕……この後の事は、覚えてるんすよ。めちゃくちゃに殴られて、便器に落とされるんすよ……」
するとデフィーナは振り向き、冷たい視線で僕を見上げた。
「これがあんたの、一番重い罪なの……?」
「ちょっと、分からないんすよね……」
僕は再び教室の中を覗き込んだ。
さっきまで他人事のように振舞っていた顔の無いクラスメイトたちが、パーカー女子の元へと集まって彼女を励ましていた。
そして、弱気男子は何事も無かったかのように立ち上がると、静かに教室を出ていった。
僕は呟いた。
「でも僕は、するべき事をしたって思ってたんすよ。殴られて痛かったし、便所は臭かったけど、それでも別に、それは大丈夫だったんすよ……」
僕の視線は教室の中へと戻る。
「でも僕が教室に戻ってくると『最低』って言われるんすよ……」
そうだ、僕の記憶は淡くて曖昧だったが『最低』。それだけがハッキリと記憶に焼き付いている。
『最低』の言われたその日から、僕の世界は崩壊した。
だから僕はこの日以来、学校に行くのをやめたんだ。
九年間の引きこもり生活。
その原点がこの日の出来事だった。
デフィーナは難しい顔をして腕を組んでいた。
「最低って、誰が言ったのよ。ソイツ頭おかしいんじゃない?」
僕は伏せ続けるパーカー女子の黒髪をじっと見つめていた。
「多分、アルハに……。白羽 歩波が、僕に最低って言ったんすよ……」
「はぁ? 助けられたのに……?」
「なんでなんすかね……。だから僕、人を助けるのは怖いって、ずっと思ってたんすよね……」
「ふーん。まあとにかく、聖典の贖罪の光の罪の意識がこれだってなら、別に死ぬこと無いんじゃない? どう見てもスゴミが悪いようには見えないし」
「そうなんすかね……」
僕は心の中のモヤモヤに駆られながらも、アルハの後ろ髪を眺め続けていた。
すると、机に額を当てていたアルハの顔が、スッとこちら側へと振り向いた。
真っ赤な真っ赤な、血の色の瞳を認識すると共に、アルハの上半身の下から、机の上へと血だまりが、ドロリドロリと広がり始めた。
「……ッ!?」
あまりに突然の悍ましい情景に、僕は一歩、身を引いていた。




