第296話・能力の起源。
アキュレは、細い身体を静かに震わせていた。
華奢な指がネオさんの背中にしがみつく。直前まで彼女が大切に抱えていた自爆スイッチが、カタリと乾いた音を立てて床を転がった。
ネオさんはアキュレをしっかりと抱き寄せたまま、乱れた髪をゆっくりと撫でる。
「よく言ってくれた。怖かったな……?」
「はい、とても……とても怖いです……。私……」
アキュレの細い声は泣き震えていた。だが、熱を帯びた頬は紅潮し、潤んだ瞳は恍惚として目尻を歪ませている。
ネオさんは強く、しかし落ち着いた口調で彼女を励ました。
「大丈夫だ。私達が必ずお前を守ってやる」
アキュレは返事の代わりに、ネオさんのジャケットに指を突き立てるように食い込ませ、その胸へと顔を埋めて小さく頷いた。
「ゲーブルトが今どこに居るかは、分かるか……?」
「……局長は、あなた方に会った後、カラスになって第三層へ登っていきました。その後は追っていませんが……戻ってくる時は必ずカラスの姿なので。今、戻っていないことだけは分かります」
「そうか……」
ネオさんの表情に一瞬だけ安堵の色が浮かぶ。しかし、彼女はすぐに息を整え、冷静に問いを投げかけた。
「ゲーブルトの能力は遺伝子操作。見えている範囲では、虫を含むあらゆる生物への変身、人間への変身時は記憶すら読み取る。それに体細胞の再生が加わる……。それで合っているか?」
「はい……」
アキュレの静かな肯定に、デフィーナが足を投げ出して苛立ち混じりに顔を歪めた。
「……で、それをどうやって見つけて殺すのよ?」
ネオさんはデフィーナの方を向きかけた。しかしアキュレがさらなる抱擁を求めて強く胸へと顔を押し付けると、少し照れくさそうに彼女の頭へ手を置いた。
「方法は情報が揃ってからだ。アキュレ、ゲーブルトの能力ついて知っている情報は、全て教えてくれ」
アキュレは胸に顔を押し付けたまま、くぐもった声で告げる。
「能力の全貌は……私も知りません。ですが、局長は遺伝子を取り込んだ者の姿に変身し、その者が持っている『心核能力』を、全て使うことができます……」
その一言が、部屋の空気を凍りつかせた。
僕は思わず震える右手を後頭部へやった。
「なんすかそれ……。めちゃくちゃじゃないっすか……」
デフィーナも顔を青くして、伸ばしていた足を慌てて引き込める。
「じゃあここまで来るまでにいた、透明男も、ロープ男の能力も、全部アイツが使えるって事じゃないの……!?」
ネオさんの声が、硬く低く響いた。
「……そういうことだな」
アキュレが続ける。
「それに、二人以上を混ぜて変身すれば、能力を同時に複数使うことも可能です……」
情報の重みに、ネオさんが息を止める。
「それが、アイツの手数が『400万通り』に及ぶ理由か……」
「はい。能力者137名と、変身可能生物153種。その組み合わせをすべて局長の能力として計算しています」
僕は絶望的な気持ちでデフィーナを見つめた。
「そんなの、対策のしようがあるんですか……? ゼロ時間会議、常にしながら戦うとか……?」
デフィーナが僕を睨みつける。
「それってずっと手繋ぎしながら戦うって事? 無理があるでしょ」
二人のやり取りを他所に、ネオさんは真剣な眼差しでアキュレを見つめていた。
「……心核能力者137名。その数字の出処はどこだ?」
「局長の『カルテ』です。データベース内に、局長の研究内容が記録されています」
「それはどこにある!? 私に見せてくれ!」
ネオさんが食い気味にアキュレの肩を掴む。
アキュレは頬を染めながら、ふらりと立ち上がり、机の前のモニターへ近づいた。
「あの、この中に……入っています」
周囲を不安げに伺いながら、彼女がモニターに指先を触れる。
ネオさんは即座に倒れていた椅子を立て、アキュレを座らせた。
ポラリスもネオにすがるようにして画面の横に張り付く。
僕とブリアン、デフィーナもその後ろに立ち、モニターを覗き込んだ。
ストームだけは壁に背を預け、再び仮眠に入っている。
そこにあったのは、ブラウン管特有の鈍い光を放つ、あまりに古めかしいモニターだった。黒い画面に、毒々しい緑色のデジタル文字が脈打つように並んでいる。
アキュレが慣れた手さばきでキーボードを叩く。カチャカチャ、という硬質な音が静かな部屋に響き、画面が切り替わる。出てきたのは『カルテ』のメインメニューだった。すべてがカタカナで綴られた画面は、現代のスマホに慣れた僕には暗号のように見えた。
ネオさんは迷いなく画面に目を凝らし、アキュレに指示を出しながらページを捲っていく。
最初にネオさんが気に留めたのは、『ガイリャク』という項目。アキュレにページを開かせると、ネオさんがそれを読み上げた。
「始まりは、一人のクランケからだった。その男はエクリプスを捕食したと言う。男の右腕は腰周り以上に肥大化し、肉は鋼鉄のような硬度と重量に変質していた……」
デフィーナがその場に座り込みそうになるほど顔を青ざめさせる。
「ありえないわ、エクリプスを……捕食したですって……」
僕も言葉を失い、口元を覆った。僕の身体に同居する『零極さん』もエクリプスだが、容姿端麗な彼女は例外だ。通常、エクリプスといえば死肉を黒い装甲でギチギチに締め上げた、腐りかけの悍ましい化け物だ。
「そんなの、食うやつが居るんすか……」
「飢えに苦しむ被災地での噂は聞くが……エクリプスの肉は、焼こうが何しようが一口で即死する猛毒って話だぞ……」
ネオさんは眉間に深い皺を寄せながらも、止まることなく続きを読み上げた。
「彼を本研究のクランケNo.1として、エクリプス捕食時の体質の変化、細胞の組成について調べる事を、本研究の第一の目標とする……」
ネオさんの顔が、憎悪の色に歪んでいった。
「クランケNo.1、ヒグツワ・シゲル……」
ネオさんの口からその名前が零れた瞬間、デフィーナの声が裏返った。
「はあ!? シゲル……!? あいつが最初の心核能力者だって言うの……!?」
僕も腸がねじ切られるような不快感に襲われ、思わず目を細める。
「アイツが……この最悪な研究の、すべての始まりだったんすよ……」
部屋に重苦しい空気が立ち込める。アキュレが小さく肩をすくめ、怯えたように動きを止めた。それを見たネオさんはアキュレの背中を優しく撫でつつ、僕たちを鋭く睨みつけた。
「……大きな声を出すな。アキュレが怖がるだろうが」
ネオさんの声がかすかに震えている。無理もない。
ヒグツワ・シゲルの名は、彼女にとって最愛のナラクさんを奪い、メイアさんを殺した因縁の相手だ。憤怒が渦巻いているはずだ。しかし彼女はそれを必死に抑え込み、毅然とアキュレへ向き直った。
「……すまない、次へ行ってくれ」
アキュレは無言で頷き、震える指でキーボードを叩く。画面の文字列がスライドする。ネオさんがそれを読み上げる。
「エクリプスは人間を捕食して成長する。百名程を捕食したエクリプスは、頭部の中心部に「醸成コア」を生成する。そのコアを人間の脳内に移植すると、九割の被験者は死に至るが、生存した場合に能力形質を獲得することがある」
ブリアンが眉を寄せて口に手を当てた。
「なんて実験してるのよ、コイツ……酷過ぎるわ」
背中に冷たいものが走った。
「この『醸成コア』って、つまり……ドグマの事なんじゃ……?」
零極さんに聞いた、エクリプスは人間の細胞由来の、ドグマを集めているという話。それを人間に移植して能力者にするなどという狂気。しかしドグマが感情に応じて能力を与えると言うのは、納得のいく事実でもあった。だが、僕だけが使えるハズの力を、強制的につかえるようにすると言う事には、強い吐き気を覚えた。
その時だ。
僕の左腕が、意思を持って黒く変形し始めた。空気中の水分が一瞬で凍りつき、周囲の空気を締め上げるような不快な冷気と高い金属音が部屋に響き渡る。
隣にいたブリアンが反射的に飛び退いた。
「ちょっ、スゴミ! あなた何したのよ、その腕……!」
「あ、いや、その……! 零極さん……っ、頼むから勝手に出てこないでくださいよ!」
僕は慌てて右手を使い、暴れる左腕を無理やり押さえ込む。
すると、僕の声帯を乗っ取って、零極さんの冷徹な声が直接部屋に響いた。
「スゴミ君。エクリプスは、君一人のためだけにドグマを集めているのです。他の人間に渡すなど、あってはならない事です……」
僕の左目が、僕の意思を無視してギョロリとアキュレの後頭部を射抜いた。
その冷たい殺気に、背筋の冷汗が逆流する。
耳元でブリアンの悲鳴に近い声が飛ぶ。
「零極って誰よ!? ノリコだけじゃなくて、また新しい人間を取り込んだの!?」
「違っ……! いや、そうなんですけど、今はそれどころじゃ――っ!!」
制御の効かない左腕が、僕の視線の高さまでせり上がる。カタカタと痙攣する黒い指からは、白い冷気が濛々と噴き出している。
しかし次の瞬間、零極さんは拳を握り込み、僕の声帯を使ったまま、淡々と告げた。
「スゴミ君、これは我々の敵です。……既に移植手術を受けてしまった者には言及しません。ですが、これはドグマの物語において、あってはならない禁忌です。いざという時は、迷わずゼロ時間会議を使ってください」
「わ、分かったっすよ!! ……怒ってるのは分かったから!」
僕が喉を詰まらせながら叫ぶと、黒腕はスッと霧散するように元のグローブの姿に戻った。
零極さんの気配も、潮が引くように消え去る。
部屋には重い沈黙が戻っていた。
アキュレは顔面蒼白で机に突っ伏し、全身をガタガタと震わせている。
ネオさんが彼女の耳元で、壊れ物を扱うような繊細さで囁いた。
「悪いな……。騒がしくて怖がらせた。……続きを頼むよ」
「……はい」
ネオさんが次に開くように指示をしたのは【クランケ・リスト】だった。




