第295話・勝利の確率。
彼女は恐怖に沈んでいた。
彼女の恐怖への向き合い方は、依存だ。
それは彼女の所作を見ているだけで、痛いほどによく分かった。
アキュレは自分よりも年下のポラリスの胸に抱き寄せられながらも、甘えるようにヒザを畳んで小さく縮こまり、エリオットから託された花の自爆スイッチを胸元へと抱え込み、止まらない震えを反芻していた。
ネオさんは彼女の肩へとそっと触れる。
「何故断る? お前もゲーブルトが怖いんだろ、忠誠で言ってるのなら、アイツはそんなもの、平気で握り潰すぞ」
アキュレは泣き入りそうな、掠れて震えた声で答える。
「忠誠……では、無いです。ただ……あなた方では、局長を倒す事は、出来ません……。だから私は、逆らいたくないんです……」
アキュレの一言に、大剣を枕にして寝転んでいたストームが、ひょいと飛び起きてアキュレを睨んだ。
「なんだテメェ、舐めてんのか、戦ってもねぇのにそんな事、分かるわけねぇだろ」
アキュレはストームの威圧感にビクリと肩を跳ねさせ、視線を泳がせながらも返した。
「あの……例えば、今この部屋に局長が居て、あなた方と戦闘になったと仮定します……」
アキュレの紫紺の瞳が、奥から怪しく光り始めた。
「その場合に起こりうる交戦パターンは48億3522万2545通りなのですが……あなた方が局長を倒すパターンは、ひとつもありません」
弱気な彼女の瞳が、その瞬間だけは確信に満ちた冷徹な強さを放っていた。
「……あなた方の勝率は、0%です」
その一言に、室内の空気が凍りついた。
想像もつかないような膨大な数を並べられ、0%という完全な否定を叩きつけられている。彼女が優秀であるというネオさんの評価が高いほどに、その数字は越えがたい高い壁として重く圧し掛かった。
だがデフィーナは眉を跳ね上げながら、腕を組んで不敵に突っ込んだ。
「何? その数字。適当に言ってるんじゃないの?」
強く返されるとアキュレは途端に言葉を失い、無言で肩を震わせて俯くのみだった。
ネオさんは、沈黙に伏した彼女へ静かに問いかける。
「それを計算するのが、お前の能力か?」
「はい……私の心核能力は、暗算です……」
「そのパターンの算出方法は、こちらの手数と、相手の手数、見えている情報の組み合わせの数って解釈なんだが、合ってるか?」
追い詰められたアキュレの瞳に、ほんの僅かな光が灯った。
「はい……その方法で、合ってます……」
それを確認すると、ネオさんはデフィーナへと振り向いた。鋭い眼光には、盤面を読み解く戦略家の色が宿っている。
「アキュレの出した数字は、極めて正確なんだろう。アキュレは私達が部屋に突入する際の行動パターンを1200程度で計算してるのに対して、今は48億と言う数字を出てきた……」
僕はそこまでを聞いて、ネオの言わんとする事の背後にある、戦慄すべき結論に思考が届いた。
「それって、ゲーブルト側の攻撃パターンが、めちゃくちゃ多いって事じゃないっすか……?」
「そう、計算方法は分からんが、単純な掛け算だとしても、ゲーブルトの攻撃パターンは、400万通り近くあるって情報が出てきたな」
そこまでを聞いて、アキュレは身体を畳むように座り込んだまま、反射的に腰をはね上げた。
「え……!? 言ってませんよっ!! 私、局長の情報……っ!!」
ネオさんが再度鋭い視線を向けると、彼女は頭に手を置いて塞ぎ込み、己の口を塞ぐように小さくなった。
「 裏切る気とか、本当に無いんです!! も……もう私に、聞かないで下さい……っ!!」
アキュレは必死に否定しているが、その過剰な防衛反応と怯えきった態度が、滑稽なほどにネオさんの推測の正解を物語っていた。
ストームが大剣を床にこすりつけ、鈍い金属音を響かせながら前に出た。
「訳わかんねぇ数字並べてんじゃねぇよ。敵が何しようが、正面からの一点突破。一撃必殺でぶっ殺せば、死ぬだろうが」
それをデフィーナが冷たく睨みつける。
「アイツ、首落としても、脳天貫いても死なないのよ? 殺せないから考えてるんでしょ」
そんな荒っぽいやり取りを背に受けながらも、ネオさんはアキュレへの説得を続けていた。
「なあ、お前は裏切ったら処罰されるとかじゃない。もう詰んでんだよ。0%の勝率も、私達が対策すれば勝ちの目が出てくるかもしれないだろ?」
ネオは彼女のすぐ傍まで歩み寄り、改めて膝をついた。
「ゲーブルトの能力を知ってるなら、教えてくれ」
その言葉を耳にした瞬間、アキュレは過呼吸を起こしながら机をガタンと跳ね飛ばし、ポラリスを押し退けて逃げ出そうとした。
「ヒ……アヒッ……!!」
必死の形相で部屋の入口へと向かって腕を伸ばすが、腰が完全に抜けているようで、バタつかせる足は床を掴むことも出来ずに虚しく前後するのみだった。
それを見てブリアンが、声を震わせた。
「ネオ……? その子、とても話せるような状態じゃないわ……。一端ココから脱出したほうが、良いんじゃないかしら?」
ネオさんは逃げようとするアキュレの腕を掴み、強引にその場に引き留めた。
「だめだ。アキュレからの情報と索敵が無ければ、ゲーブルトには対抗できない」
それに対して僕も、冷や汗を流しながら恐る恐る意見を述べた。
「そうだとしても、サザナさんに一回報告するとか……」
ネオさんはアキュレの机の上にある、無数のコードの繋がったヘルメットを見つめた。
「索敵装置があるのがこの部屋だ。エリオットはアキュレをこの部屋に残して、悲劇の物語を宣言したんだぞ。アキュレの協力は、絶対に必要な事だ」
ブリアンは抑えきれない憤りに声を荒げた。
「そんな……それって、エリオットの計画に乗せらるって事じゃないの!?」
「そうだ。だがそうするしかないって状況を、エリオットは絶対に準備している。 最低限だ、アキュレの能力を使う事を最低限としなければ、ゲーブルトの悪意と、エリオットの仕掛けに対抗するなんて不可能なように作られてんだよ……」
ネオの言いたい言葉の根拠も、理屈も僕たちには分かっていた。
エリオットという怪物の仕掛けが甘いものではないと言う事は、痛いほど理解しているつもりだった。
しかし、ネオさんに腕を引かれながらも床に這いつくばり、石畳に潜り込もうとするような勢いで震えるアキュレの姿が、僕の目にはどうしようもなく不憫な犠牲者にしか見えなかった。
ポラリスがアキュレの背中へと覆いかぶさるようにして、ネオさんを見つめ、涙ながらに訴えかけた。
「ねぇママ、もうやめてっ!! 私もね、ココから出たいの! ここには怖い人、沢山いて、危ないから……っ!!」
ポラリスの切実な一言に背中を押されたかのように、アキュレはネオさんに掴まれていた腕を、グイと自身の胸元へと引き寄せた。
「私……っ!! あなたみたいに強くないっ!! 死ぬのも怖がらずに、こんな基地まで入り込んできて……。私はあなたみたいに戦えないっ!!」
その声は過呼吸に混じり、嗚咽となって石畳に次々と黒いシミを作っていく。
「来ないで欲しかった。助かりたくなんてなかった!! だって言う事さえ聞いてれば、私は生きていられたのに……!! あなた達が来て、全部壊されて……!!」
彼女は額を床へと押し付け、逃げ場のない惨めさを吐き出すようにしてむせび泣いた。
「怖いの、私は違う。死ぬのは怖いの!! やめて、もう私に、関わらないで……!!」
僕はその、剥き出しの怒りにも似た絶望を目の当たりにし、心臓を冷たい指でなぞられるような強い不快感を覚えていた。
「まるで、僕じゃないっすか……」
その拒絶する姿は、始まりの日の僕自身だと感じていた。
不条理が日常を無慈悲に破壊していくあの恐怖。僕がとっさに取った逃避行動と、アキュレの今の姿が鏡合わせのように重なって、力なき者の恐怖へと僕の心が共感を深めていく。
僕は抗いがたい衝動に駆られて、ネオさんの背後まで歩み寄り、腰を落として言葉を絞り出した。
「ネオさん、やめましょう……。僕のドグマとか応用したら、なにか変わるかも知れないですし、僕……零極さんとも相談出来たりするんで……」
そう言って、彼女の肩へ伸ばそうとした手を、ネオさんは掌の裏で弾き飛ばすように跳ねのけた。
そして、その勢いのまま、彼女はうずくまって丸まっていたアキュレの背中から覆いかぶさり、アキュレの脇から腕を通して胸元を強引に引き上げた。抗う術を失ったアキュレの身体が、強制的に膝立ちにさせられる。
無論アキュレは、そのやせ細った体で必死の抵抗を試みていた。
「いやっ! 離して……触らないで、私……私に、関わらないで!!」
その暴れもがく二人を見て、ポラリスが悲鳴のような声を上げた。
「ママ……!! なにするの!!」
ブリアンも焦燥を顔に浮かべて駆け寄ってくる。
「ちょっと、流石に乱暴だわ!!」
だがネオさんは、アキュレの身体を強引に反転させると、骨が軋むほどの力で、その華奢な体を自身の胸へと抱き込んだ。
「怖く無いワケ、無いだろっ!!」
ネオさんの張り裂けんばかりの叫びが、室内を満たしていた空気を一瞬にして沈黙させた。
ビクンと身体を硬直させたアキュレの耳元で、ネオは今度は先ほどとは対照的な、掠れた声で続けた。
「怖く無いワケ……無いだろ」
その声は、隠しきれない震えを孕んでいた。
「お前は索敵で、見てたんだろ。私もブリアンも、ゲーブルトに姿を奪われてんだよ……」
「ネオ……」
ブリアンが、その告白に押し潰されるように小さく呟く。
アキュレを抱きしめるネオの両腕は、明らかにわなないていた。
「私は姿を奪われてさ、記憶を読まれたんだよ。一番言われたくなかった事を言われた……。子供の頃からずっと一緒だった、腐れ縁のダチが殺されたんだよ。ドラキールの将軍の一人にな……」
ネオさんの瞳からは、小さな涙が零れ落ちていた。
「そいつの事も、読まれた……。ずっと隠して来た、一番大事な感情も読まれちまったんだよ。あの下衆野郎にさ……」
アキュレは震えながら、顔を青ざめさせていく。
その背中を慈しむように、ネオさんの両腕はゆっくりと彼女を包み込んでいった。
「怖く無いワケ……無いだろ? 私が震えてるの、分かるよな? 怖いんだよ、関わりたくねぇんだよ。あのゲーブルトとか言う、クソ野郎にさ……」
それを聞いて、ネオの腕の中で身を任せていたアキュレの手が、細かく震え始める。
「だったら……なんで、死にに行くような真似を……」
「やらないと、アイツを殺さないと私が終わるって、確信があるからだ。アイツはわざわざ私の身体を『取りに来た』と宣言していた」
ネオさんはアキュレを抱きしめる力をわずかに緩め、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「それにヤツが生きてる限り、お前みたいな被害者だって増え続ける」
電気柵が不気味な音を唸らせる、向こう側の玉座へと視線を移した。
「なぁアキュレ。ここは、干上がる寸前の、水溜まりみたいなもんだ」
「水溜まり……ですか?」
「そう、私たちは水溜まりに取り残された魚の群れだ。川に戻る為には、命を賭けて泥の上を跳ねていくしかない」
アキュレはそれを聞いて、スッと頭を落とした。
「それは、無謀な話です……。川に戻れないなら、私は水溜まりから出ないで、少しでも生き延びます……」
「ああ、それも間違ってはいない。だが、魚の中には、川の方向を覚えている奴が一匹だけいる」
ネオさんの両腕が、再び確かな意志を込めてアキュレの背中へと回った。
「それがお前だ、アキュレ。私に道を示してくれ……。私はお前無しではこの先に進めないという、確信がある」
それを聞くとアキュレはしばらくの間、目を見開いて驚愕に彩られた表情を浮かべたのち、ゆっくりと瞼を閉じた。瞳の中に溜め込んでいた涙が、一筋の光を反射して大粒の水滴として零れ落ちる。
そして彼女は、ネオさんの胸へと顔を深く埋め、その体温を貪るようにして背中へと腕を回した。
「局長の心核能力は……遺伝子操作です」
ネオさんの胸元の布地を震わせ、か細い声が漏れ出した。
それを聞いた瞬間、ネオさんはアキュレの小さな頭へそっと手のひらを添え、その髪を慈しむように撫でた。
「ありがとう。その言葉を待っていた」




