第282話・恐れ知らずのギャンビット3。フォースドムーヴ
僕の視界に最も美しく映るのが、あの醜い老婆だった。
チリチリに縮れた前髪に、ゴワゴワと伸びっぱなしになった後ろ髪。整形のシリコンで不自然に膨れ上がった鼻と頬、そしてシワで醜くたるんだ皮膚。
だが、そんな彼女が一番美しくに見えてしまうほどに、背景に広がる黒、赤、緑が混濁した不快な流線が、目にキツく刺さっていた。
「私よっ!! 私だけ、私だけを見てっ!!」
老婆が枯れた声で狂ったように絶叫する。
だがそれ以上に僕へ強烈な危機感を与えていたのは、自分が機関銃を向けられているという確かな記憶と、この身体が自分の意思とは無関係に、前へと歩き続けているという恐ろしい事実だった。
老婆が叫んだ瞬間から、彼女以外の人間に関する記憶がすべて吹き飛んでいる。敵も味方も、汚く歪む背景のノイズに飲み込まれて、認識することすらできない。
僕は反射的に、右拳へヒーローハートの熱拳の光を溜め込もうとしていた。
その時だった。
『ダンッ!』──鋭い発砲音が、すぐ背後で響いた。
「痛っ!!」
僕の右肩を弾丸が容赦なく掠め、ジャンパーを引き裂いて、肌にチリチリとした熱い痛みを残していく。
直後に『ガキン!』という、金属同士が激しくぶつかり合う硬い音が鳴り響き、続けて『タタタタッ!』と機関銃の乾いた連射音が四発聞こえた。
それと同時に、老婆が発動していた視覚を占有する能力が解除される。
背景の歪みは溶けるように掻き消え、元の白い直方体の部屋の景色が、一気に視界へと戻ってきた。
「な、何が……っ!!」
僕には何が起きたのか分からず、ただ痛みにピリつく右肩を左手で押さえていた。
それと同時に、周囲の事態は一気に動き出していた。
まずは、目の前の老婆だ。
老婆は胸に大きな十字の斬り傷を刻まれ、さらに肩からは拳銃で撃ち抜かれた鮮血を流しながら、どこか恍惚とした表情で、指を組んでいた。
「あああっ!! みんなが私を見てくれる。私は人気者、ずっと……ずっと……」
それを最後の言葉にして、老婆は一切の抵抗なく背中側へと倒れ込んでいった。
老婆が殺された。
視界が戻った瞬間、それだけはすぐに理解できた。
次に大きな動きは、左前方だった。武器である双剣を吹き飛ばされて、壁へと激しく打ち付けられているデフィーナの姿だった。
「うぐ……っ! 何してんのよ、私だけで足りたのに……っ!!」
デフィーナは右側をキッと睨みつけて怒鳴っていた。
その視線の先にいたのは、ストームだった。
エンジン付きの大剣を駆動させ、豪快に刃を振り抜いた姿勢のまま着地していたストームは、デフィーナに向かって獰猛に吠え返した。
「あっ!? てめぇが邪魔して割り込んだんだろうがっ!!」
その光景は先ほど聞こえた激しい金属音と、老婆の胸にあった十文字の傷へと、すぐに理解が繋がった。老婆の視界占有中に、デフィーナが疾走して老婆の胸へとクロスソードを叩き込んだ瞬間、背後からストームが大剣を強引に振り抜き、クロスソードごと彼女を弾き飛ばしたのだ。
ならば僕の右肩に走る痛みと、背後からのあの銃声は。
思った瞬間に、背後から動揺に震えながら拳銃を構え続けている、ネオさんの声が聞こえた。
「だ、大丈夫か……。今、一瞬……本当に何も見えなくなって……」
混乱の一瞬。
僕が理解したのは、老婆の能力で視界を奪われたあの極限の危機感を、あの場にいた全員がそれぞれ個人で同時に抱いていたということだ。
僕以外の三名は、即座に危機を察して元凶である老婆への攻撃を行っていた。そしてお互いがお互いの位置を認識できないまま攻撃を繰り出したせいで、危うく同士討ちの大惨事になるところだったということだ。
僕は咄嗟に動けなかったが、もしあの時、自分の意志で前に駆け出していたら、ネオさんの弾丸は僕の後頭部へと直撃していただろう。ストームがデフィーナ本体を斬りつけなかったのも、偶然に過ぎない。
あの狂った老婆一人に対して、こちらのチームに死者が出なかったのは、ただの幸運でしかなかった。
だが……。
僕がその状況を感じ取っている一瞬の間にも、非情に、かつ確実に状況は動き続けていた。
その状況を継続させていたのは、僕に『行かないで』の呪文をかけて、いまだ強制歩行の能力を維持し続けているあの少女だった。
彼女はストームの突撃が巻き起こした衝撃で白い床に尻もちをつきながらも、その顔を恐怖に染め上げ、ただ僕だけを見つめ続けていた。
「やだ、行かないで……! いい子にするから、行かないで……っ」
そしてもう一人。先ほどまで虚ろにタバコを探す素振りをしておきながら、ダートからの攻撃指令が下った途端、その手に機関銃を握り締めた男。
……本当に問題なのは、こちらの方だった。
男は未だに機関銃を構えており、そのトリガーにはしっかりと指がかかっている。銃口からはゆらゆらと白い硝煙が上がっており、先ほど室内に響いた乾いた四連射の銃声が、この男の発砲によるものであることは明らかだった。
男は僕たちの方からはプツリと目を逸らし、老婆のいた場所へと銃口を向けていた。よく見てみれば、倒れ込んだ老婆は、胸だけでなく脇腹も射撃されており、このタバコ男もまた、老婆の『注目』の能力に引きずられて方向転換し、攻撃を開始していたのだと理解できた。
だが、この混迷の直後に、最も激しく発狂し始めたのがまさにこの男だった。
「火……火だっ!! あつ……熱がっ! 誰だ、火をつけたのはぁ!!」
男は喚き散らしながら、肩から下げていた機関銃を床へと乱暴に投げ捨てた。そして、ストームと僕の姿を交互に、首がねじ切れるんじゃないかという凄まじい速度で指さし確認しながら、狂ったように叫び続けた。
「熱……火をつけたのはお前じゃないかっ!! やっぱり、犯人……!! コイツらだ……熱い、お前らが犯人だぁぁー!!」
男が何を言っているのかは、僕には全く理解できなかった。だが、その狂乱の言葉が引き金となり、部屋の中に異変が巻き起こる。
まず反応したのは、ストームだった。
彼はエンジンを唸らせていた愛剣を、床へと無造作に放り出して転がした。
「熱……っ!! 故障かぁ!?」
転がった大剣のエンジン機構の部分が、赤く発熱しているのが見て分かった。
直後、僕の背後からネオさんの悲鳴が重なる。
彼女もまた、銃口から硝煙を上げていた拳銃を床へと放り投げていた。
「熱っ……!! なんだこれ、熱の能力か!?」
そして最も大惨事に見舞われていたのは、ヒーローハートの熱の拳を全力で構えていた僕の右手だった。
僕の右手は、まるで引きずり降ろされた太陽のように凄まじく明るく輝き出し、周囲の空気をドロドロに揺らめかせながら、猛烈な炎を纏い始めていた。
僕自身はヒーローハートの熱能力の一部として最適化されているため、肉体的な熱さは直接感じない。だが、能力の制御が完全に利かなくなっており、右拳から溢れ出す圧倒的な熱量を止めることがどうしても出来なくなっていた。
「う、うあ……熱が……っ、熱が止まらないっすよ……!!」
タバコ男は燃え盛る右拳を掲げた僕だけを凝視しながら、完全に腰を抜かしてガタガタと床を這い、狂ったように指をさし続けた。
「うわぁぁ!! 火だ、やっぱりお前だ!! お前が犯人、お前が放火魔……!!」
「違うって言うか、何言ってるか分かんないっすよぉ!!」
同時に僕の意思を無視して、足はズリズリと床にへたりこんで尻もちをついたままの少女に向かって進んでいく。
背後から、ネオさんが必死に手を伸ばして近寄ろうとしてくる。
「止まれスゴミっ!! 一旦距離を……」
「止まれたらとっくに止まってるんすよ、止まれないから叫んでるんすよぉ!!」
僕が迫っていく先で、引き寄せの能力を発動していた女の子は完全に怯えきり、首を振って激しく泣きじゃくっていた。
「いやぁぁ!! 熱い、行かないで、いやぁ!!」
「ああああ、頼むから止まってくれ……っ!! 能力解除してくださいよ、このままじゃ……このままじゃこの子が──!!」
僕の灼熱の腕が、転んで動けない少女に迫る。
その絶望的な状況を前に、僕の意識の奥から語りかける声があった。
それは零極さんだった。
彼女は冷たい声で、僕に冷酷な選択肢を迫った。
『スゴミ君、君は今から喪失します。選んでください』
「ああ、零極さん……。た、助けて……氷で……」
『はい、ですが喪失は確定します。四つから選んでください。少女の命。火男を殺す穢れ。君の体の全てを私に委ねる事。何も選ばない。失う物を選んでください』
何を意地悪を言っているんだ……? 僕は瞬間、そう思った。だが零極さんは僕に協力してくれてる。選択を考察すると言うには短すぎる時間の中で、僕の感覚と直感は刹那の判断を行っていた。
零極さんの喪失リストから、選ぶもの。
まず、少女の命。 それは今、最も失いたくない代表だ。論外だった。
火男を殺す穢れ。 狂っているが、この人もダートの被害者だ。殺したくはない。
零極さんに身を委ねる……。
正直僕は、コレを選びたかった。僕は零極さんの事を疑っていないし、氷の能力を持つ彼女はこの場を収めるのに最適だ。
しかし、視界にはデフィーナが映っていた。
デフィーナは吹き飛ばされた壁から、驚愕の表情で僕を見つめている。
デフィーナは言った。『意識を零極に渡したら殺す』。
エクリプスに身体を渡す危険性と、ドグマを自立させる危険性。
彼女はそのリスクを知っているからこそ、僕が零極さんになったら、迷いなく殺すと言ったのだろう。
選ぶ事は出来ない。
「そんなの、どれも選べないっすよっ! なんか助けてくださいよぉ!!」
『了解しました。何も選ばない。ですね。全力を尽くします』
零極さんが僕の心でそう囁いた瞬間に、僕の左腕は零極さんの真っ黒な装甲の腕に変わっていた。
左腕が冷気を放ったかと思うと、目の前にいた少女を一気に氷柱の中へと閉じ込めた。
「コールドスリープ……っすか!!」
僕はそれを見た瞬間、安堵に囚われていた。
しかし零極さんは、悲しい声で僕の内部にそっと告げた。
『スゴミ君。これは解決ではありません。君の炎には、私の氷を溶かして進むだけの、力がある』
僕の前進も右腕の発熱も、止まりはしなかった。
僕は氷と炎という、相反する属性を宿した両腕を大きく広げ、氷の中でカチコチに固まる少女へと吸い寄せられるように身体を傾けていた。
僕の意思に反したその動きは、間違いなく、目の前の少女を優しく抱きしめようとするものだった。
その瞬間に、僕は理解した。
少女が発動している、引き寄せの能力の実態。それは置いていかれることを恐れ、寂しさに泣いていた彼女が求めている本質。その終了条件こそが、発動相手に『抱擁されること』だったのだ。
「ちょっとコレ……ッ! 解決になってないじゃないっすか……!!」
僕の叫びも虚しく、過剰に熱暴走を続ける右腕が、激しい蒸発音を室内に轟かせる。焼けた鉄棒のように、少女を守るはずの氷柱をドロドロに溶かしながら、その奥へと強引に食い込んでいく。
零極さんと化した左腕は、せめて彼女を守ろうと、氷を抱きしめてさらにその厚みを増そうと必死に冷却を続ける。
だが、右腕の暴虐な熱は止まらない。僕の右腕は、容易く零極さんの氷のバリアを融解させて突破し、中にいた少女の無防備な背中へと到達してしまった。
ジュウ、と肉の焼ける悍ましい音と共に、焼印の如く僕の手形がダイレクトに押し付けられる。
無機質で白い部屋の四方に、少女の引き裂かれたような金切り声が響き渡った。
「いやぁぁあああ……っ!!」
僕の胸の中で、小さく、そしてあまりにも柔らかな身体が、一気に激しい火炎に包まれていく。
「うぁあああ!! 止まれっ!! 頼むから、とまれぇぇえええ!!」
狂ったように叫ぶ僕の姿を、タバコの火男は、自身の顔を両手で覆い隠しながらも、指の隙間から目を見開いて凝視していた。
「ああ。惨い……焼死体、焼き殺し……っ!! 放火魔、殺人鬼……っ!! お前が……っ! お前がやったんだ……!!」
……最低だ。
僕は誰も傷つけたくなかったはずなのに、結局は最も最低な選択肢しか取ることが出来なかった。




