第十四話:【第二幕:全詠唱の決意】(挿絵あり)
黒い影が前へ出た。
黒曜だった。
迷いはない。
アーガスとトールの前を横切り、そのまま二人を背に隠す位置へ立つ。
母獣との間には誰もいない。
いつもの気怠さも、面倒そうな肩の落ち方も消えていた。
背筋。
肩。
脚。
全身が張り詰めている。
アーガスは黒曜の右手を見た。
指先が空中を走っている。
一本。
二本。
三本。
魔力の線が生まれ、空中で重なった。
見たことのない複雑さだった。
線は互いに結びつき、ほどけ、また別の位置で交差する。
黒曜が息を吸う。
低い声が響いた。
「天を漂う風の精霊よ、我が呼び声に応えよ。大気を裂き、我が身の翼となれ。枷を断ち、限界を越える速さをこの身へ」
速い。
それでも、一語も潰れない。
先ほどのような舌打ちはない。
後略もない。
「高位風魔法」
風が爆ぜた。
黒曜の足元から旋風が立ち上がる。
腐葉が巻き上がった。
砂。
小石。
黒い布。
女中服の裾が風に裂かれ、何枚かの布片が蝶のように散った。
長いスカートに隠れていた脚が露わになる。
黒い武装網タイツ。
その大腿部には、細身のテーブルナイフが数本固定されていた。
黒曜は見もしない。
詠唱を続ける。
「深き地脈に眠る土の精霊よ、我が祈りに応えよ。鋼の皮、岩の骨となり、この身に万撃を拒む壁を与えよ」
足元の土が低く唸った。
「高位地魔法」
灰白色の光が肌の上を走る。
腕。
首。
露出した脚。
白かった皮膚の表面に、石のような鈍い光沢が薄く浮かんだ。
拳を握る音まで硬くなった気がした。
周囲の魔力が激しく揺れている。
術式の構造までは追えない。
それでも、黒曜の身体へ流れ込む魔力量は尋常ではなかった。
筋肉が細かく震えている。
呼吸も、わずかに深くなった。
それでも黒曜は母獣から目を外さない。
「アーガス首席。トール工匠長」
声は静かだった。
黒曜は振り返らない。
「お二人は、ただちに撤退してください。東南方向へ」
「何を」
トールが口を開く。
黒曜が続ける。
「私がここで時間を稼ぎます」
言葉に迷いがない。
アーガスは周囲を見た。
ゲイル。
矮人たち。
負傷者もいる。
その視線を読んだように、黒曜が言った。
「私が受けた命令は、アイアンソーン家の保護です」
一拍。
「他の方は、優先対象に含まれていません」
空気が冷えた。
誰も言い返せない。
その口から、自分が生きて戻る話は一度も出なかった。




