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第十三話(下)-【第四幕:女中の嗜み】

 森に静けさが戻った。


 聞こえるのは、揺れた枝から落ちる水滴と、荒い呼吸。


 高い場所で、黒曜が指を開いた。


 手に巻かれていた鬼面蜘蛛の糸がほどける。


 身体が落ちる。


 途中で幹へ一度足を着き、勢いを殺す。


 半回転。


 着地。


 厚い腐葉が、ぽす、と小さく鳴った。


 黒曜は巨大な窪みの縁へ立った。


 キメラ熊を見る。


 次に、自分の右手。


 黒曜石の髪飾りには、暗い熊の血がこびりついていた。


 眉が僅かに寄る。


 手首を振る。


 大きな血滴が地面へ飛んだ。


 まだ残っている。


 黒曜は懐から黒い手巾を取り出した。


 縁に細かなレースが付いている。


 刃の一面を拭う。


 角度を変える。


 もう一度。


 溝に残った血にも布を押し込み、丁寧に取る。


 黒い刃が元の光沢を取り戻すまで、手を止めなかった。


 最後に光へ傾ける。


 葉の影が薄く映った。


 汚れた手巾を内側へ折り畳んで仕舞う。


 髪飾りを元の位置へ差し戻す。


 乱れた髪を指先で整える。


 スカートの泥を払う。


 袖口を直す。


 最後に、胸元の裂け目へ目を落とした。


 白い肌に浅い傷。


 血はほとんど止まっている。


 黒曜は小瓶を一つ取り出し、栓を抜いた。


 薬液を指へ落とす。


 傷へ塗る。


 僅かな刺激にも、顔色は変わらない。


 周囲の矮人たちは、まだ誰も動いていなかった。


 トール。


 ゲイル。


 若い戦士たち。


 皆、黒曜を見ている。


 鉄木の上を駆け回り。


 熊の金属脚を斬り。


 重装のトールを放り投げた女が。


 今は髪を整えている。


「……黒曜さん」


 アーガスが最初に声を出した。


「ありがとうございました」


 黒曜が顔を向ける。


 返事の前に、スカートの内側から小瓶を何本か取り出した。


 一本。


 二本。


 三本。


 軽く放る。


「わっ」


 矮人たちが慌てて受け取る。


 透明な瓶の中で、高品質の錬金薬が淡く光っていた。


 栓にはヴァンデル商会の印。


「傷に使ってください」


 黒曜が言う。


 一人の矮人が瓶を光へ透かした。


「これ、かなり高いやつじゃねえか?」


「店で見たことあるぞ。一本で俺の斧より高かった気がする」


 喉が鳴る。


 蓋を開ける者。


 すぐ傷へ掛ける者。


 その横で、二人ほどが互いに目を合わせた。


 瓶を見る。


 自分の傷を見る。


 もう一度、瓶を見る。


 無言で頷く。


 そっと腰の革袋へ押し込んだ。


「お前、使わねえの?」


「まだ死なねえ」


「俺もだ」


 痛そうに顔を歪めながら、二人とも瓶だけはしっかり仕舞った。


 黒曜は何も言わない。


 アーガスの前まで歩く。


 青い液体の入った小瓶を差し出した。


「どうぞ」


「僕に?」


「魔力回復薬です」


 アーガスは受け取った。


「でも、どうしてここまで」


 黒曜の異色の瞳が、まっすぐ彼を見る。


「お嬢様のご命令です」


 一拍。


「アイアンソーン家も、ついでに守るように、と」


「ついで……」


「優先事項です」


 淡々とした声だった。


 それで会話を終え、黒曜は袖口の皺をもう一度伸ばした。


 トールとゲイルは薬瓶を持ったまま、彼女を見る。


 次に、穴の底で縛られたキメラ熊。


 もう一度、黒曜。


 誰も口を開かない。


 出発前には、女中を森へ連れていけば守る相手が一人増える。そんな声が上がっていた。


 今、その言葉を口にする者はいない。


 誰が誰を守ったのか。


 答えは、泥の上に残っていた。

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