第十三話(下)-【第一幕:銀色の合図】(挿絵あり)
第十三話:黒のワルツ(下)
アーガスの瞳に、樹冠を駆ける黒曜の姿が映っていた。
ほんの数秒の間に、いくつもの出来事が重なる。
黒曜は迫る熊の前脚を紙一重でかわし、空中で身体を後ろへ返した。
黒い女中服の裾が大きく翻る。
背が上を向き、両脚が頭上を越えた。
巨大な爪が、そのすぐ下を薙いでいく。
木の葉がまとめて吹き飛んだ。
回転の頂点。
上昇が止まり、落下へ移る直前。
異色の瞳が地上を走った。
ゲイル。
トール。
散らばった矮人たち。
アーガス。
そこで止まる。
正確には、アーガスの腰。
革帯に吊られた網銃。
黒曜の目が細くなった。
必要なのは、あれだ。
自分で取りに降りれば、キメラ熊も追ってくる。
地上にはアーガスたちがいる。
あの巨体をそこへ引き込む余地はない。
黒曜の左手がスカートの内側へ滑り込んだ。
幾重にも重なった黒い布の奥で、銀色が一度だけ光る。
純銀製のテーブルナイフ。
柄にはヴァンデル商会の馬輪の紋章。
握り直しもしない。
手首だけを返す。
放つ。
ひゅっ。
銀色の線が空気を裂いた。
木屑の間を抜ける。
舞い落ちる葉を縫う。
アーガスの脇を走る。
「っ!」
腰に、ごく小さな衝撃。
次に、後方の岩から硬い音がした。
銀のナイフが岩へ深く突き立っている。
柄だけが細かく震えていた。
アーガスは自分の服を見る。
傷はない。
皮膚にも触れていない。
切れていたのは、網銃を吊っていた革帯の留め輪だけだった。
どさり。
網銃が足元へ落ちる。
泥の上を半回転して止まった。
アーガスは顔を上げた。
数十歩先。
樹冠から落下を始めた黒曜が、こちらを見ている。
叫ばない。
手も振らない。
視線だけが、アーガスの足元へ一度落ちた。
網銃。
次に、アーガスを見る。
拾え。
備えろ。
声はない。
それでも意味は通じた。
アーガスの背筋を熱が走る。
凍りついていた思考が一気に動き出した。
黒曜は向こうで、撃てる形を作ろうとしている。
熊をこちらへ引き込まずに。
アーガスは身を屈め、網銃を拾った。
「トール兄! ゲイルさん!」
声が裏返る。
「網銃、充填! 早く!」
泥の中から起き上がりかけていたトールが振り向いた。
ズボンはまだ腰まで上がりきっていない。
ゲイルも、トールに巻き込まれた衝撃から完全には立ち直っていなかった。
「何だ?」
「いいから、充填して!」
二人は聞き返さない。
腰の網銃を抜く。
魔力充填弁へ掌を当てる。
「うおおおっ!」
トールの魔力が流れ込んだ。
赤い光がルーンの溝を走る。
ゲイルも続く。
二丁の網銃が低く唸り始めた。
魔力の光が一節ずつ満ちていく。
最後の一画まで灯った時。
アーガスはもう一度、頭上を見た。
黒曜が熊の前へ戻っていく。
次の一手が始まる。




