第十三話-【第四幕:血を削る舞踏】(挿絵あり)
アーガスは動けずに見ていた。
最初は速すぎて、黒曜が何をしているのか追えなかった。
何度か追ううち、傷の入り方に共通点が見えた。
浅い。
全部。
深さが揃いすぎている。
熊の頬。
肩。
前脚。
脇腹。
どの傷も、刃が深く入りすぎていない。
アーガスの視線が黒曜石の刃を追う。
首へ行ける場面があった。
行かなかった。
前脚の付け根へ刃を入れられる瞬間もあった。
浅く切っただけ。
目も狙っていない。
「殺す気がない……?」
小さく漏らす。
隣でゲイルが眉を寄せた。
「何?」
「傷」
アーガスは熊を指した。
「全部、浅い」
ゲイルも目を凝らす。
キメラ熊の黒い毛皮には、いつの間にか細い赤線が何本も走っていた。
一つ一つは致命傷から遠い。
だが数が多い。
動くたびに血が滲む。
跳ぶたびに泥へ赤い点が落ちる。
息も荒くなっていた。
最初の咆哮より短い。
金属脚の刺突にも僅かな遅れが出ている。
黒曜はそこを逃さない。
熊が息を吐く。
次の動作へ入る前に、ほんの僅かに肩が落ちる。
黒曜は、その一瞬に入る。
一本が遅れる。
その遅れた脚を足場にする。
熊の死角へ入る。
刃がまた一筋。
すぐ離れる。
「体力を削ってるのか」
ゲイルの声が低くなった。
アーガスは答えなかった。
視線を外せない。
黒曜は急いでいない。
あれほど速く動いているのに、攻撃だけは毎回抑えている。
熊を怒らせる。
追わせる。
余計に動かす。
浅い傷から血を流させる。
傷も一か所に集めていない。
深手を一か所に作れば、獣はそこを庇う。
だから傷を散らす。
どこを動かしても、どこかの傷口が開くように。
逃げるたび。
踏み込むたび。
金属脚を振るたび。
自分の力で血を失っていく。
少しずつ。
確実に。
キメラ熊の機動力そのものを削っていた。
熊がまた立ち上がった。
前脚を振り下ろす。
黒曜は横へ滑る。
爪が地面を抉る。
その腕へ刃を当てる。
一線。
熊が反対の前脚を振る。
今度は後ろへ跳ぶ。
六本の金属脚が追う。
一つ目。
避ける。
二つ目。
枝を蹴る。
三つ目。
身体を横へ倒す。
四つ目。
黒曜石の刃で軌道を僅かに逸らす。
火花が散る。
五つ目。
樹幹を蹴る。
六つ目。
彼女の靴底のすぐ下を通過した。
黒曜は空中で一度回った。
女中服の裾が大きく開く。
大量の葉が戦闘の風圧に巻き上げられ、その周囲を旋回していた。
黄色。
褐色。
黒。
その中を、一人だけが正確な軌道で抜けていく。
高い枝へ着地する。
枝が一度しなった。
黒曜はそこで初めて止まった。
胸が僅かに上下している。
乱れてはいないが、吐息がごく小さく聞こえる。
一筋の汗がこめかみを伝う。
胸元の裂け目から流れた血は、すでに乾き始めている。
下ではキメラ熊が暴れていた。
何本もの赤い傷を負っている。
それでも倒れない。
六本の金属脚も残っている。
怒りも衰えていない。
熊が枝の上の黒曜を見つける。
「グオオオオッ!」
吠える。
六本の脚が鉄木へ突き刺さる。
巨体が登り始めた。
速い。
さっきより鈍ってはいる。
それでも普通の獣とは比べられない速さだった。
黒曜は見下ろした。
眉がほんの僅かに寄る。
このまま削り続ければ、いずれ落とせる。
だが時間が掛かる。
森には他の鬼面蜘蛛もいる。
さっき逃げた群れが戻らない保証もない。
後方にはアーガスたちがいる。
長引くほど、背後まで気を配らなければならない。
その間にも熊は鉄木を登ってくる。
一本の金属脚が幹を抉る。
次の一本がさらに上へ刺さる。
黒曜との距離が縮む。
黒曜石の刃を指先で返す。
薄い刃に、熊の血が一筋残っていた。
黒曜は下から登ってくる巨体を見た。
目。
肩。
残った六本の脚。
鉄木。
地形。
視線が順に走る。
瞳が細くなった。
まだ足りない。
この舞踏を終わらせる、もっと直接的な一手が。
黒曜は枝の上で重心を落とした。
次の動きに入るために。




