第十三話-【第二幕:黒と白の暴風】(挿絵あり)
アーガスが黒曜へ顔を向けた時には、もう遅かった。
彼女は動いていた。
黒い網タイツに包まれた脚が沈む。
普段は細く見える腿が、一瞬で硬く締まった。
次の瞬間。
地面が爆ぜた。
腐葉。
泥。
浅い根。
全部が後方へ弾け飛ぶ。
黒曜のいた場所には、靴底ほどの窪みが残った。
本人はそこにいない。
アーガスの目には、一拍遅れて泥の飛沫だけが残った。
黒曜の身体はすでに数歩先。
黒と白の残像だけが、トールとキメラ熊の間へ走っていた。
八本の金属脚が落ちる。
一本。
二本。
三本。
刺突が交差し、退路を塞ぐ。
黒曜は速度を落とさなかった。
上体を沈める。
肩のすぐ上を一本が通過した。
身体を捻る。
脇腹の横を二本目が掠める。
片足だけで泥を蹴り、三本目と四本目の隙間へ滑り込む。
五本目が前方を塞ぐ。
黒曜は止まらない。
膝を折り、背中が泥を擦りそうなほど身体を倒した。
金属脚の先端が鼻先を掠める。
そのまま掌を泥へ一度だけ着き、身体を横へ返す。
六本目が、さっきまで頭のあった場所を貫いた。
ほんの僅かな隙間だった。
鎧を着た矮人なら肩すら通らない。
黒曜の身体だけが、そこを抜けた。
金属脚が地面へ突き刺さる。
泥が跳ねる。
衝撃で女中服の裾が大きく開いた。
黒い網タイツに包まれた脚が一瞬露わになる。
同時に、熊の落下で生まれた風圧が胸元を裂いた。
布が短く鳴る。
白い肌に、細い赤線が走った。
黒曜は見もしない。
右手が髪へ伸びた。
黒曜石の髪飾り。
薄く研がれた黒い刃が、指の間へ滑り込む。
抜く。
振る。
それだけだった。
魔力の閃光はない。
刃を包む炎もない。
黒い軌跡が一度だけ走った。
きん。
高い金属音。
トールの喉を狙っていた脚の先端が飛んだ。
ほとんど同時に、胸へ向いていたもう一本も切断される。
二つの断片が回転しながら空を飛び、遠くの鉄木へ突き刺さった。
幹が震える。
アーガスの目が、その断面を追った。
平らだった。
何本もの鉄線虫が束になっているはずなのに、目立った潰れも引き千切られた跡もない。
研磨した金属板と見紛うほど平滑だった。
「……何だ、あれ」
声が漏れた。
黒曜はすでに次の動作へ入っていた。
左手がトールの襟を掴む。
「え」
トールの口から間の抜けた声が出た。
黒曜の指が、厚い鉄甲の襟を握り込む。
腰が回る。
片足が泥を掴む。
細い身体全体が一本の軸になった。
「邪魔」
小さな声。
次の瞬間、重装の矮人が地面から消えた。
「うわああああっ!」
トールが飛んだ。
弧を描く。
膝まで落ちたズボンもそのまま。
戦斧もそのまま。
全身を丸ごと投げ飛ばされ、後方の矮人たちへ突っ込んでいく。
「来るぞ!」
「何がだ!」
「トールだ!」
「はあ!?」
どん。
鎧同士がぶつかる。
ゲイルと二人の矮人が巻き込まれ、四人まとめて泥の上を転がった。
「痛え!」
「重い!」
「どけ、トール!」
「俺だって好きで乗ってねえ!」
怒鳴り声が後方で重なる。
黒曜は振り返らない。
後ろで怒鳴り声が重なっても、一度も視線を向けなかった。
熊だけを見ている。
投げた反動を利用して、身体を半回転させる。
女中服の裾が円を描いた。
ちょうどその横を、遅れて落ちてきた金属脚が貫く。
黒曜は半歩だけ位置をずらし、それを避けた。
着地。
片足。
もう片方。
着地音は、濡れた落葉が鳴る程度だった。
黒曜石の刃を下げる。
目の前にはキメラ熊。
背後には、泥まみれで転がる矮人たち。
黒曜は一度だけ肩を回した。
裂けた胸元から細い血が流れていたが、表情は変わらない。
熊が唸る。
黒曜も動かない。
ほんの数歩の距離で、両者の視線がぶつかった。




