第十三話-【第一幕:凍りついた時間】(挿絵あり)
第十三話:黒のワルツ(上)
世界から音が消えた。
トールは泥の中へ尻餅をついたまま、動けない。
腰帯は外れ、ズボンは膝まで落ちている。いつもなら誰かが笑っただろう。
今は誰も笑わない。
太い両脚が泥の上へ投げ出されていた。
顔からも、いつもの自信と荒っぽさが消えている。
見開いた目だけが、頭上から落ちてくる巨大な影を映していた。
キメラ熊。
黒い毛皮。
肥大した巨体。
背から開く八本の金属脚。
何十、何百という鉄線虫の死骸が絡み合い、一本の節足を形作っている。
そのうち二本が、トールの喉と胸へ向いていた。
距離は、もう指一本分もない。
アーガスの左手は上がったまま固まっている。
曙光の上には、青白い魔力で擬似構成された双管滑腔散弾モジュール。
二本の黒い管が、キメラ熊を正確に捉えていた。
撃てる。
だが、撃てない。
三メートル。
散布範囲の中にトールがいる。
撃てば兄を巻き込む。
撃たなければ、八本の金属脚が先に落ちる。
ほんの一瞬のはずだった。
それでもアーガスの感覚では、一つ一つが異様なほど長く見えた。
熊の落下で舞い上がった泥の粒。
口端から垂れた粘つく唾液。
途中で折れた小枝。
トールの頬へ飛んだ泥水。
どれも、少しずつしか動かない。
アーガスの指は引き金に掛かったままだった。
力が入りすぎて、関節が白い。
頭の中では、さっき出した答えが何度も繰り返される。
三メートル。
近すぎる。
散布範囲に味方。
撃発不可。
単発滑腔銃モジュールへの切り替えは間に合わない。
答えは変わらない。
逃げ道も増えない。
胸の中で心臓が暴れていた。
どん。
どん。
どん。
鉄錆。
獣臭。
濡れた土。
その全部が鼻の奥へ入り込む。
八本の脚がさらに沈む。
トールの瞳が縮んだ。
「トール兄!」
声だけが、一拍遅れて喉から飛び出した。
その時。
別の声が横から割り込んだ。
「咆哮せし暴嵐よ、我が背に……」
女の声。
低い。
よく通る。
平坦なのに、耳へ残る。
古典魔術の定型そのものの詠唱だった。
周囲の魔力が一か所へ寄り始める。
濡れた落葉が震えた。
泥の表面に細かな波紋が広がる。
詠唱は続くはずだった。
「……チッ。後略」
舌打ち。
続いたのは、その一言だけだった。
優雅な節回しも、長い韻律も、そこで終わる。
黒曜は面倒そうに息を吐いた。
残りの詠唱を捨てたまま、集まっていた魔力を一気に足元へ落とす。




