第十一話:【第七幕:門番の嘘】
隊列が霧の奥へ消えた。
足音も聞こえなくなった。
工房の入口には、ブレイクとサラ、アイリーン、そしてリナだけが残った。
朝の薄い光が、入口の外から差し込んでいる。
碧緑の背中へ淡い輪郭ができていた。
ブレイクとサラは、しばらく何も言わなかった。
さっきの言葉が、まだ耳に残っていた。
山王本人が来ても、一個の煉瓦も持っていかせない。
あの細い背中が、今は妙に大きく見える。
「頼もしい子だねえ」
サラが小さく呟いた。
その時、リナが振り返った。
変化は一瞬だった。
上がっていた顎が少し下がる。
眉が僅かに寄る。
肩から強さが抜ける。
さっきまでの自信は、顔からきれいに消えた。
残ったのは、疲れと心配を隠しきれない少女の表情だった。
リナは両手を胸の前で軽く組む。
視線を、アーガスたちが消えた方角へ向けた。
「……何事もなければいいけど」
独り言にしては少しだけ大きい声だった。
ブレイクとサラには、はっきり聞こえる。
「アーガスって、家のことが気になるとすぐ顔に出るから」
困ったように笑う。
「本当のことを言ったら、森へ入ってからも何度も後ろを気にするでしょう」
サラの顔が曇る。
リナは続けた。
「戦ってる時に余計なことを考えて、怪我でもしたら嫌だもの」
指先が僅かに絡む。
「だから、あれくらい言っておけば安心するかなって」
「でも、リナちゃん」
サラが近づく。
「あなたは大丈夫なの?」
リナが目を伏せた。
「さあ」
小さな苦笑。
「バロックがまた何をするか分からないし」
一度、工房の外を見る。
「山王本人が来たら、さすがにどうしようもないわ」
声が弱くなる。
「私、ただの小娘だもの」
ブレイクとサラが顔を見合わせた。
あれほど強く見えた少女が、今は年相応に見える。
怖くないわけがない。
ただ、アーガスを安心させるために立っていた。
二人には、そう見えた。
「いい子だねえ……」
サラがリナの手を取った。
「うちのアーガスが、あなたみたいな子と知り合えて本当によかった」
「そんな」
リナは照れたように俯いた。
口元を隠すためでもあった。
この家の人間は、強すぎるものを恐れる。
白昼の工房で、それはもう見た。
だから時々、弱さを見せる。
心配する。
怯える。
助けを求める。
そうすれば距離が縮まる。
守る側と守られる側が固定されず、家族の輪へ入りやすくなる。
そして何より、彼らは安心してこの家を任せる。
必要な嘘だった。
その少し横で。
アイリーンだけが、何も言わずリナを見ていた。
輪椅子の上。
包帯を巻いた手を膝へ置き。
静かに。
長く。
リナがちらりと彼女を見る。
目が合った。
アイリーンの口元に、小さな笑みがある。
責める色はない。
驚きもない。
分かっている顔だった。
リナの眉がほんの僅かに動く。
アイリーンは視線を外さない。
山王本人が来ても煉瓦一つ持っていかせない。
あの言葉。
両親は大言壮語だと思った。
弟を安心させるための、頼もしい虚勢。
アイリーンには、そうは聞こえなかった。
リナ・ヴァンデルという少女が、どこまでの力を背後に持っているのか。
どれだけの札をまだ伏せているのか。
アイリーンは知らない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この少女は、人の感情まで盤面へ置く。
恐怖も。
安心も。
同情も。
必要なら、自分自身の弱ささえ。
それを知っても、不思議と怖くなかった。
むしろ胸の力が抜ける。
善意だけで家を守れる世界ではない。
正しさだけで相手が退くわけでもない。
これほど厄介で、怖くて、頭の切れる少女が、今はこちら側に立っている。
それは、とても心強いことだった。
アイリーンの笑みが少し深くなる。
リナは数秒見返した後、小さく息を吐いた。
「……何ですか、アイリーン姉さん」
「ううん」
アイリーンは穏やかに首を振った。
「何でもないよ」
その返事が、一番信用できなかった。




