第十話:【第七幕:盤面が揃う】(挿絵あり)
アイリーンが目元を拭いた。
「みんな。この人がリナ・ヴァンデルさん」
少し迷ってから、柔らかく笑う。
「今は、私たちと同じ船に乗ってくれている人」
リナが一歩前へ出た。
さっきまでの焦りは消えていた。
背筋を伸ばす。
濡れた鎧の男たちへ、丁寧に頭を下げる。
「来てくれてありがとう」
声は穏やかだった。
「一番苦しい時に手を貸してくれたこと、ヴァンデル商会は忘れない」
顔を上げる。
視線が一人ずつを通る。
「皆さんが恩を返すために来たことも分かっているわ。だから、その気持ちを金で買ったことにはしない」
ゲイルたちの顔が少し変わる。
リナは続けた。
「でも、森へ入れば装備は傷む。薬も減る。人が怪我をするかもしれない」
指を一本立てる。
「装備の損耗は商会が持つ」
二本目。
「治療薬は最高等級を用意する。使った分は全部補充」
三本目。
「任務が終わったら、正式な謝礼も払う。断るなら、それは帰ってから喧嘩しましょう」
矮人たちの間から笑いが漏れた。
「嬢ちゃん、ずいぶん強引だな」
「商人だから」
リナは平然と答える。
「恩人を赤字で帰したなんて知られたら、私の評判に関わるもの」
「結局そこかよ!」
誰かが笑う。
空気が軽くなった。
リナはその反応を見ながら、もう一つだけ残していた札を切る。
「それと」
声を少し高くした。
矮人たちが顔を向ける。
「無事に帰ったら、祝勝会を開くわ」
「おお?」
「料理は工房側と相談する」
そこで一度止める。
口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「酒代はヴァンデル商会が持つ」
数人の目が輝いた。
リナは畳みかける。
「量の上限なし」
一秒。
工房が静まった。
「……今、何て?」
ゲイルが聞き返す。
「聞こえなかった?」
リナは微笑む。
「凱旋した夜は、飲みたいだけ飲みなさい」
次の瞬間。
「うおおおおおお!」
工房の屋根が震えた。
矮人たちが一斉に武器を持ち上げる。
「嬢ちゃん万歳!」
「ヴァンデル商会万歳!」
「絶対生きて帰るぞ!」
「熊より酒だ!」
「順番が逆でしょう!」
アイリーンが笑いながら止める。
トールまで大声で笑っていた。
ウォーレンは額を押さえる。
「お嬢様。酒蔵の在庫が」
「足りなければ買う」
「山道が塞がれています」
「開通したら運ばせる」
「本気ですか」
「今さら?」
ウォーレンは諦めた顔で帳面を出した。
アーガスは、沸き立つ矮人たちとリナを交互に見る。
ついさっきまで、この工房には出口がなかった。
公会は封じられた。
道も塞がれた。
案内役もいなかった。
今、森を知る者がいる。
怪物を見た者がいる。
戦える者がいる。
工房ではトールの槌が武器を形にしている。
自分の曙光も、あと少しで次の形になる。
リナと目が合った。
彼女も同じことを考えていたらしい。
さっきまでの苛立ちは消え、青い瞳には盤面を読み直す時の光が戻っている。
リナは小さく顎を上げた。
アーガスも頷く。
最後まで欠けていたものが、揃った。
最後の一片は、何年も前にアイリーンが命を懸けて残した縁だった。
今になって人の姿で戻り、森への道を指している。
リナは濡れた冒険者たちを見回した。
「じゃあ、予定を変えるわ」
歓声が少し静まる。
「明日から、森へ入る準備を始める」
ゲイルが笑う。
「やっと散歩か」
「ええ」
リナも笑った。
「少し大きな熊を連れて帰る散歩よ」
また笑いが起きる。
その向こうで、鍛造場から槌音が響いた。
かん。
かん。
かん。
工房の中で、武器と人と道が一つにつながっていく。
盲目の盤は終わった。
今は、進む先が見えている。
狩りを始める準備は、整った。




