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第十話:【第六幕:買えない羅針盤】

「それと」


 ゲイルが大きく息を吸い、場の空気を戻した。


 目がリナとアーガスへ向く。


「黒い森の怪物についてなら、俺が一番詳しい」


 アーガスが顔を上げる。


「最初に遭遇したのは俺だ。足跡も見た。逃げ方も覚えてる」


 ゲイルは親指で自分の胸を叩いた。


「どの道なら通れる。どこが泥沼。どの谷へ入れば戻れない。あの森なら、俺たちの方が公会の地図より役に立つ」


 リナの指が止まった。


 ほんの少しだけ。


 誰にも気づかれないほど短い間だった。


 だが、彼女の頭の中では、三日間埋まらなかった空白へ一枚の札が落ちた。


 案内役。


 獣の習性を知る者。


 現地の道を読む者。


 しかも、怪物そのものを見た目撃者。


 欲しかった条件が、一人の中へ揃っている。


 アーガスもゲイルを見つめていた。


 以前なら、こういう場では少し後ろへ下がっていた。


 知らない大人。


 大きな声。


 荒い笑い。


 そういうものが苦手だった。


 姉の後ろに立って、必要な時だけ小さく頷けば済んだ。


 今日は、一歩出た。


 動きは少し硬い。


 それでも止まらない。


 ゲイルの前まで行き、右手を差し出す。


「ありがとう」


 短い言葉だった。


 アーガスはゲイルの目を見る。


「姉さんを助けに来てくれて」


 ゲイルが一瞬だけ黙った。


 次に、差し出された手を握る。


 大きく、節くれだった手。


 その中に、油の落ちきらない細い指が収まる。


 アーガスは力を抜かなかった。


 ゲイルの眉が上がる。


「お前」


 にやりと笑う。


「手ぇ強くなったな」


「鍛造はしてないけど」


「そういう話じゃねえ」


 ゲイルは笑い、大きな手でアーガスの肩を叩いた。


「いい顔するようになったじゃねえか。昔はアイリーンの後ろから半分しか出てこなかったくせに」


 ばしん、と音がした。


 アーガスの身体が半歩揺れる。


「痛い」


「これくらいでよろけんな!」


 周囲から笑い声が上がった。


 その少し外で、リナだけが二秒ほど動かなかった。


 案内役が来た。


 目撃者も来た。


 こちらから契約書は一枚も出していない。


 金も積んでいない。


 脅してもいない。


 誰かの弱みを握ったわけでもない。


 それでも人が来た。


 アイリーンが昔助けたから。


 ただ、それだけの理由で。


 リナの頭の中では、その価値をどう置けばいいのか決まらなかった。


 商売では、理由に値段がつく。


 利息。


 恩義。


 信用。


 将来の利益。


 大抵のものは数字へ落とせる。


 目の前の連中は難しい。


 公会へ睨まれる危険を背負っている。


 雨の山道を越えてきた。


 報酬の話すらしていない。


 それでも笑っている。


 リナの視線がアイリーンへ向く。


 仲間に囲まれ、涙を拭きながら笑っている。


 三日前まで、リナは案内役一人を得るために、バロックを消すことまで考えた。


 金と権力を使っても作れなかった道が、アイリーンの過去から勝手に伸びてきた。


 最初から金で手に入る類いのものではない。


 その事実が、妙に新鮮だった。


「……なるほど」


 リナが小さく呟く。


 誰にも聞こえない声だった。


 善意は扱いにくい。


 値段がない。


 命令もできない。


 回収時期も読めない。


 その代わり、何年経っても消えないことがある。


 目の前に、その実物が立っていた。


 リナの口元が少しだけ上がった。


 悪くない。


 計算の外から来る札も、盤上へ置けるなら使える。


 むしろ、こんな札こそ相手は読めない。


 ゲイルがこちらを見る。


「で、嬢ちゃん」


「何?」


「森へ行くんだろ」


 リナの目に、久しぶりに迷いのない光が戻った。


「ええ」


「だったら道は俺たちが出す」


 ゲイルが胸を張る。


「お前らは熊をどうするかだけ考えろ」


 リナは一度だけ目を閉じた。


 開いた時には、三日間続いていた苛立ちが消えている。


「助かるわ」


 その言葉だけは、何の飾りもなかった。

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