第十話:【第五幕:傷跡の勲章】
輪の外にいた年長の矮人が、ゆっくり前へ出た。
顔にも腕にも古い傷がある。
彼はアイリーンの前で片膝をつき、包帯のない方の手を両手で包んだ。
「なあ、白百合」
さっきまでの大声は消えていた。
「覚えてるか。あの洞口のこと」
アイリーンの笑顔が僅かに止まる。
男は続けた。
「変異狼蠍が出た時だ」
アーガスの瞳が縮んだ。
その名だけで、身体の奥に古い痛みが戻る。
何度も聞いた。
姉が歩けなくなった日の記憶と、強く結びついた名だった。
自分の中では、ずっと一つの意味しか持たなかった。
失った脚。
戻らなかった日常。
守れなかった自分。
年長の矮人は、アイリーンの手を握ったまま俯いた。
「あの時、お前が一人で入口を塞いでくれなきゃ、俺たちは誰も出られなかった」
声が震える。
「俺なんか、脚をやられてまともに立てなかった。ゲイルも腹を裂かれてた。後ろじゃ二人が意識を失ってた」
周囲の仲間たちが黙る。
「お前だけが残った」
アイリーンは何も言わない。
「治癒を掛けながら、あの化け物を引きつけてな」
男の目が赤くなる。
「最後にお前を担いで戻った時、誰も助かると思ってなかった」
手に力が入る。
「血が止まらねえ。息も細い。呼んでも目を開けねえ」
横にいた男が唇を噛んだ。
ゲイルも目を伏せる。
「俺たちは、自分たちが生き残った代わりに、お前を殺したと思った」
工房の音が消えた。
鍛造場の槌音さえ、遠く感じる。
「それでも生きてくれた」
年長の矮人が顔を上げる。
視線はアイリーンの脚へ落ちた。
憐れみはなかった。
悔しさはある。
痛みもある。
その奥に、もっと深い敬意があった。
「脚は戻らなかった」
彼は静かに言う。
「でも、その脚で俺たち全員を外へ出したんだ」
アイリーンの目から涙が落ちる。
「そんな言い方……」
「本当のことだ」
男は首を振った。
「俺たちの命は、お前が払った代金の上に残ってる」
周囲から低い声が重なる。
「ああ」
「そうだ」
「忘れるわけねえ」
年長の矮人はアイリーンの手の甲へ額を当てた。
「だから今度は、俺たちが払う番だ」
アーガスは動けなかった。
ずっと姉の脚を見てきた。
自分の中では、それは失敗の跡だった。
姉から奪われたもの。
家族を壊したもの。
自分が何を作っても、埋められない穴。
今、同じ脚を見ている男たちの目に、その色はなかった。
彼らが見ているのは、命を救われた証拠だった。
あの日の傷を見て、自分たちが今ここに立っている理由を思い出している。
アーガスの胸の奥で、長く固まっていたものが少しだけ形を変えた。
傷は消えない。
姉が失ったものも戻らない。
同じ傷を見ても、受け取る意味は違う。
自分はそこに罰と後悔を見てきた。
目の前の男たちは、勲章を見ている。
アイリーンの周囲には、雨に濡れた古い仲間たちが立っている。
公会の命令をくぐり抜けて。
山道を越えて。
誰にも頼まれていないのに。
戻ってきた。
昔、アイリーンが差し出したものが、何年も経って人の姿で帰ってきた。
アーガスは姉の横顔を見る。
泣いている。
けれど、その表情は苦しそうではなかった。
恥ずかしそうに笑いながら、仲間の手を握り返している。
その姿を見ているうちに、アーガスの肩から少しだけ力が抜けた。
胸の中に沈んでいた重さが、ほんの僅かに軽くなった。




