第十話:【第四幕:鉄峰の白百合】(挿絵あり)
その時。
ごろ。
ごろ、ごろ。
輪椅子の車輪が床を転がる音が、工房の奥から聞こえた。
笑い声が止まる。
全員が振り返った。
アイリーンが自分で輪椅子を押して出てくる。
後ろで帳簿を整理していたらしい。包帯を巻いた手は膝へ置き、反対の手だけで車輪を動かしていた。
前へ出たところで、彼女の動きが止まった。
雨に濡れた鎧。
泥だらけの靴。
懐かしい顔。
何年も前、焚き火を囲み、乾いた肉を分け、背中を預けた仲間たち。
アイリーンの目に、すぐ涙が浮かんだ。
「隊長……」
声が掠れる。
「みんな……」
矮人たちも動きを止めた。
一人、顔に長い刀傷を持つ男が、みるみる目を赤くした。
鼻を啜る。
次いで、両腕を大きく広げた。
「おお、大地の髭よ! 誰かと思えば!」
芝居がかった声が工房に響く。
「我らが鉄峰の白百合じゃねえか!」
「ぶっ」
誰かが吹いた。
アーガスは固まった。
トールも固まった。
白。
百合。
二人の視線が、同時に姉へ向く。
アーガスの頭の中で、普段のアイリーンの姿と、その呼び名がどうしても結びつかない。
食事の時には皆の皿を見ている。
帳簿の数字が合わなければ夜まで計算する。
トールが風呂へ入らなければ、容赦なく追い立てる。
そんな姉が。
鉄峰の白百合。
背中がむず痒くなった。
隣では、トールの口が開いたままだった。
「白百合?」
熱の残る大槌が、手から落ちた。
ごん、と床を打つ。
「姉貴が?」
「トール!」
アイリーンの顔が一気に赤くなった。
「やめて!」
輪椅子の上で両手を振りかけ、傷ついた手を思い出して途中で止める。
「その名前、もう呼ばないでって言ったでしょう!」
「何でだよ!」
刀傷の男が本気で驚いた顔をする。
「似合ってるだろ!」
「どこが!」
「全部だ!」
「分からない!」
アイリーンの耳まで赤い。
「昔の話なの! 私はもう冒険者じゃないし、今は工房で帳簿をつけてるだけだから!」
「誰がそんなこと決めた!」
別の大柄な矮人が声を上げる。
「お前は今でも俺たちの白百合だ!」
「お願いだから弟たちの前で言わないで!」
「何で弟が駄目なんだ?」
「恥ずかしいからよ!」
工房の緊張が、一気に崩れた。
さっきまで武器を構えていたトールが、姉の真っ赤な顔を見て肩を震わせている。
「姉貴……白百合……」
「トール?」
「何でもない」
命の危険を感じたらしい。
すぐ顔を逸らした。
矮人たちは構わずアイリーンへ近づいていく。
途中で、先頭のゲイルが足を止めた。
自分の肩から濡れた油布を外す。
床へ投げる。
他の者たちも続いた。
雨を吸った外套を脱ぎ、冷たい水気を落としてから輪椅子の周囲へ集まる。
鎧同士が当たらないように距離を取る。
斧の柄がアイリーンへ触れないよう、身体を少し捻る。
戦場では魔獣へ体当たりするような男たちが、今は驚くほど慎重だった。
「久しぶりだな、白百合」
「だから、その名前は……」
「痩せたんじゃねえか?」
「変わってないわよ」
「親父さん、肉食わせてるか?」
「食べてる!」
「足りねえなら言え。親父を殴って肉屋へ連れてく」
「どうして父さんを殴るの!」
笑い声が広がる。
アイリーンも泣きながら笑った。
一人ずつ、彼女を抱きしめる。
汗と鉄と雨の匂いがする腕だった。
誰も強く締めない。
昔と同じ仲間へ触れるように、ただ少しだけ丁寧に抱く。
アーガスは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
姉に、自分たちの知らない時間がある。
当然のことなのに、今までそれをほとんど考えたことがなかった。
家の中の姉。
自分を守る姉。
傷ついて帰ってきた姉。
その前に、仲間からこんな顔で呼ばれていたアイリーンがいた。
鉄峰の白百合。
今度はその呼び名を聞いても、さっきほどむず痒くなかった。




