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第十話:【第一幕:盲目の将軍】(挿絵あり)

第十話:見えない盤面と白百合

 夜の雨は、神経を逆撫でするように降り続いていた。


 気温は氷点をわずかに上回っている。雪になるはずの水気が冷たい雨へ変わり、数日前の積雪を穴だらけにして、泥と一緒に道へ流していた。


 雨粒が窓を叩く。


 一定の音なのに、深夜には妙に耳につく。


 臨時の作戦室では、湿った空気の中で蝋燭の火が揺れていた。長卓の前に座るリナ・ヴァンデルの影が、壁へ細長く伸びている。


 リナの顔色は悪かった。


 目の前には、商会内部から取り寄せた黒い森の地図が広げられている。地形。水場。獣道。既知の魔獣出没域。入手できる情報は、色の違う墨で細かく書き込んである。


 それでも足りない。


「あと一つ……」


 丸く整えられた爪が、樫の卓を叩く。


 とん。とん、とん。


 間隔は乱れていた。


 数日前まで、アーガスが同じ音を立てていた。考えが袋小路へ入った時、あの少年は無意識に指を動かす。


 今夜はリナの番だった。


「防御を破る道具はある。獲物を止める網もある。追い込むための段取りも作った」


 地図を見たまま呟く。


「なのに、私たちは目が見えていない」


 頭の中で人員を並べる。


 アーガス。


 頭脳は疑いようがない。だが、幼い頃から寝室と工房の間で暮らしてきた研究屋だ。黒い森へ入った経験など、ほとんどない。


 彼にとって森は、まだ書物の中にある地名に近い。


 トール。


 岩を砕く腕は頼りになる。鉱脈と金属の癖なら、目を閉じていても分かるだろう。森で足跡を拾わせれば、本人が新しい道を作ってしまう可能性の方が高い。


 ウォーレン。


 交渉、調達、人の腹を読むことなら一流だ。だが泥の上に残った爪痕を見て、何時間前の獣か判断しろと言われれば、絹の手袋を見下ろして黙るしかない。


 そして、黒曜。


 リナの視線が、部屋の隅へ向く。


 濃い影の中に、黒曜が立っていた。


 呼吸すら目立たない。黒い衣服と長い髪が暗がりへ溶け、そこだけ人の輪郭が薄く見える。


 黒曜が得意とする獲物は、森の獣ではない。


 リナは地図へ目を戻した。


「案内役が要る」


 指先が、鉄木林の奥に付けた赤い印へ沈む。


 土地を知っている者。


 魔獣の足跡を読める者。


 沼と固い地面を見分け、帰り道を失わない者。


 そんな人間が一人もいなければ、どれほど良い装備を持っていても意味がない。


 森の中を十日歩き回って熊の毛一本見つからない可能性もある。もっと悪ければ、自分たちから別の魔獣の縄張りへ踏み込む。


「くそ……」


 歯の間から声が漏れた。


 公会の封鎖が、ここへ来て本当の牙を見せていた。


 依頼を掲示できないだけなら、金で別の道を探せた。


 今、断たれているのは人と情報だった。


 山城の熟練した狩人も、森の小道を知り尽くした冒険者も、誰一人としてアイアンソーン家へ近づかない。


 税務庁へ睨まれる危険を冒す理由がない。


 リナの指が止まった。


 頭の奥へ、ひどく簡単な解決策が浮かぶ。


 視線が、もう一度黒曜へ向いた。


 黒曜の瞳が静かに動く。


挿絵(By みてみん)


 言葉はない。


 必要なのは命令一つ。


 バロックを消す。


 雷雨の夜なら都合がいい。


 屋敷へ入る。事故に見せる。階段から落ちたことにしてもいい。心臓が突然止まったことにしてもいい。


 あの男一人が消えれば、少なくとも今の封鎖は乱れる。後任が決まり、権限が引き継がれるまでには隙間が生まれる。


 黒曜なら難しくない。


 リナの指がゆっくり曲がった。


 見えない短剣の柄を握るように。


 その時、卓の端にある光が目に入った。


 小さな卓上灯。


 前学期、アーガスから半ば強引にもらった試作品だった。


 硝子の覆いの内側で、柔光術の橙色が静かに灯っている。


 リナは目を閉じた。


 息を吸う。


 長く吐く。


 黒曜へ向いていた視線を外した。


 血は、リナを止める理由にならない。


 必要なら、昔から交渉材料の一つとして扱ってきた。


 問題は、その後に来るものだ。


 山王国の税務官が、この時期に不審死する。


 王都の監察官が来る。


 役所は面子を守るため、工房も商会も周囲の人間も徹底的に洗う。


 ヴァンデル商会なら傷を切り捨てて生き残れる。


 アイアンソーン工房は耐えられない。


 まだ根の浅い工房だ。


 アーガスも。


 トールも。


 アイリーンも。


 あの父親と母親も。


 その嵐へ放り込めば、工房ごと潰れる。


「一局勝つために……」


 リナは掠れた声で呟いた。


「盤そのものを壊すわけにはいかないわね」


 自分の口から出た言葉に、僅かに苦笑する。


 以前なら、守る対象の数まで勘定に入れる必要はなかった。


 味方は利益を交換する相手だった。


 今の勝利条件には、この家が残ることまで含まれている。


 アーガスも、トールも、アイリーンも、父親も母親も、生きたまま盤上へ残す。


 その条件が、ひどく面倒だった。


 そして少しだけ、怖かった。


 リナは再び地図を見る。


「案内役がいない」


 雨音が窓を叩き続ける。


「これじゃ、盲目のまま森へ入るしかないじゃない」

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