第九話-【第五幕:次の一手】
数秒、誰も口を開かなかった。
廊下の向こうでは、トールが見習いたちを叩き起こす声がまだ続いている。
「火がぬるい! もっと炭を入れろ!」
ウォーレンの肩が一度震えた。
耐えた。
二度目で失敗した。
「……ふっ」
短い笑いが漏れる。
リナが振り返った。
さっきまで顔に浮かべていた申し訳なさと諦めは、きれいに消えていた。
口元に小さな勝利の笑みがある。
「何か?」
「いえ」
ウォーレンは口元を押さえる。
「精霊工匠。実に見事な選定でした」
「でしょう?」
リナは肩をすくめた。
アーガスは額へ手を当てる。
「ひどい」
「何が?」
「トール兄が一番引っかかるところを、分かってて踏んだ」
「踏んでないわ」
リナは平然と答える。
「軽く撫でただけ」
「同じだよ」
「結果は出たでしょう」
廊下から金属を引きずる音がする。
続いて、またトールの怒鳴り声。
「その黒鉄じゃねえ! 奥のだ! 精霊に笑われてえのか!」
アーガスは小さく笑った。
「たぶん一生、煽られたって認めないよ」
「認めなくていいの」
リナは図面が消えた卓を指先で叩く。
「明日の朝まで炉が燃えていれば、それで十分よ」
青い目が細くなる。
「火は、入れる炉さえ間違えなければ役に立つ」
アーガスは首を振った。
「やっぱりひどい」
「褒め言葉として受け取るわ」
リナは椅子へ戻らない。
壁に掛けられた予定表を見た。
「これで、発射管と網の加工はトールさんが握った」
「うん」
「残りは?」
声が変わる。
さっきまでの悪戯っぽさが消えた。
作戦会議の続きだ。
アーガスも表情を戻した。
「僕の装備」
「何をするの?」
「曙光を更新する」
返事は迷わなかった。
リナが僅かに眉を上げる。
「どこを?」
「今は魔法滑腔銃モジュールを外付けで使ってる」
アーガスは自分の手袋を見る。
指を開く。
「それを曙光の内部へ統合する。発射制御まで手袋側に持たせる」
説明しながら、頭の中で構造が組み替わっていく。
「外付けモジュールが消えれば、戦術カードスロットが一枠空く。そこへ捕獲戦用の札を追加できる。今の構成だと治療系と射撃系が」
「待って」
リナが掌を上げた。
アーガスの声が止まる。
「螺子と歯車の説明は後でいいわ」
「まだ歯車の話はしてないけど」
「今からする顔だった」
言い返せない。
リナは続ける。
「私が知りたいのは三つだけ。間に合う?」
「間に合わせる」
「森で使える?」
「使える形にする」
「あなたの腕は飛ばない?」
アーガスが一瞬止まった。
「……飛ばさない」
「よろしい」
それで話を切った。
アーガスは苦笑する。
「本当に中身に興味ないんだね」
「あなたが私の帳簿の仕訳規則を全部聞きたいなら、交換条件として考えるわ」
「遠慮します」
「私も同じ気持ち」
リナはスカートの裾を整えた。
扉へ向かう。
「拳は炉へ入った」
廊下の向こうで、槌音が始まった。
かん。
かん。
規則正しい音が夜の工房へ響く。
「頭も、自分の仕事を決めた」
リナが足を止める。
少しだけ振り返った。
「なら、次は私の番ね」
アーガスが眉を上げる。
「何をするの?」
リナの視線が試験室の隅へ落ちた。
そこには、昼間に踏み潰された聴音管の残骸が置かれている。
歪んだ金属。
割れた集音口。
煤のついた管。
数秒だけ見つめる。
「向こうは、公会を止めた」
声が低くなる。
「人も、手続きも、外から来る助けも止めるつもりでしょう」
視線がアーガスへ戻る。
「だったら私は、彼らが止められないところから動かす」
「何を?」
リナは答えなかった。
口元だけが僅かに上がる。
「次の一手よ」
扉を開ける。
外から鍛炉の熱気が流れ込んだ。
碧緑の裾が光を受ける。
「あなたは曙光を仕上げて」
肩越しに告げた。
「私は盤面を作り直す」
そう言って、リナは夜の工房へ出ていった。




