第九話-【第二幕:鉄より強い糸】
十分後、作戦会議の場所はアーガスの試験室へ移っていた。
機械油。埃。焦げた蛋白質。
いくつもの臭いが混ざり、喉の奥へ張りつく。
「俺は反対だ!」
トールの怒声で、天井から灰がぱらぱら落ちた。
大きな身体で作業台の前を塞ぎ、広げられた図面を指差す。
「網だと? アーガス、お前は本の読みすぎで頭まで紙になったのか!」
指が図面を叩く。
「相手はキメラ熊だぞ。元の山熊だって、一発で三寸の鉄板を歪ませる。そんな化け物へ紐を投げてどうする!」
アーガスは言い返さなかった。
手にした記録板を閉じる。
兄の怒鳴り方は知っている。
怖い時ほど声が大きくなる。
「トール兄。来て」
「あ?」
アーガスは試験室の奥へ歩いた。
吊り上げ試験に使う梁の下。
薄暗い灯りの中に、一本の銀色が垂れている。
細い。
距離を取れば、光が当たった時にしか見えないほどだった。
その先に、黒い塊が浮いている。
トールの足が止まった。
「……俺の鉄床じゃねえか」
予備として大事にしている黒鉄の鉄床。
四百ポンド近い塊が、床から三寸ほど浮いている。
支えているのは、銀色の細糸一本だけだった。
部屋の空気が僅かに動くたび、鉄床までゆっくり揺れる。
トールが手を伸ばしかけた。
指先が途中で止まる。
張り切った糸へ無造作に触れれば、皮膚の方が負けそうだった。
「鬼面蜘蛛の糸。三本撚り」
アーガスは淡々と説明する。
「一本あたりの引張強度は、同じ太さの鉄線のおよそ二十倍。重量は五十分の一。腐食にも強い。魔力伝導も良好」
トールは鉄床と糸を交互に見る。
「二十倍……?」
「試験値では」
部屋の隅では、黒曜がいつものように静かに控えていた。
皆が吊られた鉄床を見上げる中、彼女だけは銀糸へ短く視線を落とした。
細さ。
張力。
光の反射。
ほんの一瞬、目の奥に何かを確かめる色が宿る。
それもすぐ消えた。
トールが勢いよくリナを見る。
「おい。鬼面蜘蛛の糸だぞ」
「知っているわ」
「貴族が家宝扱いする材料だぞ。何でこんな量がここにある」
「倉庫に余っていたから」
リナは涼しい顔で答えた。
トールの眉間に皺が寄る。
「余る材料じゃねえだろ」
「うちでは余るの」
それ以上の説明はなかった。
アーガスもリナを見る。
数日前、材料を巡って言い争った時のことを思い出す。
彼女はその場では何も約束しなかった。
翌日、工房の資材置き場に銀糸の束が増えていた。
誰も礼を求めなかった。
アーガスも、今は言わない。
視線が短く重なる。
それだけだった。
「僕たちは、あの熊を殺せない」
アーガスがトールへ向き直った。
「は?」
「殺したら駄目なんだ」
トールの顔が険しくなる。
「捕まえて爪でも磨いてやるのか?」
「死体は、証拠として弱い」
アーガスは鉄床を軽く押した。
四百ポンドの黒鉄が、銀糸の先でゆっくり振れる。
「持ち帰った時点で、相手はいくらでも理由を作れる。普通の狂暴化だった。工房側が病変を偽装した。解剖記録を改ざんした。鉄木の腐食と熊は無関係だった」
揺れる鉄床を止める。
「バロックは、そういう逃げ道を使う」
アーガスの目が細くなる。
「必要なのは、生きた証拠だ」
図面を開いた。
「捕獲して、人前へ連れて帰る。身体に人工的な処置があるなら、その場で見せる。分泌物が鉄木を腐食させるなら、第三者の前で再現する」
指先が網の展開図をなぞる。
「誰か一人の証言にしない。見た全員を証人にする」
トールが黙った。
アーガスは続ける。
「だから殺傷力はいらない。必要なのは、あの身体を止める拘束力」
銀糸を見る。
「この網なら、それができる」
トールは髭を掻いた。
さっきまでの勢いが少し落ちる。
「……活きたまま引きずって帰る方が、確かに効くか」
「うん」
「首を持って帰るより、ずっと嫌がらせになるな」
「証明だよ」
「同じようなもんだ」
トールは鼻を鳴らした。




